上原くん(2)






 今までずっと黙っていた言葉だった。菊池がぎょっとした顔でこちらを向いた。姉さんは何も聞いていないような顔で土鍋の中身を菜箸でかき混ぜている。加賀は黙って缶ビールのプルトップをあげた。
「卑怯だ、あんな死に方。そもそも、なんで死んだんだ、あいつ」
 同じことを、湯河原で菊池に問いかけられたな、と思い出した。何の答えも用意できないからこそ、菊池は自分自身を疑ったし、俺は加賀を疑った。リコの死の先の時間を生きる、というのは、忘れていく、というような、単純な言葉で言い表せるものではなかった。凝り固まった時間を内部に抱え、容赦なく流れていく外側の時間の中で、何度も何度もあの日、あのメールを読んだ瞬間に戻る。三月二十日の夕暮れは少しだけ肌寒くて、空にはうっすら白い月がかかっていた。
「よせよ、そんな言い方」
 缶ビールをテーブルに置いて、加賀が言った。俯いていて、俺と目を合わせようとはしなかった。
「死んだ奴の悪口なんて言うな。ましてや、友達の悪口なんて」
 死んだ奴。加賀は本心からそう思っているのだろうか。リコが死んだなんて、本当は誰も信じてない。あれから一年近く経っているのに、誰も、俺自身も、動かしがたい現実の出来事だなんて思っていないし、たぶん、無意識的に、そう思うのを避けている。イワシのつみれがない鍋、ぜんぜん減らない梅酒、彼女の誕生日以後二度と見ることのなかった腕時計。今更、本当に今更、そんなことに驚かされる。いないんだ、なんてことをまだ思っている。
「死なせておいて、『死んだ奴』はないだろ」
 言っていいものか迷う暇もなかった。言葉は堰を切ったようにあふれ出す。反対に頭は驚くほど冷ややかに冴えていって、頭痛のようにリコのメールが反響する。菊池がおろおろと箸を置き、「ユーリ」と俺の肩に手を添えた。厚手のセーター越しに伝わるわけもない体温が伝わってきた気がして、ますます言葉は止まらなくなった。生きている側の人間にとってこんなにも不条理な死なんて、あるものか。
「どういうことだよ」
 加賀は俯いたままだったが、声はドスがきいていた。四年間同じサークルにいたのに、初めて聞く声だった。
「菊池の言う通りだよ。あんなメール残して死なれたら、こっちはたまったもんじゃない。なんの相談もなしに、なんにも説明しないで、いなくなってから『楽しかった』だなんて、俺たちはあいつが人生に飽きるまで付き合わされたってことかよ」
「あたし、そんなつもりで言ったんじゃないよ、ユーリ」
「じゃあどういうつもりなんだよ。おまえだって本当は、リコが死んだなんて思ってないんだろ。そりゃそうだ、あいつが死んだ理由もわからない、棺桶の中身も見てない、おまけに楽しい誕生日会の翌日に死なれるなんて。自殺したなんて信じろってほうが酷なくらいだ」
 菊池は酸素に飢えた魚みたいに口をあけたり閉じたりして、半開きの唇を震わせて黙り込んだ。作り話の悲劇みたいに、単純な悲しみや苦しみで割り切れるほど、現実の自殺は美しいものではなかった。俺たちが彼女の死によってどんな結論を得ようが、その結論がどんなに自責に充ちたものになろうが、自分には関係ないとでも言わんばかりに勝手に死を選んだリコにも、彼女の死の理由に一番近いところにいながらこの数カ月まったく口を開かない加賀にも、同じように苛立ちを感じた。この二人のやったことは、結局、周囲を徒に振り回すこと以外の何物でもなかった。
 中央の鍋から湯気が昇っている。テーブルの四辺にそれぞれ座っている俺たちの、互いの表情を隠そうとするみたいだけど、薄い霞みたいな湯気は結局何も隠してはくれない。
「もういいだろ」
 加賀が顔をあげた。缶にかけたままだった手を静かに持ち上げ、言葉も一緒に飲み込んだんじゃないかと思うほどたっぷり時間をかけて、ビールを一口飲んだ。一切をなかったことにできるかもしれない沈黙の時間は、ただ流れていっただけだった。
「リコが死んでから、もう一年近く経ってるんだ。もういいじゃないか、みんな傷ついているんだ」
 傷ついている、なんて言葉を、加賀の口から聞きたくなかった。俺はこんな手ひどい言葉を重ねて、加賀になにを言わせたいのだろう。ただ、傷ついただなんて、そんな言葉で括られることに、とてつもない違和感を覚えた。
「被害者ぶるなよ。俺が言ってるのはそういうことじゃない」
 真っ向から加賀の目を睨みつけた。戸惑いがあった加賀の瞳がさっと色を変えたのがわかった。
「俺たちは全員であいつを突き落としたんだ。おまえとリコに、そういうことにさせられたんだ。あんなメールを送りつけられてる以上、そう考えるのがふつうだろ。だから卑怯だって言ってるんだよ。死んだ理由を人に押し付けやがって」
「いい加減にしろ、上原!」
 とうとう加賀が声を荒げた。びっくりしたハナが一目散にテレビ台の裏に逃げ込んだ。俺は加賀を睨みつけたまま身構えたが、何事かを言いかけた加賀の言葉はそれ以上続かなかった。
 同人誌が顔面に飛んできたのだ。ずっと黙っていた姉さんが、突然菜箸を鍋に放りこみ、テーブルの端によけてあった同人誌を掴み取って加賀に投げつけた。加賀は乱暴に払いのけたが、口論が勃発するよりも先に姉さんが俺の口に生の白菜を素手でねじ込んできて、完全に双方タイミングを逸した。姉さんは毅然とした表情で俺と加賀と菊池を一人ずつじっと睨み、低く言った。
「わかった。リコの話をしましょう」
 生の白菜の芝生みたいなにおいが苦く鼻腔を突いた。儀式の準備をするみたいに、テーブルの周りに散らかったスナック菓子の袋やらコンビニのビニール袋やらを片づけ、鍋の周りを布巾で拭いて、改めてテーブルの四辺にそれぞれ座りなおした。いつもなら他愛もない会話をしながらの作業になるはずだったが、姉さんが重たい空気をごまかすみたいにテレビに合わせてCMソングを口ずさんでいる他は誰も声を出さなかった。
姉さんはリモコンを取ってテレビを消した。加賀が仏頂面で首の後ろをガリガリひっかいている。菊池はきっちりと正座していた。俺と目が合ったら、何に対してなのかわからないけど、謝っているような顔をした。説教を受けている子供みたいだった。
リコが死ぬ前日の、三月十九日の夕方、この部屋で、リコの二十一歳の誕生日パーティーを開いた。誰がどこに座っていたか覚えていないし、写真はリコが自分のケータイで撮影した一枚しか残っていないから、おぼろげな記憶でしか思い出せない。加賀が元住吉のフジヤでショートケーキを一ホール買ってきた。ケーキの中心のマジパンのプレートに「さとこちゃん」とチョコペンで書かれていたのを、リコは照れながらからかった。
「さとこちゃんなんて、一回も呼んだことないじゃない、加賀くん」
「うるさいな。ホールケーキなんて買うの、初めてで、なんか恥ずかしくて混乱したんだよ」
「これからさとこちゃんって呼んでもいいよ」
「もっと恥ずかしい」
「あたし、クリーム少なめでイチゴ多めのやつにして。フルーツダイエット中だから」
「菊池は注文がうるさい。自分でやれよ」
「ちょっと上原くん、クリームにのりたまかけるの、やめてくれない? こっちの食欲がなくなるわ」
 既にワインを空けていた加賀が酔っ払いながらナイフを入れたケーキは六等分とはとても言い難かった。五人で一切れずつ分けて、残りのひとつとマジパンはリコが食べた。
「ありがとう。わたし、こんなに盛大に誕生日祝ってもらうの、初めて」
 リコは何度もそうお礼を言った。姉さんから仰々しく腕時計の箱を手渡されたときには感極まって涙ぐむほどに喜んだ。盛大というか、こちらとしてはリコの誕生日にかこつけて飲み会をやっていただけだったし、しっちゃかめっちゃかな鍋と安物のケーキを囲むだけの、とてもささやかなものだったけど、今思い返せば、リコにとって人生の最後を飾る宴会がその日だった。リコがいつ、どこで死を決めていたのかはわからない。ただ、少なくとも誕生日会までは生きていようと決めていたのかもしれない。まったくの想定外だったとはいえ、結果論で言えば、俺たちはあの日、彼女をこの世から送り出してしまった。渋谷駅でリコと加賀と別れ、俺は菊池を中央線のホームまで見送った。最後にリコからなんと声をかけられたか、覚えていない。当たり前にまた会えるはずの別れだった。翌日の夕方、リコはあの腕時計を道連れにして三田の院校舎から飛び降りた。
 三月二十日のことはあまり細かく覚えていない。リコからメールを受けた午後四時ごろ、俺は休み明けの発表に備え、資料を集めるために大学に来ていて、その帰り際だった。高田馬場駅のホームでメールを読んだときは、まさか本当に遺書だとは思わなかった。妙なメールだと思って「なに?」と短く返信したが、リコからの返事はなかった。『鉄腕アトム』の主題歌が呑気に頭上を流れていた。一旦は電車に乗ったけど、読めば読むほど意味深に思えるメールにさすがに不信感を覚え、新大久保で降りて姉さんに電話をかけた。姉さんはとても狼狽していて、リコは、リコが、と何度も助詞を言いなおし、やみくもにリコを探しに出ようとしていた。その焦りを電話越しに感じたとき、俺は初めて緊張した。何が出来るわけでもなかったが、手当たり次第リコを探した。探した、というか、あれは互いに互いの不安を伝染させ合い、あたふたと相乗的に混乱をふかめていっただけのことかもしれない。今冷静に考えれば、年賀状でリコの住所を確認するとか、警察に相談してみるとか、できることは他にあったと思う。もちろん、たとえそうしていても、リコを助けられたわけでもなかっただろうけど、俺たちは互いがちゃんと生きていることを確認するみたいに一寸も進まない状況を確認し合い、連絡のつかない菊池にメールを送り、つながるはずもないリコのケータイに何度も何度も電話をかけた。夜九時過ぎに、姉さんから「今リコのお母さんから連絡があったけど」と決定的なメールを受けたときには全身の力が抜けた。どういうことだよ、加賀、なんでリコが死んでるんだ。当てずっぽうにリコを探しに来ていた新宿駅のロータリーから車の音が遠ざかり、地面がぐにゃぐにゃと沈んだ。菊池にリコの死を伝えたのは俺だったらしいが、そのときのことはまったく記憶にない。あの日のことで今もよく覚えているのは、肌の粟立つ感覚と、どうしてか、意味もなく鞄の中の本を探った自分の手の動きくらいだ。
「リコが死んだってわかったとき、私は真っ先に、キクちゃんを疑ったよ」
 はじめに口を開いたのは姉さんだった。唐突に名前を出されて、菊池が「えっ」と目を丸くした。
「合宿のとき、言ってたでしょ、キクちゃん、リコと喧嘩したって。あのとき、私も同じ喫茶店にいたの。二人が言い争ってるのがわかったから、キクちゃんがリコとトラブルになって、そのせいでリコが死んだんじゃないかって思った。もっと言うと、キクちゃんが殺したんじゃないかって思った」
「そんな」
「でも誤解だったのはわかったから、もういいの」
 そうですか、と菊池が目を落とす。疑っていた、なんて冗談にならないことを言っているのに、姉さんの口調はあっさりしたものだった。おそるおそるハナがテレビ台の裏から出て来て、姉さんは片手を差し伸べ、「ハナちゃん、おいで」と小さく呼んだ。部屋の様子をうかがっているハナの大きな黒目が、俺の顔を見た。
「それで、上原くんはなんで加賀くんを疑ったの?」
 よっぽど不機嫌そうに見えたのだろうか。姉さんは幼子に諭すような柔らかい声でそう尋ねた。ただ瞳には一切の妥協を許さない厳しさがあって、この人に嘘はつけないと俺は数秒で悟った。ため息と一緒に答えた。
「リコに相談されてたからです。加賀との関係に悩んでるって」
「関係?」
「付き合ってただろ、おまえら」
 姉さんから加賀に視線を移した。加賀は否定も肯定もせずに、ぐっと目を見開いて黙っていた。
 行き止まり、というリコの言葉を強烈に覚えている。加賀と付き合っている、とリコから聞かされたのは、去年の暮れだったと思う。サークル以外の場でリコと顔を合わせたのは、思えばそれが最初で最後だった。聞いてほしいことがある、と授業後の夕方に呼び出されて、新宿の喫茶店で落ち合った。リコなら姉さんに真っ先に打ち明けそうなものだし、恋愛の相談なら菊池という相手もいる。姉さんを選ばなかった理由は未だにわからない。ましてや俺はこと恋愛沙汰についてはまったくの門外漢だ。加賀とはそれなりに仲がいいけど、サークルの外でのことについてはお互いよく知らない。
「いくらキクちゃんでも話さないとは思うんだけど、やっぱりちょっと不安でね」
 リコがそのときふと天井を見上げ、「『ジュ・トュ・ヴ』だ」とBGMのタイトルを言い当てたから、あのとき店内にサティのシャンソンが流れていたのを覚えている。
「まぁ、あいつ、口軽いからな。加賀と付き合ってるなんて話、絶対すきだろうし」
 注文したアイスティーにタラコふりかけを浮かべながらそう応じたら、「とうとう飲みものにも入れるようになったんだね」とリコはその日初めて笑った。アイスティーにはタラコふりかけが合うんだよ、と教えてやったら、リコは警戒して自分のカフェラテをさっと手元に引き寄せた。
「いつから付き合ってたの?」
「十一月ごろ。ダメなのはわかってたんだけど、流されちゃったっていうか」
 直後にリコは慌てて「流れっていうのは違うけど」と言葉を打ち消した。右手が紺のカーディガンの袖をいじっていて、何かを言い淀んでいるのが伝わってきた。あんなニコチン中毒のどこがいいのか見当もつかなかったが、リコが誠実に加賀と向き合おうとしていることは、言葉を選ぶ慎重さから伝わってきた。
「それで、うまくいってないの? 加賀と」
 リコはちょっと困ったみたいに首をかしげたが、ゆっくりと頭を横に振った。
「加賀くんは優しいし、わたしも加賀くんがすきなの。すごく」
 そんなおノロケを聞きに来たわけじゃないんだけどなぁ、という感想が顔に出たのだろうか。リコはようやく白状した。
「別れなきゃいけないって思ってる」
「え、なんで?」
「わたしと加賀くんは付き合っちゃいけないの、本当は。もうここで行き止まり」
 割れるみたいに、リコは微笑んだ。アイスティーのグラスに水滴が伝っていた。
「付き合ってたよ、ほんの三カ月くらいだったけど」
 加賀は観念したみたいに認めた。コンロは火を止めていたが、鍋は余熱で温まっていて、白菜はくたくたになっていた。端っこに俺の歯型のついた白菜が浮いている。
「なんで黙ってたの?」
 単純に疑問だったのだろう。菊池が身を乗り出して尋ねた。
「リコに口止めされたから」
「だろうな。俺に打ち明けたときもずっと『ダメだ』って言ってたし」
 本当は結ばれちゃいけないなんてメロドラマみたいなこと言ってるなぁこいつ、なんてあのときは思ったけど、直後にリコが告白したのはメロドラマを地で行く話だった。リコはあのとき、相談してなんらかの解決を得ようとしたというよりは、単純に、抱えがたかったのだと思う。わかっていてもどうしようもない、どうにもできない。そんなことが、ときに容易に起きてしまう。
「なんでだろう」
 加賀がぽつんと言った。缶ビールに口をつけたが、もう空だったらしい。姉さんが冷蔵庫から新しい缶を取って加賀に渡した。加賀はプルトップをあげ、独り言みたいに話した。
「なにが『ダメ』だったんだろうな。僕、振られたんだよ、本当に突然」
「は?」
「いや、上原には相談してたんだろうけど、こっちにとってはマジで突然だった、ってこと」
「ちょっと待って」
 頭から冷や水をぶっかけられたみたいな気分だった。
まさか、まさか、そんなわけない。加賀に話すって言ってたじゃないか、リコ。
「なんて言われて振られたんだ」
「珍しいじゃん、ユーリがそんなこと聞くの」
「茶化すな。なんて言われたんだ、加賀」
 口を挟んだ菊池が押し黙る。
加賀は菊池に合わせて少しだけ自嘲気味に笑ったが、ビールと一緒に笑顔まで飲み込んで首を振った。
「何も言われなかったよ」
「何も? 本当に何も?」
「何も。『これ以上はダメだ』とだけ」
 加賀は怪訝そうに「なんで?」と聞き返した。
俺はため息をついて天を仰いだ。崩れ落ちるみたいに悟った。
 嗚呼、なにも、知らされてなかったんだ。
「やっぱりあいつは卑怯だ」
 思わず、笑ってしまった。情けなく揺れる笑い声は自分のものじゃないみたいだった。鍋から弱々しく上がる湯気にリコの顔が浮かぶ。細い顎、胸まで伸びた長い黒髪、微笑んでいるような形の唇、少しだけ斜視で、黒目がちの眼、コンプレックスだという頬のそばかす。少女みたいな健やかさや危なっかしさを、そのまま写し取ったような容貌だった。悪気なんて欠片もないのに、よかれと思ってやったことがことごとく裏目に出てしまったり、無条件に物事がいい方に転がると簡単に信じてしまったり。死んでしまってから時間が経てば経つほど、あの無邪気な口ぶりや表情が鮮明に蘇る。でも、おまえは卑怯だよ、リコ。逆回りの腕時計に語りかける。
 入学当初、明治大学のジャズサークルに籍を置くと決めていた加賀を、なぜリコは強引に福永武彦研究会に入部させたのか、なぜリコに父親がいなくて、なぜ「ダメ」なのか、その答えを、加賀は知らなかったのだ。
「おまえら、兄弟だったんだよ」





inserted by FC2 system