製罐のポー






 鉛筆を置いてのびをした。紙にあたる手の部分が艶のある灰色に染まっていた。長いあいだ画用紙に鉛筆をすべらせていたせいだ。
 目の前にあるセイタカアワダチソウは庭に生えていたものだった。種からも地下茎からも増える繁殖力の強い雑草で、教室に入る前に庭で草むしりをしている友里さんを見かけて一本わけてもらった。花壇の横に積み重ねられた雑草のなかで、一番長くて葉のしげったものを選んだ。もとは鑑賞用の植物としてアメリカから入ってきたのだけど、今は日本在来の植物を駆逐してしまうやっかいな外来生物として扱われていると教えてもらった。
 四月に入り春の陽気が少しずつ光を強め出してからは、私が訪ねていくと庭に友里さんの姿を見つけることが多くなった。四季の花が絶えず見栄えのよい配置で花を咲かせるように、せっせと手入れをしていた。庭には友里さんの手ひとつで季節が流れた。
 土から根を断たれたセイタカアワダチソウの葉は時間が経つにつれてうすぼんやりと、精気をなくしていった。葉脈の感じが気に入らなくて消した葉をもう一度書きなおそうと目を向けたときには、初春の太陽が葉に込めたみずみずしい弾力は消えていた。葉が力を失ってからは、茎のところどころにこびりつくように集まっているアブラムシばかりが目についた。ごまをまぶしたみたいだった。針の先ほどのわずかな隙間をあけて、アブラムシ同士は隣合っている。近くで息を吸ったら、空気にまぎれて肺に入ってくるんじゃないか。胸の底を掻き乱すような小さな生き物だ。大きなものが一匹いるより、小さなものがぎっしりと集まっているほうが不気味な迫力がある。ほとんどのアブラムシは自分の場所から一歩も動かない。ときどき何の用事があるのか、仲間の背を這うように歩いてどこかに向かうやつがいた。
 絵画教室には高校の頃から通っている。美術部に入部したものの、部員数が少なくろくに活動日もない部活に文句を言っていたら、母が近所に絵の教室があるのだと探してきてくれた。
 さっそく学校のない休日に電話を入れて見学に行ってみた。教室の扉をあけると、白いエプロンをした友里さんが絵を描く子供たちの間を通りながら、ときどき立ち止まって腰を曲げ、子供の耳元で何か絵に関しての助言をしているのが目に入った。飾り気のない細い指が、塗りつくされたキャンバスに向けられていた。
 私は教室の壁際に椅子をひとつ置いてもらい、しばらくその様子を眺めていた。教室は自宅の一階を改装してつくられていた。一階部分の全てが絵画教室の一部屋にあてられている。四人掛けの大きな机が二つあり、椅子に座った子供たちは机に絵具や筆洗いを置いてイーゼルに立てたキャンバスに向かって一心に手を動かしていた。ときおり隣の子をつついてみたり、巡回する友里さんに話しかけた。ちょうど学校の美術室のような光景だった。
 壁ぎわには腰の高さの棚があって、それが部屋を一周していた。中には本がいっぱいに並べられていた。子供たちの様子を見ることに飽きると、振り返って棚を眺めた。植物や動物の図鑑、外国の地図や有名な画家の画集、数えきれないくらいの絵本、銀河の惑星写真集、レタリング辞典の隣にはライト兄弟の伝記。分類別に分けられた図書館の本棚を全部ぶちまけて、適当に棚に戻したらこんなになるんじゃないかというような取り合わせだった。棚の上にも所せましと物が置かれていた。ガラスや陶の花瓶にはたくさんの筆が立てかけられ、未使用のキャンバスは高く積み上げられていた。私の後ろには古びた昆虫標本が立てかけられていた。仕切りつきの木箱にはクリップや画鋲が収められ、折り紙で作ったいくつかの箱のなかには植物の種が種類別に入れられていた。ひとつひとつあげていけばきりのない大量のものが、こまごまと部屋一周の棚の上を占領していた。
 そのどれもが、無造作に放り投げるように散らかっているという風ではなかった。几帳面とはいかないまでも心地良い程度に整理され、(たとえば重ねたキャンバス同士にずれはなく、筆は丁寧に洗われていた)大切に扱われているように見えた。壁にも数えきれないほどのポスターや写真が貼り付けられていた。聞いたこともない地名が並ぶ地図や、美術館の半券まであった。大きな白い木枠の窓からは庭が見えた。
 教室を隅々まで眺めまわしていると、子供の絵から顔を上げた友里さんと目があった。彼女はエプロンの端を、次に見てもらおうと待ち構える女の子に引っ張られていた。友里さんは、ちょっと待ってね、というふうに微笑んだ。
 私は友里さんがきたらお礼を言って帰ろうと思っていた。窓からは涼しげな風が吹き込み日の光が揺れる教室には午後のいい匂いがしていたけど、自分より年下の子供たちに紛れて絵を習うというのは気恥しかった。部活がない分の暇な時間は、いずれくる受験に備えて勉強でもしていればいいじゃないか。そう思いはじめていた。
 でも大学四年生になる今までこうして週に一度、絵画教室に通っている。見学の日、絵画教室を出る前に気が変わる理由が二つあったからだ。ひとつは夕方の遅い時間であれば子供たちが帰って静かであると言われたこと、もうひとつは、帰り際に壁のポスターに埋もれるようにして貼られた三枚の写真を見つけたからだった。
 私はひと目で、それが小樽の町を切り取ったものだとわかった。雪に埋もれた運河、どことなく寂しげな商店街、北海製罐第三倉庫。三枚とも銀色の画鋲でしっかりととめられていた。  
 行ったこともない北の町だ。小学生のとき、四年間も好きだった初恋の男の子が転校し、大好きだった先生が退職して行ってしまった町だった。
 オタル。東京から出たことのない私には耳慣れない地名だった。その頃の私には漢字も難しかった。ただ、なんで一番好き人ばかりがそんなに遠くて寒そうなところに行ってしまうのだろうと思った。男の子が転校したときは、その地名は頭の片隅にとどめられる程度だった。住所を聞く勇気も特別にさよならを言う勇気もなかった。夏休みに引っ越すと聞いて、彼との残りの一学期を大切に過ごした。子供の私は時間はいつも無限にあるように思っていたし、小学校の六年がいつか終わってしまう時間だとはよく理解していなかった。だからそういうふうに、時間というものの存在を意識し、それが目減りしていくのを感じたのはそのときが初めてだった。毎朝目覚ましが鳴って寝る前にトイレに行くことが、一日一日を強く区切った。終業式の日は彼の席ばかりに目がいき、声をかけることもできないまま通知表をもらって家に帰った。
 彼が転校した半年あと、先生が小樽に行くと聞いたときにはあっと声をあげそうになった。記憶のかたわらに形ばかり置かれていた小樽の地名をすぐに思い出した。そして時間は減っていくものだというあの感触も、体のどこからかわきあがってきた。
 先生が学校を去ってから、図書館で小樽に関する本を探した。司書の人に聞くと北海道の観光ガイドと小樽の町の風景を写した写真集を見つけてきてくれた。町の様子をくまなく写し出した本は結構な厚さのものだった。一ページ目から最後のページまでを順番にめくって、それからまた最初のページをひらいた。二人がその風景のどこかで変わらず生活していることを想像して、彼らを近くに引き寄せようとしてみた。この写真の建物の影に、車の群れのどこかに、彼らはいるかもしれない。私の指がなぞっている道を歩いているのかもしれない。それは二人にはおなじみの道なのかもしれない。重いから借りて帰るのはためらわれたのだけど迷ったすえに貸出カードに名前を書いて、夜のベッドのなかで眠たくなるまで眺めた。
 小樽は明治大正と、北海道開拓の玄関口として栄えた。石造倉庫が建ち並び、回漕店、問屋、銀行が当時のままに姿を残している歴史の町だと解説があった。洋風の近代建築の頑強そうな建物が、そこが遠い町であるという感慨を強めた。街灯の並ぶ町の運河が、一ページ目に大きく印刷されていた。かつてはたくさんの船が走り、運河沿いの倉庫に荷を出し入れしたのだろう。役割を終えた南の運河の半分は埋め立てられて道路になった。道には銀杏模様に御影石が敷き詰められ、観光客のためにガス灯が建てられた。
 私は何度もその道を歩いたことがある、と思う。あまりに熱心に写真に刻まれた風景を見たから、そんな気持ちになってしまう。肌を通り抜ける冷たい風を、体に受けた気がする。揺れる水面がはねかえす北の町の光を、目に焼きつけた気がする。
 時々ふとした瞬間に本で見たカラー写真の光景がよみがえってきて、自分が歩いている町の景色にまざり合うようになった。鳩のとまったありふれた近所の街灯が小樽の運河沿いに並ぶ灯りに見えたり、薄暗い曲がり角の先に船着き場が広がっているような気がする。頬を伝う風は海やってからきたのだと思う。私が住む東京郊外の町には、もちろん海なんかない。
 教室の壁で見た製罐工場は、私がかつて見た写真に写されたものと同じ印象を残した。どちらも曇り気味の空を背景にしていたからだろう。工場は運河の北の方にある。ひっそりとした北運河は二十メートルに縮小された南運河に対してかつての四十メートルの川幅を持ち、今でも小型船が係留しているという。小学生の私が食い入るように見た工場は灰色が深く、六階建の建物の影は張りつように黒く水に映っていた。もうひとつ別の建物が、運河の底に沈んでいるようだった。
 見学の次の日に、教室に通うことに決めたと電話をかけた。友里さんは嬉しそうに受け答えをし、汚れてもいい服を着てくるか、エプロンを持ってくるように言った。
「ねえねえ、干し芋焼いたんだけど食べない?」
 私が手をとめたのを見計らうようにして、友里さんがやってきた。お盆には焦げ目のおいしそうな干し芋と緑茶がのっていた。生徒の少ない時間帯にくると、友里さんはおやつを持ってきてくれる。教室に染みついた絵の具の匂いと芋の香ばしい匂いがまざった。教室に通い始めたばかりの頃は油絵具の独特の匂いのなかでお茶を飲んだりお菓子を食べたりすることに抵抗があったけど、次第に慣れて午後のお茶には絵具の匂いがしないと落ち着かないくらいになった。
「お芋が好きなんですか? この前のスイートポテトもおいしかったな」
「私は芋が主食でもやっていけるわ。それ、ずいぶん熱心なデッサンじゃない。その雑草これからの季節どんどん生えてきてほっとくと倍くらいの背丈になるのよ」
「へえ、そうなんだ。ところでエプロン、この前よりひどく汚れてますね」
 私は黄色いエプロンを指さした。
「この前筆を持ちながらうとうとしてたらお腹のところが真っ赤になってたの。起きてびっくりしたわ」
 友里さんはセイタカアワダチソウの横にお皿とお茶を置いた。それから離れた場所で絵を描いているおじいさんのところにも、お茶と干し芋を運んで行った。月曜日の午後、いつもの組合わせだ。友里さんとおじいさんと私。月曜は三時を過ぎると他の生徒はこないらしい。絵画教室に通いはじめて七年が経つけど、生徒の数は年々減ってきている。
 教室といっても授業のように手取り足取り何かを教わるということはない。何を描いてもいいし、どれだけ時間をかけてもいい。場所を提供しているようなものなのよ、と友里さんが言っていたことがある。家で絵を描くと一緒に住んでいる家族に油絵の匂いを嫌がられる人がいるし、教室にくれば絵を描く仲間とのおしゃべりが楽しめる。忙しい日常のなかに時間を設けて趣味に集中することができる。
 友里さんは質問したときに答えてくれ、時おり絵を覗きこんで率直な感想を言った。助言を受け入れると、自分で運んでいるはずの鉛筆や筆の跡が私の手を離れて自由に動きだす。ぎこちなく刻まれていた線がのび、筆の絵具は朝の空気のように広がっていく。不思議な手ごたえが筆を伝って流れ込んでくる。
 私とおじいさんが集中して絵を描き始めると、友里さんは筆を洗ったり戸棚を片付けたり、自分も絵を描いたりした。こちらがひと段落した頃合いを見計らって、絵を見て言葉をかけたりお茶を入れてきてくれる。
 おじいさんと私のお気に入りの席は離れていて、話すことはほとんどない。教室を入るときと出るときに、こんにちはとさようならを言い合うくらいだ。関わりはあまりないけど、おじいさんがいる教室の風景が落ち着いて居心地がいいと感じる。月曜の教室を訪ねると、大体おじいさんの方が先にいて絵を描きはじめている。帰りは私の方があとになるので、教室の棚に片付けられた描きかけの絵をこっそり覗いてみる。
 時たまおじいさんがこないことがあって、その日は私と友里さんの二人きりになる。私たちは気が合って、教室を閉めたあと一緒に夜ご飯を食べたりする仲なのだけれど、夕方の教室のひとときにはおじいさんがいた方がいいな、と思う。その方が月曜の午後のこの空間が、ぴったりとあるべきところにおさまっているという気がする。
 いつの間にか二階に上がっていたらしい友里さんは、急須を持って隣に座った。自分の分の干し芋の皿もしっかり持ってきている。
「おかわりどうぞ」
 空になった茶碗にお茶をついでくれた。
「ありがとうございます」
 友里さんが急須を傾けている間、私はエプロンに染みついた絵具の汚れをたどった。お気に入りらしい黄色のエプロンは、あまりにも多くの絵具で汚れて、もとの色がぱっと見ただけではわからないくらいになっていた。
「あの絵、新しく増えましたか?」
 私は壁の絵を指さした。毎週見ている教室の壁だけど、あまりにもたくさんのものが貼り付けられていて、はがされたものがあっても増えたものがあってもわからないことがある。気付いていないだけで、前からあったかもしれない。
「『デルフト眺望』。フェルメールの」
 友里さんは答えてから、干し芋をかじった。
「押し入れにあったポスターを引っ張り出してきたの。たまには張り替えないと同じのばっかりじゃ退屈するでしょ」
「前には何が貼ってありましたっけ?」
「ええと、大きな星座早見表。気に入ってたんだけど、子供が筆を持ったまま走り回って蟹座と双子座がべっとり汚れちゃったの」
 そう言われて、そういえば大きな星座の表がなくなっていることに気付いた。丸い夜空を背景に、無数の白い星が散っていた。星と星を繋いで動物や物の形を表す線は、深い紺色の空に引かれるには細すぎて遠くからはよく見えなかった。
 友里さんは干し芋をかじりながら、新しく貼られた絵をながめていた。
「昔一度見たことがあるんだけど、本物はとてもいいのよ。オランダの、マウリッツハイスという美術館にあるの。裏手が池になっている綺麗な建物でね。この絵の部屋に入ったとは誰もいなかった。窓の外の音がほんのわずかに聞こえるくらいで、とても静かだった。旅行中、ホテルで寝付く前より静かだったのよ。雑音や空気の流れを、絵が全部吸いこんでしまったような」
 ポスターに見入る横顔を見た。何かを探しているような、よく濡れた目だった。瞳の奥のほうから、友里さんの記憶や時間がひっそりと光を放っているような目。私の絵を見て、何か言葉を発するまでの間に見る表情と同じだった。
 私もポスターの絵をじっと見つめた。ふと、友里さんが絵の前で感じた静けさというのは、時おり私が教室で感じるものと同じなんじゃないかと思った。私が筆を動かし、おじいさんがキャンパスを見つめ、友里さんが棚の本に手を伸ばす前の一瞬、静寂が鋭い針のように流れる時間に食い込んであたりの空気をとめる。それに気付いてその正体が何なのか確かめようとしたときには、窓を揺らす風の音がもう耳に障っている。きっと友里さんは絵の前で、その静寂をはっきりと感じとり、記憶にとどめておけるくらい長い間体験したのだろう。
 あけられた窓から風が入ってきた。開いた花のしべのにおい、つぼみの隙間からもれ出る閉じ込められたにおい、葉の裏の影のにおい、いろんなものがまざり合いながら教室を満たした。
 絵を描いていない時に二人の間に沈黙が訪れると、私の目はつい友里さんの左胸にいってしまう。左胸は当然のように、右側と同じ分だけの穏やかな膨らみをもって、エプロンの奥に隠れているように見える。ちょうど今日のような、春の柔らかな体温を宿しているのではないかと思う。
 でも友里さんの左胸は、三年前に癌で失われている。絵画教室が長い休みから再開された時、こんなものはいくらでも下着でごまかせるのだと友里さんは笑った。
 椅子が動かされる鈍い音がした。おじいさんが帰り支度を始めたらしかった。友里さんは立ち上がって、おじいさんを手伝いに行った、おじいさんが絵をのけると、友里さんはイーゼルをたたんで棚の上の空いているところに寝かせた。おじいさんの服が絵具にあたってチューブが落ちた。その小さな音は私の耳にも聞こえた。友里さんはおじいさんが絵具を落したことに気付かないうちにチューブを拾って絵具入れに収めた。机の上が片付いても、二人は何やら話をしていた。
 いくらか縮んでしまった植物の続きを描く気にはなれず、手持無沙汰に急須を傾けてみたがもうお湯はなかった。なくなりかけたお茶を飲んで、窓の外を見た。庭の向こうを、自転車の女の子が走り去って行った。友里さんは全部知っているのだろうけど、窓から見える花の名前は半分もわからなかった。これから温かくなれば、もっとたくさんの花が咲くのだろう。
 立ち話を終えたおじいさんは私の横を通り過ぎる時、「さようなら」と言った。心なしか、普段より丁寧な会釈だった。私も茶碗にそえていた手を膝にのせて、さようならと言った。遠くで見ても近くでも見ても小さな人だった。教室の棚の隙間に、すっぽりと入ってしまいそうな体をしていた。キャンパスに向かって背を丸めながら夢中で絵を描いているうちに、いつの間にか体が小さく固まってしまったと思わせるような背中だった。おじいさんは絵具のバックとは別に、左手に紙袋を提げていた。いつもは教室の網棚で乾かしておくことになっている絵が入っているのだろう。
 絵画教室は来週の月曜にはもうおしまいになっている。半年くらい前から、生徒数が減って採算が合わなくなったため教室を閉めることにしたのだと伝えられていた。だからおじいさんは、デパートの紙袋に入れて絵を持って帰らなくてはならない。
「上手でしたね。おじいさんの自画像。十歳くらいは若く見えたけど」
 おじいさんを送って戻ってきた友里さんは自分の絵具とキャンバスを用意して、向かいの席に座った。
「あのおじいさんは教室を開いて一番最初のお客さんだったの。それからあれは自画像じゃなくて、双子の弟さんのだそうよ」
「双子の?」
「弟さんの最後の写真が水に濡れて痛んでしまったから、自分で絵にするんだって。そう言ってたわ」
 友里さんはいつもの癖でイーゼルに立てかけたキャンバスの表面を手ではらった。私はおじいさんの顔を思い返そうとした。でもおじいさんの顔のはっきりとした面影はどこを探してもなかった。同じ教室にはいても、すれ違い際に挨拶を交わす程度の間柄ではまともに顔を見ることはなかった。絵の中の人物がぼんやりと浮んだ。緑のセーターを着て、口元がひらく寸前のようなひかえめな笑みを浮かべていた。ずっとおじいさんだと思っていたけど、そうではなかったんだ。
「自分と瓜二つの兄弟がいるのって、一体どういう気分なんでしょうね」
「容姿が同じで誕生日が同じで、年が同じ。さあ、想像もつかないわね。でも本人たちにとってはごく自然なことなんじゃないかしら。だって生まれた時から姿形の似通った人間が、ずっとそばにいたわけだから」
 おじいさんの筆は、双子の弟の輪郭を辿っていった。時間を早送りするように、絵具は月曜の午後がくるたび厚みを増して、弟の額や頬にしわをつくった。
「でも兄弟と誕生日が同じって損なものよね。私も三つ下の妹と誕生日が一週間しか違わなったから、同じ日にまとめてお誕生日をされたの。ケーキが二人でひとつで、ろうそくも二人で一緒に消すんだけど、それが嫌だった。誕生日の楽しみを妹と半分ずつ分け合わなくちゃいけないみたいで。誕生日って、もっと大事にお祝いされるべきものなのよ」
「ろうそくは、二人の年齢を合わせた分?」
「ううん、適当な数よ。五本の時もあったし十本の時もあったし」
 友里さんはそう言って、次に使う絵具を探しはじめた。八百屋で新鮮な野菜を選ぶみたいに、迷う指がひとつひとつチューブに触れながら移動した。白い絵の具のチューブはぺたんこに潰れていた。
 そういえば私はニ十歳の誕生日を友里さんに祝ってもらった。今が二十二だから、二年前だ。絵画教室を閉めたあと近所の商店街で出来あいのお惣菜を買い、チキンを買い、高くはないワインを買った。二階に上がって夕食を食べるのは、二度目か三度目だったと思う。二階の自宅には一階の教室に劣らず物があふれていた。教室の棚と同じでひとつひとつは丁寧に扱われ整理されている印象なのだけど、一人暮らしにしては余計なものがたくさんあった。扉が硝子になって中が見える大きな食器棚には、珈琲カップだけでも十個はあった。
 買ってきたワインをついで乾杯をしてから、私たちはいつもと変わらない種類の雑談をした。私は大学の健康診断でこの年になって身長が二センチも伸びていたことを話し、友里さんは生徒の母親から教室に通わせたのに美術の成績があがらなかったと文句を言われたことを話した。
「算数でも国語でもなくて美術の成績よ。美術の成績なんてこの世で最もくだらなくて、どうでもいいことのひとつよ。近所の猫が私の庭に糞をしていくことに比べたら、問題でも何でもないわよ」
「だいたい美術の成績って半分は筆記テストだから、友里さんに罪はありませんよね」
 二人がそれぞれ気持ち良く酔ってきた頃、友里さんは教室の壁に張られた三枚の写真の話を始めた。私が入り口近くにある写真を、教室に入るときと出るときに目にするのに気がついていたらしかった。
「住んでいたの?」
 懐かしさから熱心に写真を眺めているものと思ったのか、そう聞かれた。私はワインを一口飲んだ。
「行ったことはないけれど、よく知っている町なんです」
「行ったことはないけれど、よく知っている町」
 友里さんは私の言葉を不思議そうに繰り返した。自分が言って友里さんが繰り返した文章を、もう一度胸のなかで繰り返した。行ったことはないけれど、よく知っている町。確かに変かもしれなかった。
「あれ、主人が撮った写真なのよ。彼の引き出しの中を整理していたら出てきたの」
 写真の話をする頃には、もうワインは瓶底に薄く残るくらいになっていた。私は最初の一杯を半分減らしただけだっけど、お酒に弱いからすぐに酔っぱらってしまう。友里さんは冷蔵庫からビールを出して蓋をあけた。ごぼうのサラダを頬ばると、冷えたマヨネーズが甘かった。
「あの、運河沿いの工場の写真があったじゃない」
「北海製罐、第三倉庫」
 写真集で見た文字を思い起こしてそのまま読んだ。
「主人が学生時代に小樽に行った話をしていたことがあったんだけど。そのなかでよく覚えているのが運河沿いの工場のサイレンの話なの。朝から確か夕方四時半まで、一日五回屋上にあるサイレンが鳴るんだって。仕事の始まりと終りの時間とか、休憩の時間を知らせるの。もしかしたらあの写真の工場かもしれないわね。大正時代からずっと鳴ってるんですって」
「ずいぶん年季が入ってるんですね」
「はじめて聞いた時、あんまりけたたましい音だったから主人はびっくりしたみたいよ。宿の人に聞いてみたら町の人たちは慣れっこで、「製罐のポー」って呼んで、時計代わりにしているらしいの。どう聞いても馬鹿でかいウウウウーっていう音に聞こえるんだけど、町の人はポーが鳴ったって言うらしいわ」
 友里さんは缶のままビールに口をつけた。私は水に映った工場の影を思い出した。行ったこともない小樽の記憶の中に、そのサイレンの音が付け加えられた。けたたましいサイレンがあたりの空気を震わして、町の時間を動かす。
 おかずをあらかた食べ尽くしてしまうと、冷蔵庫からケーキを取り出してきて二人でろうそくを並べた。私はいいと言ったのだけど、友里さんはお店の人に頼んで二十本ろうそくを貰った。ホールのケーキにろうそくを並べて誕生日を祝うなんて、久しぶりのことだった。
「今さら気がついたけど、二人だとこのケーキって大き過ぎるわね」
「でもにこれだけろうそくを立てるとなると、このくらい大きくないと駄目ですよね。あまり小さいと、ろうそくを抜いたあとがハチの巣みたいになっちゃうから」
 私たちはろうそくを並べて、友里さんはマッチを探してきて火をつけた。電気を消した部屋のなかで、ニ十本のささやかな灯りが友里さんと私の顔を照らした。酔っぱらっているせいか火に照らされたせいか、友里さんの顔はいつもと違うように見えた。
「ちょっと、見てもらいたいものがあるんだけど」
 ケーキを食べ終わった後、友里さんは私が手をつけていない二缶目のビールをあけながら言った。舐めるように一口だけ飲んで席を立って、奥の部屋に手招きした。友里さんは月順に積み重ねられた雑誌の山や、ビデオの詰まった段ボールを通り過ぎて木製のタンスの前にしゃがんだ。そして六段のたんすの一番下の引き出しをあけた。五本の指をしっかりとかけて、まるでこれから何か大切な儀式を執り行うというような慎重な動作だった。
 音もなくあけられた引き出しには大量のブラジャーが収められていた。私も友里さんの隣に同じようにしゃがみこんで、ブラジャーのうえにしばらく目を泳がせた。
 蝶の羽より薄いレースがあしらわれているもの、白地の布に目立ち過ぎない柔らかな桃色の縦じまが入ったもの、小花が散らしてあるもの、中心いくほど色の薄くなる水色のグラデーションのもの、とにかくたくさんの枚数があった。パステルの淡い色調のものが多くて、真っ赤だったり真っ青だったり、そいうはっきりした色のものはなかった。タンスは横幅の広いものだったけど、一番下の引き出しは全面がブラジャーのためのスペースになっていた。
「これ」
 私はなかば言葉を忘れてブラジャー畑に見入っていた。友里さんは手前の一枚を指でなぞった。
「左胸がなくなってから、下着売り場の前を通るとたまらなくブラジャーが欲しくなるようになったの。デパートや近所の衣料品店や、下着専門店や、とにかくどこでも。気に入ったものがあると買わずにはいられないの。お金も馬鹿にはならないのよ。数えてみたけど、三百枚以上はあるわ。最初はこの一段だけだったんだけど、この上の引き出しにも、その上の引き出しにも入ってるの」
 友里さんはそう説明して、タンスの横をゆっくりと撫でた。
「身に付けたことがあるのはこのなかではほんの少しの数よ。だって、一人の人間に三百枚のブラジャーなんて必要ないでしょう?」
 何と返していいものか迷い、曖昧にうなずいた。そして二人でしばらくブラジャーの群れを眺めていた。ブラジャーに触っていいかと聞こうとしたけど、自分がそうする理由はどこにもない気がしてやめておいた。
 友里さんはふいに私の方を向いた。目が合ったかと思うと私の左胸に手を置いた。小刻みに筆を揺らす、右のてのひらだった。突然のことだったのに、不思議と驚きはしなかった。
「ねえ、左胸がないということは、きっと何でもないことなのよ。絵具が一色なくなるのとおんなじよ。オレンジ色がなくなっても、黄色と赤色を混ぜたらオレンジ色ができるわ。そりゃ混ぜる手間はかかるかもしれないけど、本当に不便することはないはずだわ」
 友里さんの手が置かれた左胸は、太陽に照らされた道端の石みたいに熱くなった。
「私はただちょっと、あるべきものがないという違和感にまだ慣れないだけなのよ」
 友里さんの手が離れた。友里さんは私の目を見た。私もその目を見ようとしたのだけど、酔いのまわった頭では黒い瞳の真ん中に焦点を合わせたつもりでも、視界は頼りなく揺れた。友里さんが引き出しをしめて立ちあがると、私たちは何ごともなかったようにテーブルに戻った。
 食べかけのケーキに再び手をつけてみたけど、やっぱりホールのケーキは二人には多過ぎた。生クリームの甘い香りが喉の奥にはりついてたまらなかった。水っぽい苺を食べると、それがほんの少しすっきりしてあと一口は食べられそうな気分になる。でもお腹の空きに対して量が多過ぎることに変わりはなかった。最後の一切れを残して友里さんが「降参」と言うと私も「降参です」と言った。ブラジャーのことは忘れたように、二人は笑い合った。
 お茶を入れてひと段落するとトイレを借りた。私はトイレに立つ時と戻ってくるとき、改めて部屋のなかを見渡した。人の家にくると、ついカーテンの柄から棚の隙間まで観察するように見てしまうのが癖だった。 
 トイレの前の洗面台には、埃をかぶったシェービングクリームがあった。動かすことのできない重い石のように、鏡の前に置かれていた。
 蛇口の冷えた水が手に当たると、少しばかり酔いがさめた。鏡の自分と目を合わせながら、見たばかりの友里さんのタンスを思い出した。大量のブラジャーを目にし左胸に手を当てられたさっきの出来ごとは、現実の世界に巧妙に混ぜ込まれた夢のようだった。あのときブラジャーに触っておけば、タンスの一面に広がる光景が夢でないと確信できたのだろうか。
 そんなことを考えながら、私は古びたシェービングクリームに手をのばした。しかしその細やかな埃と爪先が触れ合いそうになったとき、思いとどまった。
「今日の夜ご飯だけど、何がいい?」
 キャンパスから顔を上げた友里さんが言った。私が教室に行く最後の日は、二人で夕食を食べる約束をしていた。
「私の一番のごちそうは、卵かけご飯とワインなんだけど」
 友里さんは言いながら、エプロンのポケットに手を突っ込んだ。彼女曰く、卵かけごはんとワインというのは至上の組み合わせらしい。どこでその奇怪な組み合わせと巡り合ったのかは知らないが、これに関しては穏やかな友里さんが一歩も譲らない。
「でもさすがにそれじゃ寂しいから、うーん、すき焼。すき焼きはどう?」
「いいですね、それ」
「鍋ものなんかここ何年もやってないんだもの。肉と糸こんにゃくと、春菊とお豆腐。あと卵も。とにかく商店街に行きましょうか。上で支度してくるわね。冷蔵庫に何か残ってたかしら」
 友里さんはエプロンをほどいて教室を出て行った。待っている間、セイタカアワダチソウの茎のところにアブラムシを描き加えていた。気のせいに違いないのだけど、植物の方が萎れて縮んでいく分だけ、アブラムシはさっきよりまるまると太って艶を増したように見えた。
 商店街は歩いて十分ほどのところにある。まだ夕方になると肌寒く、友里さんは黄色のカーディガンを羽織っていた。短い商店街を歩いて適当に食材を買い求め、つまみのサラミやするめもしっかり買って、最後に肉屋に寄った。今日はご馳走させてよね、と言って、友里さんは一番値段の高い牛肉を買った。
 それから二軒隣の衣料品店の前で足を止めた。
「ちょっと見てもいい?」
「ええ、いいですけど」
 横を歩いていた私に目配せして彼女は店の中に入っていった。
 店の入り口を入ると、地層のように積み重なった厚い毛布が視界を占領した。その横には、洪水対策に川岸に置かれる砂袋のように、多数の枕が積み上げられていた。天井からはショルダーバックがつり下げられ、壁には男性用のベルトと女性用のベルトがごちゃまぜになってかけられていた。狭い店内にできうる限りの商品を詰め込もうという店主の意気込みだけは感じられた。友里さんのあとについていくには、ハンガーにかけられた洋服の林を抜けなければならなかった。通り道の確保もままならないくらい物が溢れていて、それをくぐる手間暇によって狭いはずの空間は倍くらいに感じられた。
 何を買いにきたんだろう。そう思ったとき、友里さんは立ち止った。
「いいブラジャーっていうのは、手にとっただけでわかるの。サイズなんか確認しなくても、こうやって二つの、丸い膨らみに手をあてて、裏側を見て、ワイヤーを撫でてみたら、私にはそれだけで十分。あとは柄さえ好みにあえばいいというわけ」
 友里さんは学校の先生のように、ワゴンからとったブラジャーを私に見せて言った。突然のことに、買い物袋を持つ手の力が緩んだ。そしてすぐさま、そのブラジャーが二階のタンスのなかにしまわれていく鮮明な映像が頭に浮かんだ。やっぱりあれは夢ではなかった。私が大学に行っている間にも、友達と遊んでいる間にも、道を歩いている間にも、こうして友里さんは胸にあてる小さな布を手に取り増やし続けてきたのだ。
 二つの半円は薄い紫色をしていた。引っ張り出してみなければひとつひとつの柄がわからないくらい乱雑に並べられたブラジャーたちのなかから取り出されたものなのに、友里さんが持つと特別の品に見えた。どんなデパートの高級な下着売り場にも売っていないように思えた。たくさんの偽物のブラジャーのなかから、たったひとつしかない本物のブラジャーを探し当てたのだという気さえした。しかしそうだとしても、タンスに迎えられるべき枚数はすでに限度を越えている。
 どんなに素敵な色をしていて肌触りが素晴らしかったとしても、そんなにたくさんのブラジャーが必要ではないことを友里さんはよく知っているはずなのに。レジに向かう背中を追いながら、私はよっぽどそのことを言い出そうかと思った。あの夜以来、ブラジャーの話題が持ち上がったことはなかった。言葉がうまく出なかったから肩を叩こうとしたのだけど、友里さんの足はなぜかとても速かった。結局レジに着くまでの間に声を出すことはできず、会計を終える背中を黙って見ていた。
 店を出て、帰りも同じ道を歩いた。行きには近所の猫の話や大学の話が続いていたのに、ブラジャーを買ってからの友里さんは無口だった。
 無言のまま二人並んで商店街を出る手前で、私は本当に久しぶりに、小樽の町を自分の足元やそこらの空気に感じた。私のなかの写真の記憶が外にさまよい出てあたりに馴染むのか、ありふれた町のどこかしらが写真の記憶を呼び起こすのか、次第に濃くなる夕日の影が見慣れた町の風景をぼかした。どこからか吹いてくる風が、黄色いカーディガンをはためかせた。 
 友里さんと二人で工場に続く運河沿いの道を歩いている。空気は春の手前で押しとどめられているように冷たい。流れる水の音が淡い粒立ちとなって二つの耳を覆う。工場が見えてくる手前で夕方四時半の、一日の最後のサイレンが鳴り響く。友里さんはさっき買ったブラジャーーの袋をしっかりと持ちながら、全身をつらぬくようなそのけたたましい音を聞く。
「ケーキを買って帰りませんか。それと、友里さんの年の数だけろうそくも」
 何かをはなさなければいけない気がして口をひらいた。
「私の誕生日はまだずっと先よ」
 驚いたような声がかえってきた。私にしても今突然思いついたことだった。友里さんの誕生日は確か十二月の中旬だったはずだ。
「今までお世話になったお礼だと思ってください。甘い物好きでしたよね」
「そう? それは嬉しいわね。でも私の年齢のろうそくを全部立てたら、ケーキが無事じゃすまないわよ」
「うんと大きなやつを買いましょう」
「そうね。星座早見表くらいあると理想的ね」
 私と友里さんは商店街に引き返して、ろうそくとホールのチョコレートケーキを買った。もちろんお店で売っていたなかで一番大きいやつだ。ろうそくは黄色と赤と緑と青の色違いで、斜めに縞模様が入っていた。間違いがないよう、店員が数えている声に合わせて私も頷いた。
「年齢を暴かれているようでやだわ」
 友里さんは楽しそうに口をとがらせた。
 帰りはケーキの箱が傾かないように気をつけて歩いた。二度目の帰り道に感じるのはいつもの町の風景だった。ありふれた夕暮れが足元を照らしていた。運河の水音もけたたましいサイレンの音も聞こえてはこない。小樽はまた遠い町になった。
 家に辿りつく頃には、日はすっかり沈んでいるだろう。すき焼とケーキ。これはなかなかいい組み合わせだと思った。小さな段差にもつまずかないように、私は本当に気をつけて歩いた。





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