最の森(1)






 もし次、雨が降ったら、今度はじーっとして、一緒に流されよう思うんですけど、息子が聞かんのです。
 その人は瓦屋根を見上げて、困ったような笑顔で言った。私は彼女の横顔を眺めながら「そりゃあ、そうですよ、身内なんだから」と苦笑した。その実、胸の内では、それしかないんじゃないか、と考えもした。
 広島市安佐南区の八木地区には、山肌に沿って肩を寄せ合うように住宅が建ち並んでいる。坂を下りればファミリーレストランやコンビニが建ち並ぶ国道に出る。でも八木の山あいは十階建てのマンションが一軒あるきりで、あとは低い屋根が軒を連ねるだけの、山にへばりつくような小さな宅地だ。この街の上を土砂が襲ってから、2週間がたとうとしていた。道路の土砂はあらかた重機が片付けてはいたが、全壊した住宅は手つかずのままで、住民は近くの八木小学校にほとんど避難し、町は人けもまばらだった。自治会によれば、この辺には八十ほどの家があるらしいが、住んでいる人は還暦を過ぎた老人ばかりだった。
 この山は「まさ土」という柔らかい土でできているらしい。詳しくは知らないけど、テレビで大学教授がそう言っていた。だから2週間前、一晩降り続いた豪雨に耐えられず、明け方、山は決壊した。
 細い道路に河のようにがれきや土砂が行き過ぎ、山と宅地の境にあった住宅は一瞬で押しつぶされた。昨日話しかけた男性は、その晩の惨事を「山が落ちてきたっけね。山津波じゃ」と語った。山津波。聞いたことのない言葉だったから、私はもう一度彼に聞き返し、やまつなみ、とひらがなでメモを取った。後で調べたら土石流という意味らしかった。
 幼い兄弟や結婚を控えた若い男女、この広島市の低い山裾で、七十人以上が死亡し、今も二人の行方が分かっていない。ボランティアや自治会が集まって毎日せっせと土砂を片付けてはいるが、小雨がぱらつくたびに道路は泥で汚れてしまう。傾斜がきつく、重機もなかなか入れない。
 ここに住んではいけない。
 現場へ足を踏み入れたとき、積み上がるがれきを前に、私はぼんやりそう思った。この坂を、夜、むちゃくちゃな雨と雷が降り注ぐ中、老人の足で国道まで駆け下り、山津波を背中に安全な場所まで避難することなんて、到底できはしない。山の中で生き、山に飲まれて死ぬ。その人の言葉は生きていく以上どうすることもできないあきらめの境地だったように思う。
 私はその人に頭を下げ、坂をさらに上へと歩き始めた。数メートル進むだけで息が上がった。膝に手を置き、足を無理やり押し返すようにして上を目指す。茶色くそげた山肌はすぐ眼前に迫っているのに、あと数メートルがとてつもなく遠い。隣を一人の若い男がずんずん抜いていく。首から立派なカメラを下げている。たぶんどこかの記者だろう。ここですれ違う若者の大半は、記者か、ボランティアの参加者だ。道行く人を片っ端から捕まえてノートを広げている彼らも、その点は承知しているらしく、私がふうふう言いながらこの辺を歩いていても取材を申し込もうとはしない。
 絵を描くためにここへきた。だから土砂の片付けの手伝いも、被災者の取材もしていない。でも雨よけのウィンドブレーカーのせいか、背負っている画材のせいか、住民のほとんどは身なりで私を記者かボランティアだと勘違いしているらしく、たまに「おたく、どこの人」と話しかけられる。趣味で絵を描いていますなんて正直に説明をしたら彼らの神経を逆なでしそうだったから、今はただ「学生で、写真を撮りに来た」と答えることにしている。実際は春のゼミ合宿のために買った安物のデジカメを持っているきりで、そのカメラもほとんど取り出していなかったけど「悲惨な出来事を記録する」という行為はどこか正義めいて聞こえるらしく、説明も楽だった。
 学生として最後の夏休みだった。あの日、朝のニュースでテレビ画面に「広島で土砂崩れ」「人が生き埋め」「死傷者多数」とテロップが次々流れ、上空からの映像が放送されていた。ただなんとなく大変そう、と思った。十時に駅の近くのサンマルクカフェ昭和通り店で待ち合わせた哲哉は、遅れてきた私の姿を認めてスマートフォンの画面から顔を上げ、興奮した様子で口を開いた。
「双葉、ニュース見た? 大変なことになってるね」
「何が?」
「広島だよ、広島」
 哲哉は得意げに鼻の穴を膨らませ、ほら、と私に画面を向けて見せた。土砂崩れ、死者多数か、幼い兄弟が生き埋め。私の目に飛び込んできたのは朝見たのと同じ、削れた山肌の写真と惨劇を思わせる大見出しだった。
「これは大変なことになるね。きっと十人以上死人が出るよ」
 哲哉はどこか楽しげだった。これは大変なことになるね、この問題は大きくなるね、ここで真価が問われるね。高校生の時から、私は同じ言葉を哲哉の口から何度も聞いた。コメンテーター気取りにニュースの先の見通しを人に解説するのが好きな人だった。そのくせ、何がどう大変で、どうして問題が大きくなって、どのように真価が問われるのか、重要な部分については一切説明がないので、雑誌の見出しだけを切り貼りしたみたいに中身がない。ただニュースを察知して人に披露することに喜びを覚えているのだろうと思う。でもそう指摘したらこの人の機嫌を損ねそうだったから、直接伝えたことはない。
 大変なことになるも何も、広島は既に大変なことになっていた。捜索が開始されてからまもなく、がれきの下から続々と遺体が見つかり、死者数と行方不明者数は瞬く間にふくれあがる。私たちがサンマルクでコーヒーを飲んでいる間にも、がれきの下から老夫婦が遺体で見つかり、政府が情報収集を宣言し、広島市長が記者会見していたらしい。哲哉はメールの着信音に反応しちょこちょこスマートフォンをいじってはいたが、続報については特に話さなかった。
「卒論、進んだ?」
 ここのところ挨拶みたいに交わしている話題を出したら、哲哉はあからさまにいやそうな顔をした。
「思い出させるなよ。ぜんぜん、だよ。双葉は?」
「あたしも」
「こんなところでのほほんとしてていいのかな、俺たち」
 哲哉は冗談っぽく言い、快活に笑った。まるで地球上には戦争も災害もないような顔で笑っている彼は、ニュースを孫引きして理屈をこねている姿よりもずっと魅力的だった。この日だまりがいとおしくて、私は哲哉と今日まで一緒にいたのだと思う。日々目減りはしていったけど、私は哲哉の笑顔の中に、高校生だった彼女の残り香を感じ取り、この場所に必死でとどまった。だから、きっと五年前、もしかしたらもっと昔から、この瞬間は約束されていた。
「また店長、代わったね」
 カウンターを眺めながら哲哉に話しかけた。決心がつかなくて、回りくどく、話題ばかりが変わる。
「俺たちが入り浸りすぎなんだよ」
「七緒さんが好きだったからね、ここ」
 哲哉は黙ってポロシャツの胸ポケットからライターを取り出した。高校生の頃を思い返すとき、決まってあの人の顔が最初に浮かぶ。三年生の先輩、という存在は、とてつもなく大人の女性に見えたけど、私はあっけなく当時の七緒さんの年に追いつき、あっさりと追い越してしまった。でも未だに、記憶の中の七緒さんは今の私より年上の気がしているから不思議だ。
「甲子園みたいだな」
 哲哉はアイスコーヒーのストローを行儀悪く噛みつぶしながら言った。甲子園、と問い返すと、哲哉はストローからやっと唇を離した。
「高校野球って、未だに大きいお兄さんがやってるような感じがしない?」
 ああ、なるほどね。
 哲哉は再びストローに口を付け、ずるずると音を立てて氷ばかりになったアイスコーヒーをすすった。サンマルクカフェ昭和通り店は私たちが中学生だった頃に開店し、以来周辺に住む学生のたまり場になっている。私も哲哉も、入れ替わりの激しいアルバイトの店員より遥かに足繁くここへ通った常連客だ。コーヒー一杯でテーブル席を占拠し、放課後から何時間も長居した。毎日学校で顔を合わせていたというのに、他に何をそんなに話し込んでいたのだろう。七緒さんに会えなくなった今、問い返せるのは哲哉くらいだけど、こいつが覚えているとは思いがたかった。
 日傘を差した女の人が窓の外を行きすぎる。街路樹の葉は突き抜けるように青く、夏の日光に鮮やかだった。哲哉のタバコの煙が漂ってくる。白い煙に目が染みて潤む。
 氷のとけたアイスコーヒーをすすった。ほとんど水だった。このアイスコーヒーを飲み干すまでの間、私はなんとか会話の糸口を探そうとした。でも、思い出されるのは広島の山肌と、七緒さんの顔ばかりで、アイスコーヒーはあっけなく空になり、後に残ったのは哲哉のタバコの煙だけだった。
「じゃ、私、行くね」
 私はかばんを膝に乗せ、内ポケットからカギを取り出して彼に差し出し、立ち上がった。哲哉は短くなったタバコを灰皿に押しつけ、私の右手の下に手の平を添えて、顔を上げる。困ったみたいに笑っている。店内に流れる「アイ・ガット・リズム」は私たちをバカにしているみたいに陽気だった。
「やっぱりダメなのかな」
 本当は真剣な顔をすべきだったのだろうけど、哲哉につられて笑ってしまった。壊れ物を扱うようにそっと、哲哉の手の平にカギを置いた。
「ダメだと思う」
 そう答えるのが精いっぱいだった。
 サンマルクカフェの自動ドアを抜け、大通りに歩きだす。クーラーの冷気が肌からじわじわ奪い取られて蒸し暑い。冬休みに帰省したときにはまだ開店していなかったラーメン屋の前に、短い列ができていた。街路樹の日陰を探して歩いた。サンマルクカフェの窓から見えた夏空は、大通りに出ても当然同じように晴れ渡っていた。洗って干したような雲が泳いでいる。こんな夏の終わりの、よく晴れた午後に私は、初めての恋人と別れた。「恋人」であった期間は最後の二年間だけだったけど、高校時代の美術部を含めたら、彼とのつきあいは七年近くに及ぶ。私たちは同じ高校の美術部の同級生で、二人そろって上京し、東京の大学に入学した。高校のクラスがかぶったことはないし、進学先もバラバラだったけど、高校に入学してから大学四年生の夏まで、世間様が「青春」と呼ぶ期間のほとんどすべてに哲哉がいた。別れ話の舞台をわざわざ、実家に近いサンマルクカフェに設定したのはだから、互いの気持ちが再び寄り戻っていくのを期待したからだ。 でも哲哉はタバコを吸うようになったから座席は奥の喫煙席だったし、二人とも学生服を着ていないから展覧会の締め切りの話はできなくなっていた。アイスコーヒーが砂時計みたいに目減りし、溶けきった氷までもを飲み干して二人分のグラスが空になったとき、ああ終わったのだと悟った。だから哲哉にあんなことを言われるなんて、思いもしなかった。
 やっぱりダメなのかな。
 もう一度考えても、答えは変わらない。日差しにじわじわと髪の毛が焼かれ、反対に頭は冴え渡っていった。哲哉を目の前にしていたら言えなかったけど、私たちは最後まで恋人にはなれなかったと思う。私の気持ちの如何だけではなくて、哲哉の気持ちもまた、「彼女」という言葉に追いついていけなかったのだろう。だから私たちは二年間高校の美術部の同級生として、七緒さんの後輩の男女として、手をつなぎ、キスをして、抱き合った。言い換えれば今日まで、セックスができなかった。
 サンマルクカフェ昭和通り店にまた行くことはあるだろうか。大通りの信号待ちをしながら考えた。別れの舞台になったけど、もっと別の記憶の方が遥かにかさが多い。七緒さんがいたころ、と、そこまで考えて不意に思い当たった。一緒にいた時間より、会えなくなってからの時間のほうが、もう長くなっているのだ。
 信号が青になった。周りの人に合わせて横断歩道を渡ろうとして、高いヒールでつまずきそうになる。あ、と声をもらして体を立て直し、気恥ずかしくてわざとちょっと視線を上げた。チカッと視界に太陽が光った。八月の鮮烈な日光に一瞬、視界が白く眩む。
 彼の爛漫の笑顔が好きだった。彫刻に向き合っている静かな横顔が好きだった。今改めてそう思う。名状しがたい倦怠感にさいなまれていたあの頃、美術なんて別に、好きじゃなかったと思う。私は高校卒業後、都内の大学の法学部に入学し、語学のクラスの友達に誘われて写真サークルに入った。続けろと言われれば、趣味で絵を描くことなんていくらでもできた。でも、それだけの熱意も、関心も、私には残っていなかった。高校3年間、私が好きで続けていたのは、絵を描くことそのものではなくてむしろ、同じ空間にいた七緒さんとのおしゃべり、それから、哲哉のひたむきな横顔を眺めていることだったのだろう。
 きらきら光っていた彫刻刀の刃先を思い出す。繊細に、敏感に、何かを察知するように動いていた哲哉の爪先、探るようなまなざしが、今になって、次々よみがえる。
 この町の夏は蒸す。私は手で胸元をあおぎながら部屋の鍵を開けた。正午を過ぎ、寝坊助の弟も出かけたらしかった。クーラーの風に当たりながら、天井を仰いだ。彼氏と別れたというのに、気持ちは不思議にないでいた。本当はこの夏、9月に東京に戻ったら、哲哉の誕生日を祝う予定だった。もう少しだけ続けてくつもりだった。やっぱりダメなのかな。響き渡るように哲哉の声がよみがえる。七緒さんの声を思い出す。私たちが出会った頃、あの場所には七緒さんがいた。
 ケータイがメッセージを受信した。哲哉からだった。「おつかれさま」絵文字も句読点もない、出し抜けな六文字だけが画面に表示されている。
 何をねぎらわれたのか、何を励まされたのか、分からなかった。でもこれ以上にない別れの言葉だと思った。
 哲哉はいつ、東京に戻るのだろう。2人で事前に打ち合わせて一緒にこの街に戻ったくせに、そんなことも知らなかったことに気づく。私の1人暮らしのアパートに、哲哉はもう訪ねてこない。そう思ったとたんに部屋の静寂が突然怖くなり、慌ててテレビをつけたら広島の土砂災害のニュースが流れていた。哲哉の言葉を思い出す。大変なことになるね。あの言葉の向こう側に、結局哲哉は足を踏み入れなかった。私を含めこの国のほぼ全ての人がしているように、安全圏から茶々を入れているだけだった。
 そのとき不意に、あどけない表情の女の子の写真が飛び込んだ。友人の隣で、こちらに向かってピースサインを向けている。彼女はまだ十七歳らしい。女子高生ががれきの海で行方不明になっている。たぶんもう、助からない。
 絵を描こう、と思い立ったのはそのときだった。十七歳、という単語に、引きつけられたのだと思う。七緒さんは一月生まれだったから、あの日はまだ十七歳だったはずだ。私が当時の彼女の年を追い越し、それから十代を行き過ぎて、もうすぐ二年たつ。
 東京を出発したのは土砂災害から十二日が過ぎた九月だった。既に死者全員の身元が確認され、あの女子高生も土砂の下から遺体で見つかっていた。広島市内のホテルを一週間予約し、スーツケースに入る分だけの着替えと、リュックサックに入るサイズのスケッチブックを持って、私は広島駅に降り立った。高校生のときに使っていたデッサン用の消しゴムは、空気にさらされて固くなってしまっていたので買い換えた。鉛筆は五本だけ、あとは簡単な水彩絵の具を準備して、足りないものは広島に着いてから調達することにした。というか、美術部を引退してから時間がたちすぎて、何が必要で何が足りないのか、自分でも分からなくなっていた。
 広島駅まで新幹線で5時間、そこから安佐南区まではさらに電車で三十分ほどかかった。朝九時の新幹線に乗ったのに、八木に到着したときは四時近かった。上八木駅で電車を降り、一番近い坂の入り口へ向かった。踏切の前に警察官が立って、運転手に行き先を尋ねている。私はあの山肌を目指して、坂道を進んだ。
 初日に話しかけてきたのは、ボランティア団体の青年だった。浅黒く日焼けした顔をタオルでぬぐい、彼は笑顔で私に言った。
「おつかれさまです」
 たぶんこの人も私を取材中の記者か何かと勘違いしたのだろう。でも撃たれるみたいに、私は哲哉を思い出した。おつかれさま。あのメールの一文を区切りに、私はどこから、何から、逃げてきたのだろう。逃げ場のない町へ逃げこんてくるなんて、袋小路にはまるネズミみたいに馬鹿馬鹿しいと思う。
 山肌のそげた場所を目の当たりにしても、筋書きどおりに意欲がわき上がってくることはなかった。まず、がれきや土砂に邪魔されて、テレビの望遠レンズほどしっかり近づくことはできない。特別引きつけられる何かを感じ取ったわけではない。問題意識を持ってここにいるわけでもないし、仕事で来ているわけでもない。リュックサックを降ろして絵を描こうという決心も起こらない。ただ他に行く場所と言えばファミレスとコンビニくらいしかなかったから、この三日間で何度か、私はここへ足を運んだ。
「あんた、この暑い中、大変でしょう。冷たいもの、飲んで休んでき」
 庭先で手袋をはめ、割烹着姿で土のうを運んでいた初老の女性が話しかけてきた。
「私、ボランティアさんじゃないので、大丈夫です」
「知っとるよ、写真家さんでしょ」
 そういうことになっているらしい。息が上がって訂正するのも苦しくて、私は曖昧に笑った。八木地区は各自治会の中でもいくつかの班に区分けされており、班ごとの結束が固い。だからこの女性の班の中の誰かが私を若い写真家だと説明したのだろう。
「毎日、来とるでしょう」
 女性は私にペットボトルのお茶を差し出しながら言った。
「まだ三日ですけど」
「入れ替わり立ち替わり、いろんな人が来るんよ。朝日新聞とか、NHKとか」
 すごいですね、なんて言葉がふさわしいのかわからなかったけど、そう応じた。
「えらいことになったけぇのう」
 ホテルやファミレスの若い従業員には感じなかったけど、年配の人は西の訛りが強い。女性は自分も軒先に腰掛けて、ペットボトルのキャップを開けた。
「だいぶ片付きましたか」
 ここではお天気の話のように住人同士がそう問いかける。私も彼らにならって尋ねたら、女性は顔の前で片手をぶんぶん振った。
「ぜんぜん。うちの裏手、あれ、あの木をどけてもらわな、どうにもならん。泥はもう外に出したけどね」
 女性が指さした先に、大木が折り重なって倒れていた。木は女性の庭先に首を出すようにして根っこから折れている。大変ですね、と私もやっぱりお天気の話みたいに応じた。結局、哲哉と同じことを、私も言っている。ニュースの向こう側に広がっていたのは、やっぱりニュースと同じ景色で、あの映像に対して何かを汲むことができない以上、私には何事も推し量りようもなかったし、そうする資格すらないような気がした。
 女性は足元に泥をかぶって転がっていた表札を拾い上げ、アレこんなところにあったよ、と笑い、辰川と名乗った。旦那と一緒にここに住んでいて、家が半壊状態なので今は避難所で寝泊まりし、昼間だけ自宅に通っているらしい。当初は市内に住む息子の家に身を寄せていたが、嫁に気を遣ってすっかり疲れてしまい、市営住宅の抽選を待っているところだという。
 私に話しかけてくる多くの人が、自分のことを語りたがった。目の前で逐語がりがりメモを取る記者にはなかなか話す気になれなくても、ただぼんやり相鎚を打っているだけの私には話しやすいらしい。中には相当ぴりぴりして、話しかけてきた記者をめちゃくちゃに怒鳴りつけるような人もいたが、大半は穏やかで、黙々と自宅の掃除をしているような人たちばかりだった。
 辰川さんもやっぱりあの晩の話を始めた。夜十一時頃にはきれいだった川の水が、未明には濁っていたこと。近所の人に慌てて電話をしたけど、山と宅地の間に住んでいる夫婦にだけは電話がつながらなかったこと。自分は間一髪、隣家のコンクリートの車庫に逃げ込み、助かったのだということ。亡くなった夫婦は仲のいい登山仲間で、昨年も一緒に山を登ったばかりだったこと。
「木も立ったまんま、ぜーんぶ、そのままこう、滑り落ちてきて」
 本当に怖かった、トラウマになって今も膝が震える、と辰川さんは次第に興奮して語った。
「山がウワーッと来て、もうきっと助からない、死ぬ、と思って、福山の娘に電話したの。お盆にはお小遣いたくさんくれてありがとう、さよなら、お母ちゃんはあと5分の命よーって。そうしたら、電話口で娘がワーッって泣いて、孫も釣られてワーッと泣きだしよって。すぐに娘が警察に電話したらしいんよ。母が土砂崩れに遭って大変なんですー、うちの母を助けてくださいーって。警察も混乱しとって、お母さんに安全な場所に避難するように言ってください、って言うんだけど、わたしはもうそのときにはお隣の平田さんとこの車庫に逃げて、ああ、もう死ぬ、死ぬときはみんな一緒よ、固まって死のうねーって、ダメかも分からんけど、車の中に逃げてたの。朝になって、ああ、本当に助かったんだ、と思ったら、歩けなくなってしもうて、情けないけど。伝い歩きして八木小に行ったんよ」
 相鎚を打つ余地もないような勢いで、辰川さんは身ぶり手ぶりを交えて一気に話した。広島言葉のアクセントのせいか語り口は不思議になめらかで、それこそ濁流のようだと思う。
「生き残ったからね。生き残った者同士、今は、焦らなまぁ、思い出さまぁ、って言い合っとる」
 焦るまい、思い出すまい、といちいち頭の中で辰川さんの訛りを東京言葉に訳してうなずく。関東で育った私には、お国言葉といえばテレビの芸能人がしゃべっている関西弁くらいしかなじみがない。
「大変でしたね」
 何度目かになる、同じ相鎚をやっぱり繰り返す。日曜日に東京行きの新幹線に乗ったら、たぶんもう辰川さんに会うことはないのだから、親身になっている姿を演出する必要なんて、本当はないのかもしれない。実際私は、大変でしたねなんて無責任な言葉を繰り返すことでしか、この人と会話ができないのだ。
 辰川さんは家の壁を指さし、今度は自宅の被害の状況を説明し始めた。十年ほど前に立て替えたというこの家は、明るい緑色の屋根に黄色っぽい外壁の瀟洒な二階建て住宅だった。たぶん。というのも、赤いれんが造りの門扉はまるごと坂の下に流されたらしく、私は辰川さんの言葉によってしかこの家の元の形が分からなかったから。壁にはひびが入り、窓は真四角に破られ、室内には至る所に泥の汚れが残っていた。屋根の土砂は重機で取り除き、一応家らしい原形をとどめてはいるものの、業者には全壊に近い半壊と判定されているらしい。
「あと三カ月たっても、無理ね。住めない」
「引っ越すんですか」
「二度とここへは戻らん。もうあんな怖い思い、したくないもん。あんな怖い思い、この世にあるのかってくらい」
 怖かった、と辰川さんは念を押すように何度も言った。
 ペットボトルのお茶をのどに流し込む。トラックが通るたびに砂埃が巻き上げられ、のどは一日中がさがさした。汗ばむ陽気だった。住民やボランティアが眼下の坂を行ったり来たりして土砂を運び、まめまめしく働いている。今日で山津波から二週間目になるせいか、一段と記者やカメラの数が多かった。土のうを積んだトラックが坂を上り下りし、一人の老人が道の先で手製の旗を持って交通整備している。全壊している家の隣に、ほぼ土砂をかぶらずに平然と建っている家もあったり、住民同士いやぁえらいことになったっけねぇなんて笑い合ったりもしていて、ふと気を抜けば牧歌的とさえうつる景色だった。この先、土砂やがれきが全部撤去されて、根っこからぼっきり折れて転がっている木々やそこらじゅうにごろごろしている岩がきれいになくなり、崩れた住居の山が重機で取り除かれていったら、きっと強く意識しない限り、あの夜の山津波は誰の目にも見えなくなるだろう。再びこの街が山津波以前の姿に戻ることは、イコール復興か。それは復興ではなく、ただ山津波の景色たちが消えたというだけではないのか。 とはいえ一足飛びにこのまま全壊の住宅を放置するのが正解かと言われればそれも違う気がする。
 辰川さんは手で胸元をぱたぱたあおぎ、今日も暑いねぇと空を見上げた。今日も、というからには、基本的に、この街の夏空は穏やかで、山は頑丈だったのかもしれない、基本的には。辰川さんはそれから、写真は撮れたのか、とか、どこの大学に通っているのか、とかいくつか私に問いかけた。私の名前が気に入ったらしくて、折々で「双葉ちゃん」と意味もなく呼び掛けて笑う。やがて辰川さん、と坂の下から男の呼び声がして、辰川さんは立ち上がって大声で返事をした。すがすがしくよく通る声だった。
 四日目の朝は雨だった。昨日の夕方から弱い雨が降り続いていて、今日はボランティアも中止らしい。やることもないので八木に向かったが、ボランティアの拠点になっている自治会長の家にも人の姿はなかった。ウィンドブレーカーのフードをかぶり、四丁目方面へ歩いた。途中で庭先をホースで掃除しているおじいさんに挨拶され「避難、しないんですか」と尋ねたら「仕方ないけぇね」と苦笑いされた。次、雨が降ったら、ここでじっとしている、と話していたあの女性はどうなっただろう、と思い、少し遠回りして女性に会った場所の近くを通ってみたが、彼女の姿は見えなかった。
 住民が避難するのだから当たり前なのだけれど、雨が降るとこの辺は死んだように静かだ。今日は国土交通省の役人と建設業者が行き来するばかりで、記者の姿もない。アスファルトの上を雨水が浅く流れ、あちこちに水たまりができてぬかるんでいた。山を目指して、肩で息をしながら坂を登った。はれぼったいような空だった。
 七緒さんがいなくなった十二月の夜も雨が降っていた。昼間から暗かった空がとうとう本降りになり、暖房の下で丸まっていても部屋は肌寒かった。けたたましく携帯電話が鳴ったのを、夢のように覚えている。私は家のソファに横になり、風呂上がりの生乾きの髪の毛もそのままに、うつらうつらしながらテレビを見ていた。
 七緒さん、そっち行ってない?
 電話の相手は哲哉だった。通話ボタンを押した瞬間、間髪抜きに飛び込んだ声は張り詰めていた。私は眠気で濁った声で「来てないよ。なんで」と応じた。そもそも七緒さんをうちに招いたことなんてなかったし、センター試験を間近に控えて三年生の先輩は美術室に顔を出さなくなっていた。だから知らなかったのだと言い訳だってできたのだろうけど、哲哉が言葉を詰まらせた一瞬の間に、脳裏に金曜日の七緒さんの姿が閃光のようによみがえり、眠気は瞬く間に引いた。何も説明されなくても、取り返しの付かない何事かが既に起きてしまったのが分かった。
 いなくなったらしい。もう二日連絡取れてないって。
 だから正確には、彼女が姿を消した日は、あの電話から二日さかのぼった日曜日だったのだけれど、私は今も雨の夜だけを覚えている。油絵の具のにおいと黒鉛の汚ればかりの目立つ美術室や、サンマルクカフェ昭和通り店の隅っこのテーブル席で、あの頃、飽きもせず毎日顔を合わせていた私たちは、でも彼女の失踪の気配を意識的に無視した。私と哲哉は十七歳、七緒さんはあと一週間で、十八歳になるはずだった。
 あのとき七緒さんは、私に死んでほしかったのだろうか。





inserted by FC2 system