三人






 レジスターを打つ女性店員のかん高い声が、粗雑なBGMとまざり合った。短い休憩をとる客たちが入れかわりたちかわり視界を過ぎていく。駅に入っているチェーン喫茶を出入りする客はみな荷物が多かった。
 足をのばすとテーブルの下に置いたスーツケースがつま先にあたった。ガラス張りの壁ごしに改札を見ても、まだ人ごみは解消されていない。吹雪の影響で乗車予定の新幹線は停止していた。店に入ってからそそろろ二時間が経つ。ミルク入りのコーヒーがカップの底に少しだけ残っているけど、もう飲む気はしなかった。
「菊子」
 二回目を呼ばれるまで聞き覚えのある声が自分を呼んでいると気付かなかった。
「いつき?」
 満ちきらない確信のまま後ろを振り返ると、片手にレジ台から受け取ったカップを持ち、もう一方の手に重そうな紙袋を提げた樹が立っていた。
「驚いたよ。ここ座ってもいい?」
「偶然。卒業以来はじめてじゃない」
 自分の足元にスーツケースを寄せ、テーブルに広げていた便箋と筆記用具を一カ所にまとめた。樹が置いたカップからは新しい湯気がのぼった。
「一年ぶりだ。絢とはいつもキクを誘って三人で飲もうって話してるんだけど、キクと絢はよく会うだろ? だからなんとなく流れてたんだよね」
「よくって言っても今はふたつきに一回くらい。まだお見舞いにも行ってない。たいしなことないって言うから退院したら一緒にご飯を食べに行く約束をしてる。松葉杖でね」
 私は樹と目を合わせて、それから彼のコーヒーカップを見た。天井の黄色い照明が、口をつける白いふちに光の曲線を描いていた。樹と二人で話すのは大学生活の間を入れても久しぶりだった。私が樹と話すときにはいつも絢がいた。外見に関していえば樹は何も変わっていないように見えた。最後に会ったときより前髪が伸びて、目にかかりそうだった。
「そういえば。退院したらキクと鍋焼きうどんって言ってた」
 絢はマンションの階段をうっかり転がり落ちて、一カ月の入院生活を余議なくされている。
「この前はドーナツを五個も食べてたよ。砂糖がたっぷりかかってるやつ。なかにヨーグルトのどろどろが入ってるのとかさ」
「絢の食欲がなくなるときは世界の終りだよ」
 大学を出て一年、私は就職し絢と樹は院に進んだ。三人は二年生から同じ英米文学を専攻していた。一年の語学のクラスが一緒だった私と絢は、入学直後から気が合って四月の終りには早くも気心の知れた仲になった。
 絢と私ははじめての環境ですぐに人間関係を築ける方ではなかった。小学校、中学、高校とまわりの友達がクラス替えの初日からものすごい勢いで親しくなっていくなかで、どちらかというと置いてけぼりを食うタイプだった。乗り遅れたもの同士が集まる女の子グループに、大して興味もないのにクラスの目を気にし所属感だけを求めて寄っていく。そんなところも相性が良かったのか、休み時間隣の席の絢におそるおそる声をかけたら思いのほか話が盛り上がった。十分も話していれば、絢といることの居心地のよさと互いの波長が近しいことがわかった。そういう感触を味わうのははじめてだった。高校までは複数の友達と連れ立って遊びに行ったりお喋りすることがほとんどだったし、それが居心地がいいと思っていたけど、絢とは二人で過ごしていても違和感がなかった。
 高校のときに吹奏楽部に入っていたり、サリンジャーの小説が好きだったり絢と私は共通点が多く、大学で勉強したい分野も意図せず重なっていた。そのため履修している授業がかぶることも珍しくはなく、自然とお互いが大学で一番長い時間一緒にいる相手になった。月に一度か二度は一人暮らしの絢の家に行って夏でも冬でも二人で鍋をした。買い物に行ったりラーメン屋に入ったり、私たちは冗談まじりに大学生活を人生の休暇と言ってよく遊んだ。
 二年生になった春学期の終り、授業後の教室で私と絢が弁当を食べているところへ、話したこともない樹がノートの無心にやってきた。専攻の授業教室でよく見かけるので、名前は知らないけど彼の顔は覚えていた。毎週かかさず出席していた私がノートを借すと、翌週ノートと一緒に生協のお菓子が豊漁のニシンのようにめいいっぱい袋に詰め込まれてかえってきた。そうして絢と私の関係に樹が加わり、大学生活は賑やかになった。
 女兄弟のいる樹は女子二人の間に一人加わることにも特に抵抗がないようだった。絢の家で夜遅くまで酒をのみ、力尽きて雑魚寝で朝を迎える会に樹が加わり、樹の部屋でとりとめもないお喋りをしながら映画を見たりすることもあった。はじめて訪ねた樹の家は床が見えないほど散らかっていた。絢と私は樹を叱りつけて、ドアのポストに突っ込まれたままになっていた得体の知れない宗教団体の勧誘ポスターを捨て、めくるのも恐ろしいこたつの下の漫画やなんかのがらくたをきちんと棚に整備した。次に行ったときには百円ショップで買ったアロマポットをテーブルの上に置いてきてやった。
 絢と樹が付き合う前の時間を振り返るたびに、その頃私の胸のうちにあった微熱のような温度がよみがえる。樹を好きだった。一緒に遊んだり授業を受けているときは何でもなかったのに、あるときいつものように学校から帰ってお茶を入れていたらそのことに気付いた。頭で考えて辿りつくより早く恋はやってきた。蒸されるようにあたたかくなっていく気持ちのなかで、自分が樹を好きなことを理解していった。そうと気付いてから過去を探ってみると、納得できる証拠はたくさんあった。私は多分、ノートを借してかえってきたときから樹のことが好きになっていた。
 二人のことを聞いてまっさらになった気持ちの平原に、片端の親しみはしばらく雨のように降って、一歩歩くたび足元にしみ出た。
 絢と樹が恋人同士になってからも、二人と一緒に授業を受けて、昼休みに弁当を食べた。もちろん三人でどこかに遊びに行くこともあった。呆れるほどあっさりと、私はその状況に慣れた。慣れたというか、その事実が私にとってあまりにも大きく変更を加える余地は残っていなかったので、抗いようもなかったのだと思う。樹は私にとって、絢の恋人で親しい友人となった。
 三年の春に私と絢と樹の三人は同じ教授のゼミに入った。絢と私はかねてから卒業論文で扱いたい時代分野がかぶっていた。研究テーマを決めかねて二つのゼミで悩んいた樹は私たち、特に絢の熱心な誘いによって所属先を選んだ。
 ゼミでは夏になると教授が二泊三日で学生を自分の別荘に連れて行ってくれるのが恒例行事だった。勉強会とはいいつつも、実際には休養と遊びのための合宿だった。バスに揺られて別荘に辿り着くと、学生たちはおのおの別荘地を散歩したり、近くの観光施設を訪れたりした。山に囲まれた土地だったので本格的にハイキングに繰り出す連中もいれば、近くの温泉で一日過ごそうという年寄りじみた友達もいた。一日目、私たち三人は他のゼミ生と一緒に美術館を訪ね中華レストランで昼食をとった。途中で見つけた適当な喫茶店に入って時間を過ごし、夜のバーベキューに間に合うよう夕方には別荘に戻った。
 先生の別荘の裏には人口の湖があった。土に埋もれかけた木の階段を下りていくと、夏草が茂る湖に出る。よく近所の人が散歩に訪れるらしいけれど、私が夕涼みにバルコニーに出たときには人影はなかった。穏やかな風が吹いていた。太い木製の手すりに体をもたれながら、手に持った麦茶を右に傾けたり左に傾けたりした。青い切子のグラスのなかで、麦茶が小さく波打った。部屋のなかからはトランプ遊びに興じるゼミ生たちの笑い声が、時折怒号のような勢いで響いた。ゼミの友人とは仲が良かったけど、絢と樹がいないとなんとなく物足りない感じがして抜け出ていた。
 湖面を眺めていると、いつの間に湖の向こうをその二人が歩いていた。私は絢の名前を呼んだが、遠すぎて届かなかった。後ろでまた笑い声が起こった。二人はおしゃべりしているふうでもなく、水辺をゆっくりと散歩していた。今度は手を振ってみたが、これも気付かれなかった。無意識にあげていたかかとを下ろすと、自分の体の重量がぐっと増えた気がした。
 最終日の朝、まだみんなが起きない明け方に湖に降りて行った。早朝は空気が新しい感じがして、とても静かだった。つくつく法師が鳴いていたと思う。時々偶然なのか申し合わせでもしているのか、彼らが一匹も鳴かない間がおとずれた。すると湖から立ちのぼる水の湿気や風に揺らされる木々の気配が濃くなった。
 前の晩少し雨が降っていたので、サンダル履きの素足にあたる草が冷たかった。適当なところで腰をおろして湖を眺めた。地面は湿っていたけど不快な感じはしなかった。湖はあたたまりはじめた太陽の光をかえした。透明なガラスの破片をかき集めて、いっぱいに敷き詰めているみたいだった。一羽の鴨がその上を真っすぐに泳いだ。
 草はやわらかく、前の日の夜ふかしがこたえて段々と眠くなってきた。
 樹がやってきたことにも、目の前に大きなミカンを差し出されるまで気付かなかった。
 食べる? 昨日農産物直売所で買ったミカン
 あ、おはよう。絢は起きてないの
 まだ寝てる。夜型だからこんな時間に起きられるわけないよ
 樹から受け取ったミカンは目が覚めるくらいに黄色かった。夏の真ん中に向かって夜ごと濃くなった色だ。触ってみると、見た目のみずみずしさからは想像できないくらい皮は無骨で固かった。樹と二人手をミカンの汁でぬらしながら、つい無言になるほど苦労してむいた。樹のほうが先に皮をむき終わった。ハンカチを持っていなかったので、ミカンの汁だらけの手をそっと草でふいた。
 一口ちぎって食べたミカンは甘く、甘さのなかに隠し込むように苦みがあった。
 おいしいね 
 その苦みには気付かないふりをしてそう言った。そのときになって思い当たったのだけど、私が腰をおろしているのは二日前に絢と樹が歩いているのを見かけたあたりだった。ふと別荘のバルコニーに目をやったが、そこには誰もいなかった。
 私と樹は秋学期に向けた卒業論文の中間発表の準備がどれくらい進んでいるのだとか、学食のお気に入りのメニューが突然なくなってしまったのだとか、そういう話をした。絢と樹が付き合う前だったら、湖のほとりに座って過ごすこんな時間は朝のほがらかさそのままに柔らかく、ミカンの苦みも気にならなかっただろうと思った。夏はもっと輝かしく、底抜けの喜びが私を満たしたかもしれない。
 そんなところまで考えたところで馬鹿馬鹿しくなってやめた。過去をかけのぼった私の滑稽な妄想は、古い油のように濁り腐って湖の空気を汚す。
 本心から、絢と樹と過ごす時間はとても楽しかった。二人も二人の時間とは別に、三人の時間を楽しみ必要としていたように思う。心がまだ何ものにも感じやすく、すぐに歓喜するやわらかさと時には形の変わるほどの不安にかられる脆さを持ち合わせていた最後の時代、三人の輪はそこにいればいつも暖かい揺りかごのようなものだった。私たちはコンパスで描いた円のようにゆがみなく丸く、自転車の車輪のようになめらかに回転して、道のある限りどこまでも走って行けそうだった。


「樹も足止め食ってるの?」
 尋ねると、樹は不思議そうな顔をしてコーヒーを飲んだ。
「雪のことだよ。東京に転勤になるんで家探しに行く予定だったんだけど、新幹線が遅延になっちゃった。昨晩の天気予報では今日は大丈夫だったのに」
「東京?」
 樹が聞き返した。彼の声でその地名を聞くと、東京は現実味のないどこか異国の知らない土地のように思えた。
「みんな東京に行っちゃうんだな。高校のときがそんな感じだった。揃いも揃って東京の大学に行っちゃった。そんなにいいとこなのかな東京って」
「何でもあるからじゃない? 地元だとまともな大学なんて私たちの学校しかないし」
 確かに受験のときは仲の良い女の子が何人も東京に行くと言ってずいぶんさみしく感じたものだ。ある程度の偏差値を有する地元の進学校ではありがちなことだった。東京に行ってしまった女の子のなかで今も連絡を取り合っているのはほんの数人で、それも年賀状や暑中見舞いの交換とか、いつ途切れてしまうかもわからないくらいのものだ。私が東京に越しても、日々の予定を縫ってまで会わないかもしれない。授業の休みの十分間、退屈な美術の時間、下校の電車の中。あんなにいっぱい話していたのに、あの時間は卒業アルバムにぴたりとおさめられて、革の表紙に閉ざされてしまった。
「遠いよなあ」
 樹が腕を組んで椅子の背にもたれた。授業中寝るときも、よくそのポーズをとっていた。
「新幹線で二時間だよ。『エイリアン』一本で着いちゃうんだから」
「新横浜のあたりで、ナルキッソス号に隠れていたエイリアンが襲ってくるね」
 樹の家で見た映画の話だ。仲間が次々と正体不明のエイリアンに命を奪われていくなか、生き残ったヒロインは脱出艇に乗り込み果てない宇宙を冷凍睡眠で、意識も時間もないままさまよう。
「彼氏は今もこっちに住んでいるの?」
 樹と目が合った。黒目の大きいはっきりとした二重が、一回まばたきをする。
「もう別れた。あんなやつ新天地にまで引きずりたくない」
「喧嘩別れでもした?」
「そういうわけでもないんだけど。いろいろとね。合わなかったの。一番合わない種類の人間と何を間違えたのか付き合っちゃったんだよね。でも向こうは、私たち二人はぴったりだと思ってた。たぶん今も」
「そりゃとんだ災難だ」
 樹は肩をすくめた。
「この世界からあの人の好きなものを全部消してやりたい」
 冗談めかしてそう言った。コーヒーに口をつけていた樹が、先生に声をかけられた子供のように素早く顔を上げた。足をのばすとスーツケースがまたあたる。
「その世界では何がなくなるの」
「まずセブンスター。それから坦々麺、ラミーのボールペン、大宮の鉄道博物館、京急電鉄、ギネスのビール、抹茶プリン、『とはずがたり』、物理学者のファインマン博士、頼山陽の漢詩、コムサ・イズムのスーツとカルバン・クラインのコート、UFOキャッチャー、タンホイザーのオペラ、思い切り塩辛い塩じゃけ、新宿御苑、セブンスター」
「セブンスターは最初に言ったよ。ずいぶん長いリストだ」
 樹は関心したようにため息をついた。
「まだ手紙がくるの。信じられない」
「いまだにキクのことが好きなんだ」
「じゃあ私も消えなきゃいけないね」


 樹と絢と私の関係が終わったのは、少なくとも私がそう感じはじめたのは、学生生活も終りに近づいてきた四年の冬だった。
 私たちのゼミに三宅さんという女の子がいた。小柄で瞳の涼しげな、一見して人並み以上の容姿に恵まれたことのわかる女の子だった。もちろん二十歳は過ぎていたけど、彼女にはまだ「女の子」という呼び方がしっくりきた。三宅さんは生まれたての子猫のように無邪気で、ちょっとした喜びや落胆、自分の感情を取り繕うことなくあたりに示した。いつも誰かがそのかけらを拾ってあげて、三宅さんに共感したり優しくなぐざめてあげた。彼女の素直さと健康的な自信は大方の人に好ましく思われるものだったし、私も樹もそう感じていた。ゼミでの発表は先行研究の辿り直しという域を出なかったが、学生の卒論の要件を満たすほどにはまとまっていた。周囲の評価もまずまずといったところだった。
 ただ絢と三宅さんはゼミの開始直後からそりが合わなかった。というか、絢が一方的に三宅さんを忌避していた。院生によるゼミ生の歓迎飲み会と、別日に同学年のゼミ生だけで集まったボーリング大会以後、絢は三宅さんを避けるようになった。
 私と樹が三宅さんと話していても、絢は特別の用事がなければ会話に入ってこなかった。絢はいつも他人の発表後にはほめるのであれ批判するのであれ必ず感想を言ってくるのだけど、三宅さんの発表のときにはそれがなかった。三宅さんの方も絢の微妙な態度に気付いてか、絢が樹や私と話しているときは私たちを避けるようになった。私と樹は三宅さんとそこそこ仲が良かったので気まずさがないでもなかったが、半年もすれば暗黙の掟ができあがった。つまり絢と三宅さんが近距離で空間を共有することがなるべく起こらないようすることだ。私たちは習慣的にルールを守って過ごした。教室の席とり、ゼミの飲み会で二人が接近しないこと、絢といるときに三宅さんとすれ違っても気付かないふりをすること。暗黙の掟とはできあがってしまえば便利なもので、絢の前で三宅さんなど存在しないかのように振る舞うことは、それほど不自然な演技を必要とすることではなかった。そしてそのような生活に馴染みはじめた演技のもとに、学生生活はつつがなく過ぎていくものだと思っていた。
 しかし私は何も気がついていないだけだった。絢が私に三宅さんについての長い話をする頃には、彼女はもう抜け出せないところにいた。食虫植物に飲み込まれた小さな虫のように絢は天井を目指して這いのぼるのに、酸を含んだ粘液が足をすべらせ、冷たい重力が引きづり降ろした。
 絢は三宅さんを嫌っていた。心の底から嫌悪していた。論理も道筋もなく三宅さんを嫌悪していた。あるいは途中までは道筋らしきものはあったのかもしれない。三宅さんのいまだ失われない無邪気さがねたましい、その天性の素直さで得てきた彼女のこれまでの人生の成果が気に食わない。でもそれはきっかけであり、単なる説明に過ぎない。絢という人間は三宅さんという存在を自らの全てをかけて憎むように宿命づけられていた。そんな風に言っても過言ではないほどの危機迫るものが、当時の絢にはあった。
 一番最初に、夜中に絢からかかってきた電話は長いものだった。絢はどういうわけか説明できないほど三宅さんが嫌いでたまらないのだということ、そのことに自分でも戸惑っているのだということ、三宅さんへの嫌悪にとりつかれるあまり、ときには食事をもどし熱が続くことがあるのだということを話した。家に帰ると考えたくないのに三宅さんのことが頭に浮かび、体に変調をきたす。
 私ははじめ絢が突然そんなことを言いだしたのに困惑して、絢と三宅さんの様子を思い返しながら会話のほとんどの部分をあいづちを打って過ごした。一週間後にも絢から電話がかかってきた。彼女は三宅さんと同じ教室にいることが耐えがたくなっていること、三宅さんと話す私と樹を見るのも辛いのだということを深い間をおきながら、混乱をスプーンでひとさじすくって受話器に塗りつけるように少しずつ話した。絢は三宅さんの名前を呼ぶことをやめ、「あの人」というようになった。その呼び方で三宅さんを示す声には、鋼鉄のような固さがあった。あの人。その呼び方を聞いてから、私は絢の話に含まれたただならぬ緊張を理解するようになった。
 絢は休学届けを出すことも本気で考えていた。勉強熱心な彼女には気軽な選択とは思えなかったが、これ以上三宅さんと顔を合わせていたら私はどうにかなってしまうのだとメールに書かれていた。三宅さんを見れば粘ついた汗が張りつき重たい吐き気が食道を往復する。院を経て研究職に就くことも夢見ていた将来の道筋は、こんなことで掻き乱されてわからなくなった。自分の頭が自分のものでないようにから回りすると絢は言った。絢と三宅さんとはゼミ以外でも必修の授業で顔を合わせなければならないし、狭い大学構内で卒業まで何度もすれ違うことは間違いなかった。
 あの人に殺される
 絢はそうメールに書いた。そして彼女は確かに一度、この世界の空気や光や、繰り返される毎日を手放そうとした。携帯の一斉送信機能を使って絢から私と樹に同じメールが届けられた。絢は律義な性格だったから、そんな挨拶も欠かそうとしなかった。
 絢は焼き切れる寸前のエンジンみたいだった。自分が自分のある部分を削り取ってまで三宅さんを嫌悪しなければならない理由を、彼女は百回も千回も考えた。でもその理由はわからなかったし私にも想像がつかなかった。絢の問題は絢と三宅さんの間にあるのではなく、全て絢のなかにあった。三宅さんは絢自身が処理しきれない感情を引き出すスイッチだった。
 絢からは樹と私へのメール以前に、私だけにあてた三宅さんに関するメールが何通もきていた。私は毎回絢のそのようなメールを受け取るとき、心臓を氷の釘で串刺しにされる気分だった。小さな文字で埋め尽くされた長いメールを受け取るとき、自分の心臓が一秒一秒耐えがたく鼓動し、危険な爆薬のようにあたりの空気をひりつかせるのを感じた。彼女の連ねた行き場のない言葉を読んでいるうちに、自分も絢と同じ穴の底にいるのだという気がしてきた。
 絢のメールには三宅さんへの雑言が呪詛のように書き連ねられていた。三宅さんの喋り方について、人への接し方について、思考について、所作について。聞いたこともないような恐ろしく汚い言葉で、あらゆる方向から三宅さんを貶めようとした。しまいには三宅さんが息をすることにさえ、非難を吐き捨てるのではないかと思うほどだった。
 絢の言葉は激しかった。絢は自分の混乱の最も濃縮された部分を文章に叩きこんだ。胸に溜った反吐のようなものが、そのまま文字に絡みついて強烈に臭った。人に向けて文章を連ねる余裕はなかったのだろう。絢の心のそのままが、携帯の白い画面の上で切り開かれているような感じだった。
 一度読むと、二度読み返すような気力は起こらない。それは私から何かを吸い取ってしまう。凍てつく夜をくぐり抜けてきたような、冷たくて嫌な汗が服の内側にべっとりと膜を張る。でも絢のメールに何か返事をしなければならないから、また何度も読み返して長い文章を書く。自分の書いた文章にこれ以上に絢を損なう何かが紛れ込んでいないかを、入念に確認してから送信ボタンを押す。それからまた自分の返事を読み返した。
 どんなに長く丁寧な言葉で解決の可能性やありうる前向きな指標を語ってみても、そのひとつひとつを残さず根から抜き取って叩きつぶすような否定の返事が返ってきた。こういう言い方は変だけど、そのときの絢のエネルギーには圧倒されるものがあった。絢は自分にとって救いとなる可能性を、強固な思い込みと偏見で消し去っていった。少しでも前向きな文言があれば絢はそれを痛めつけるように咀嚼し、吐き出して無にかえした。私は次第にあまりに徹底された負の方向性と意思のために、絢のいう否定の言葉だけが真実で、それ以外には何もないのだと思うようになった。晴れた空も絢が曇りといえば曇って見えるし、白い鳩も絢が黒といえば真っ黒のカラスに見える。行き止まりの高い壁が、二人を囲みこんだ。
 絢は学校で顔を合わせるときには何でもない顔をして、いつものように私や樹と楽しく無益な話で盛り上がった。私は戸惑いながらも絢の調子に合わせ、樹がどんな顔をしているのかのぞきこんだ。樹とのデートのときも絢は変わらずふるまっていたに違いない。絢は三宅さんとの多くを樹には話していないようだった。
 何気ない世間話や事務連絡のメールもいつもと変わらず届いた。だから余計に、そのなかに紛れてあの長いメールがくることは恐ろしかった。携帯に絢からのメールが届きその中身を確かめるまでの数秒間、もやのかかった道の先が、やわらかな草むらなのか切り立った崖なのか、足を震わせながら歩いて行かなければいけない。
 私は絢がどうなってしまうのか心配する一方で、彼女に怒りを覚えもした。絢の三宅さんへの言葉は許される域を超えていると思った。絢は実際に三宅さんから危害を加えられたというわけではないのだ。たとえ絢が身を削られるほどの嫌悪に苦しんでいたとしても、一人の人間が他人をそれほどまでに切り刻んでいい権利なんてどこにもない。絢の言葉は不当で間違ったものだった。それは決して使われてはいけない種類の言葉だった。私はメールを読み返しながら、はっきりとした確信をもって絢を侮蔑することさえあった。
 それでも当然、絢から「挨拶」のメールが届いたときにはそんな一切は吹き飛んだ。夜中の十二時を過ぎていた。絢の家に辿り着くための電車は朝まで動かない。町は静まりかえっていた。ときおり貨物列車が町を通り過ぎる轟音が響いた。音は耳の奥の方を噛み付くように刺激した。
 逡巡の間もなく私は絢に電話をした。もし絢が出なかったらどうしよう。全ては私の手からすべり落ち、形なく粉々になってしまう。祈りを込めるように受話器を耳に当てると、二十秒ほどの長い時間が過ぎたあと、絢の小さな声が聞こえてきた。
 そのとき自分が何を言ったかは定かでない。絢が何かを言いだす前に、とにかく私は必死で喋った。途中で絢がちゃんとあいづちを打ち、電話を握っていることだけを気にかけて、一時間ほど一方的に喋り続けた。
 そこには思いもしない三宅さんへの憎悪に対する共感も含まれていた。電話を沈黙が訪れたときに、絢はどこかへ行ってしまうのではないかと思った。私があまりに壊れたように話すので、やがて絢が私の慰め役になった。そうしているうちに、二人は落ち着いてきた。深夜に繋いだ電話は朝まで続いた。太陽がのぼるまでは、電話を切ってはいけないと思った。
 新聞配達のバイクの音が聞こえはじめた頃、喉は水もうけつけないほど引きつって乾いていた。私と絢は次の週末、樹と鍋パーティーをすることを約束した。キムチ鍋にするか豆乳鍋にするか、遊び道具はDVDを借りて行こうかトランプを持って行くか、具体的な話をすると朝の光が確実に部屋の壁に染み込んでいくのがわかった。現実にかえってきたのだと思った。絢が「キムチ鍋も豆乳鍋もやめてちゃんこ鍋にしよう」と言ったとき、やっと落ち着いて電話を切ることができた。
 翌日学校の授業で樹と会って、一晩中絢の携帯をふさいでいたことを謝った。彼も心配してメールか電話を絢にしたと思っていた。
 しかし樹は不思議そうにこちらを見返した。彼は不思議に思うことがあると、疑問符をそのまま顔に張り付けたような表情をする。
 ああ、本気にしたの? あれは狂言みたいなもんだよ。絢ってそういうところがあるじゃん
 樹は考える風もなくそう言った。私は一瞬言葉を失った。彼の顔を見返し、読みとるべき隠れた表情があるのではないかと探した。あれが狂言であるはずがないのだ。本当は死んでしまうつもりなんかこれっぽっちもなくて、私と樹に助けを求めただけだったとしても、そんなことは問題じゃない。
 私は樹に、絢が三宅さんに対して抱いている感情について、それが絢のどこかを狂わせてしまったことを話した。確かに樹は、絢にその話をあまりされていない。しかし授業後の昼休みを全部使って説明したにもかかわらず、樹は心配の言葉ひとつこぼさなかった。あるいは私の話し方が悪かったのかと思い、絢の長いメールを一通見せた。彼は黙って目を通した。そしてメールを読む前と声のトーンを変えずに、こんな風に言った。
 どんな問題が起こっているにしろあと数カ月もすれば卒業だろ? 何でもないことだよ。大丈夫
 私はどうにも彼の反応に納得がいかず、絢と三宅さんについての話を続けようとした。うなずくだけの樹は次第に面倒くさそうな態度をちらつかせはじめ、昼休みの終了を知らせるチャイムが響いた。樹の態度はそれまでの信頼と友情を、たったそれだけの時間でゼロにしてしまうものだった。樹が絢に狂言と言ったとき、今までの思い出も過ごした時間も軽薄な嘘のように思えた。
 彼の言う通り、絢は朝まで続いた電話の夜を境にして回復していった。長いメールもそれから一度しかきていない。絢は決着をつけはじめたようだった。私も絢のただれた文章からもたらされる窒息のような疲弊と混乱を味わうことがなくなった。三宅さんと絢が同じ教室にいるときの痛いような緊張は相変わらずだったが、絢の表情が穏やかに見えたのは私をほっとさせた。
 こうして絢と三宅さんが出会った頃から考えれば二年近くに及んだこの出来事は、樹の予想した通り「大丈夫」となった。しかしその道筋を樹は知らない。知ろうともしなかった。
 小さい頃母親にこんな話を聞いたことがある。母がまだ子供だった頃、祖父の田舎の湖で遊んだことがあったそうだ。遊びに夢中になっているうちに母は足をつって、水中で身動きがとれなくなった。まわりに気付く人もなく、肺は限界に達しようとした。意識が半ば薄れていくなか、足は動かせるまでに治ってきても彼女はどちらが水面でどちらが底なのかすっかりわからなくなっていた。そこで母はとにかくどちらかの方向にもがくようにして進んだ。もし底に向かっていても、足が底につけば反対が水面だとわかる。母の足は湖の底を打った。母は無事浮上することができた。
 絢の辿った道筋とはつまりこういうことだったのではないかと思う。絢は底まで辿り着き、そしてかえってくることができた。
 一方で私の樹に対する失望は取り戻せないものとなった。自分の推し量れない領域にあるにしろ、人の感受性に少しの想像くらい巡らせてもよかったじゃないか。私は空き教室の昼休みにたたずんでいた樹を心の中でなじり続けた。かつて彼を好きであったことを空しく悲しく思った。
 卒業後、三人で会おうという提案がなかったことには本当のところほっとしていた。樹が、絢の恋人であるのを見るのは嫌だった。それはもちろん、二人が付き合いはじめた当初の感情とは全く意味合いが違うものだ。卒業式には三人で行ったけど、その前の長い春休みには二人とより恋人と過ごすことの方が多くなっていた。その恋人が樹に似ていると気付いたのは、彼と別れる直前だった。 


 私たちはうまく会話をつなげないまま、樹のコーヒーカップは空になった。
「絢の病院に行こうと思ってたんだ」
 樹は足元に置いた紙袋に目を落した。
「この雪じゃ難しいかもしれないね」
 私はテーブルの上のペンに触れた。
「タクシーで病院の前までは辿り着いた。タクシーを拾うまでの間雪に降られていたからコートは湿ってとても寒かった。でも病院の入口の前で足が止まったよ。絢の顔を思い出した」
 樹は私の視線から逃れるように私の背後の壁を見た。座るときに一度目にした記憶を辿る。そこにはシャガールの絵がかかっていたはずだ。互いを慈しみながら、夜の青い空を踊るように飛ぶ恋人たち。
「前に雨に濡れて病室に行ったことがあった。結構な大雨だった。天気予報はその日は低気圧の影響で激しい雨が降ると前々から伝えていた。絢は濡れた僕を申し訳なさそうに迎えた。本当に申し訳なさそうにさ。動かし辛い体で上半身だけ起こしてベッドのまわりの荷物からタオルを探した。今まであんな顔したことなかった。嬉しそうに迎えてくれるはずだったんだ」
 樹は助けを求めるように私を見た。私は冷たく彼を見返した。そこにある温度の低さに彼は気付かない。
「一回きりのことでしょ? 気のせいだよ」
「気のせいじゃないよ」
 そこで私たちの会話は再び途切れた。樹の言う通りそれは気のせいではない。
 卒業してからも絢と私は何度も会っていたが、喫茶店やレストランでの会話のなかに樹の名前の出てくることは不自然なほど少なかった。樹が絢の恋人であり、私の友人であるにもかかわらず。私は最初、自分が樹を嫌っていることを気取られないように彼の近況を尋ねたりした。しかし絢の樹についての会話は違和感を覚えるほどに短く、ともすれば彼女はその話を途中で切り上げた。絢とは三宅さんに関連して起こった大学時代の出来事について話すことはなかったが、一度だけ絢はそのときの樹のことをこぼした。あの出来事が起こったとき、彼は自分からとても離れたところにいた、と。私は頷き、絢は黙った。三人の輪はもう失われたのだと感じた。
 携帯をひらいて市内の天気予報をチェックし、新幹線の運行情報に目を通した。雪はやんでいないが強い風がおさまり、電車は間もなく動き出すようだった。
「ねえ、これから私の家にこない? 渡したいものがあるの」
 突然の提案に驚いた顔をする樹と目が合った。一秒、三秒、十秒。私は彼と視線を合わせていた時間を、なぜか正確に数えていた。
「いいけど、東京は」
 黙って目を合わせているには長すぎる時間をおいて彼は答えた。
「今日はもう列車が動かないみたい。出よう」
 足元のスーツケースを引っ張り出し、ソーサーを持ち上げた。ずれたスプーンが陶器にあたるささやかな音がした。スーツケースは馬鹿みたいに重く、カップは軽かった。
 外に出ると風はわずかに吹いている程度だった。雪は風にあおられることなく空からまっすぐ地面に降りた。この地域では雪なんて滅多に降らない。十年ぶりの大雪だった。激しく降っているのに気配もなくつもり、あたりを真っ白にして夜の暗さを曖昧にした。
 手袋をしてきつくマフラーを巻きなおす。顔の半分をマフラーにうずめるようにすると、大分あたたかくなる。薄茶色のコートを着た樹は白い息を吐いていた。雪がよけられている道を探し何とかスーツケースを引っ張った。駅に歩いてきたときにはこんなに積もっていなかったのだ。外灯が私たちを照らし、雪は二人のわずかな影をも埋めようとしきりに降った。 


 安普請のアパートは家の中も外と変わらないくらい冷え切っていた。
「暖房をつけたらすぐあたたまると思うから」
 樹をソファーに座らせてコートをハンガーにかけ、エアコンを付けた。それから鞄の中から携帯を取り出しテーブルの上に置いた。私が帰宅後の一連の作業を済ませている間、樹は部屋を見渡していた。彼がソファーのさらに奥に背をもたれようとすると、横においた紙袋が倒れて中身がこぼれ落ちた。新品ではなさそうな数冊の文庫本と森永のキャラメルの箱が散らばった。今頃絢が文庫本を読みながら、キャラメルを食べていたかもしれなかったと思う。私は隙間をあけずに樹の隣に座った。そして彼が何かを言う前に口をひらいた。
「あなたはもう絢とはつながっていない」
 押しつけるように責めるように樹に言った。彼は絨毯におろした足を、神経質そうに二度上下させた。
「いつから?」
 樹は驚いたような顔も不思議そうな顔もしなかった。足元を見つめる横顔が、テストの不合格を聞いたときのように少しの落胆を含んでいるような気がした。
「大学の終りの頃から。ちょっとは、気付いてたんでしょ?」
 樹は何か言いたげに頷いた。三宅さんの出来事の後から、絢の樹に対する態度はどこかよそよそしかった。食堂で割りばしを渡すときや借りたノートの礼を言うとき。絢の気持ちが夜中に飛び立つ水鳥のように、そっと樹から離れていくのが私にはわかった。それは絢自身も気付いていない変化かもしれなかった。樹にとっても確信を導き出せるような違和感ではなかったかもしれない。
「でも、絢と俺が離れたら、三人の輪も駄目になると思った」
 樹は何かを弁解するように言った。そんなものはもうとっくに駄目になっているのに。絢も樹と同じことを考えていたのだろうか。
 私は樹に身をすり寄せた。湿った体温が伝わるように、彼の揺れ動く領域に入り込めるように、心の外側だけを震わせてセーター越しの肌を押しつけた。
「部屋、あったかくならないね」
 呟くように樹が言った。
「外がいつもより寒いから、暖房がききにくいのかもしれない」
 私たちはしばらく黙りこんだ。触れ合っている部分は次第に熱くなっていく。絢の長いメールを思い出した。一文字一文字が、朝目覚める意欲を削り取り、歩く速度を絡め取って愚鈍にし、思考の統制を奪い混乱が全てをなぎ倒す。あの頃のメールはもう全部消えてしまった。絢は元通りになったし、彼女と話しているときに思い出すことはない。文章の文言だってはっきりとは記憶に残っていない。ただあのメールを受け取ったときの、絢と同じ目線の一本の抜け道もない世界に引きずり込まれる感覚だけはいまだについてきて、ふとした瞬間によみがえる。頭ではなく体が覚えている。五秒の間、すさまじい速さで時間は当時へと巻き戻される。絢に何と返信しようか途方に暮れる。六秒目に、今ではもうすべてが解決したのだということを思い出す。時々訪れるその五秒は、その時間をすり抜けるようにして生きていた樹の顔を脳裏に張りつける。そして今さらどうしようもない怒りと不快感にかられる。樹は何を見て狂言と言ったのだろう。彼も三人のつながりを大切に思っていたに違いはないのに。
 喫茶店での会話を続けながら、大学時代の生々しさそのままに、それ以上に濃くなっていく樹への不満と嫌悪は消しようがなかった。絢がいなくなるかもしれないという恐怖のひとかけらさえ、彼は感じようともしなかった。
 絢がもがいている間に樹が試験勉強に夢中になっていたこと、気になる学食の新メニューを頼んでいたこと、所属している英会話サークルに欠かさず顔を出していたこと。思い返す場面場面が神経をなでつけた。口いっぱいに苦い嫌悪があふれて、よだれのように垂れそうになる。
 いけない、と思う。私はどこかで踏みとどまらなければならない。
 樹の体重が私の方へ重みをかけてくるのを感じた。破れそうなほど詰め込んだ紙袋がまた倒れるのではないかと思った。
「絢もあなたも無理をしてる。そういう関係には遅かれ早かれ終わりがくる」
 樹のことをあなた、と言った。彼の名前を呼びたくなかった。樹は頷いた。見なくても寄りかかっている彼の気配でそうだとわかった。
 暖房で部屋があたたかくなる頃、私と樹はベッドの上にいた。私がそうさせたのだ。強力な磁石が引き合うように二人は息を合わせ、どこまでもよどんだ意識のなかで抱き合った。樹の前髪が私の額に触れた。樹は固い扉を無理矢理こじ開けるように私の中に入った。私は噛みしめるようにまぶたを閉じた。彼のわずかな動きも、たちまち耐えがたい痛みに変わった。私は口をつぐんだ。樹は絶え間なく、寄せてはかえす波のように動き続けた。彼の体があらわになった感覚の細部まで響いた。物理的な痛みは私の顔のあらゆる筋肉をゆがませた。両足の爪の先まで力を込めて彼の動きに抗おうとした。それが無駄だとわかると全身の力を抜いて自分の体を忘れようとした。そのどちらも意味のない試みに終わった。
 しかし相手を傷つけているのは私の方だった。私は暴力でも言葉でもなく樹を傷つけている。これから長く残る傷跡を彼に刻みつけようとしている。少しの空白も許さない痛みのなかで、私は樹にしがみつき彼の体温を感じようとした。樹には今までの時間があり、呼吸があり、これからの時間がある。樹は凍土のように固く冷たい憎しみを抱いていい相手ではない。嫌悪の膜で覆われ嫌いになった樹にも温かみがあることを、誰にもおかすことのできない存在があることを自分にわからせたかった。樹に傷を負わせてまでそうしたかった。 
 時間がどちらに流れているかもわからなくなるくらい、私たちは深くつながっていた。この間に、雪は何センチ積もっただろう。樹が私の名前を呼ぶのが聞こえた。そのくぐもった声は、意識の片脇をすべり落ちた。
 力を失った私たちは天井を見上げ、それぞれにか細いため息を吐いた。シーツには長いしわが寄り、鉛筆でぬったような灰色の影がくっきりと浮かんでいた。棒のようになった体を無理矢理起こして、ベッドの端に腰かけた。セーターに袖を通し、髪をくくりなおした。しばらく美容室に行っていないせいか、髪には指先で感じる艶がなかった。東京に引っ越す前に切ってしまおう。新しい土地で居心地の良さそうな美容室を探すのは意外と面倒くさい。
「散歩に出てくる」
 シーツのしわをひと撫でしてそう言った。携帯で時刻を確認すると、思っていたより多くの時間が過ぎていた。
「こんな雪の夜に? 寒いよ」
「寒いほうがいい」
 暖房のきいた部屋のなかで、セーターの現実的な肌触りが体を冷やした。でももっと、手足が痺れて息が凍るくらい寒いところへ行きたかった。
「私が部屋に戻る前に出て行って」
 二つ折りの携帯を閉じる乾いた音が、言葉の最後に並んだ。樹は返事をしなかった。ただ私の目を真っすぐに見つめた。そこに何かのつながりを求めるように、強い視線だった。包み込むように彼を見返した。なるべく彼に優しくしたかった。でも言わなければいけないことがあった。
「絢とは別れて」
 私と樹の視線はまだ強く交わされていた。言葉の余韻が二人の沈黙に打ち込むように響いた。樹は力なくうなずいた。


 アパートの階段を下り、つもり続ける雪の上を踏み歩いた。人気はなくあたりは静かだった。わずかな風も肌を切るような冷気を含み、体の内側まで吹き抜けた。踏んだ雪は靴底に染み入った。
 樹と会うことはもうない。彼を家に呼んだときからそう決めていた。樹は帰り支度を済ませただろうか。最後に見た彼の姿を思い出した。望まない結論を言い渡されて気の抜けたような、打ちひしがれたような目をしていた。ドアを閉めて階段を下りるまで、彼の視線が絡みつくように背中を追っていることがはっきり感じられた。もし私を追おうとしても樹が鉛のように重くなった腰を、ベッドから起こすことができないのも知っていた。
 私は樹を欺き、傷をつけた。彼は私を思い出すたびその傷を深々と感じるだろう。それでもアパートの一室で私と樹は確かにつながっていた。二人の人生にこれから積み重なる膨大な時間にも、巡らされるどんな感情にも消されることのないつながりだった。記憶は細部を残さないかもしれない。しかし私はもっと深く確かなところで樹を感じ続ける。今になってそのことを痛切に思った。あの時間は私と樹の人生の一点に、忘れられない印となって刻まれた。体の真ん中があたたかく、痛かった。あたたかさは寒さにかき消されず、痛みは寒さにごまかされない。樹に対する嫌悪の感情はまだくすぶるように残っていた。人の心がそんなに簡単に切り替わることができないのはわかっていた。私はどこかに進めただろうか。この夜のつながりをたどって、もう一度樹を好きになりたいと思う。そんなことがあるかもしれないし、ないかもしれない、いつかの話だ。そこに辿りつく道はまだ見えない。
 しばらく先の公園のところまで行ったら家に引き返そう。夜中の貨物列車の音がかすかに聞こえた。線路を揺れる規則的な音は、聞こえたと思ったらすぐに細くなって消えた。雪の日は音が小さくなるというけど、ほんとうだ。列車は夜空を切り取るように、すさまじい速さで抜けていく。
 雪は家に帰る私にもアパートを出て行く樹にも、道にも屋根にも等しく降りつもる。消えていった列車の音がなぜか胸をついた。悲しみと安堵が入り混じった苦みが込み上げ、呼吸を深くした。しかし吐き出してしまいたい嫌な苦みではなかった。それがわかったとき、私は立ち止まって泣いていた。列車は次の町を走り抜け、また次の町を走り抜ける。私はかじかむ足の痺れと雪の冷たさを、もう二度とはない夜の証として立ち尽くす道の真ん中で感じ続けた。





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