姉さん(3)






 俊也とは同じ国文学専攻だった。専攻に分かれての授業が始まるのは二年生からで、その初めの頃に私は彼を知った。国文では二年生の秋に奈良の国文学関係の地を巡る「万葉旅行」が毎年の恒例行事となっている。私は友達に誘われてその旅行の雑事をこなす万葉委員になって、そこで俊也を知った。万葉委員は二年になってすぐに召集され、委員会の仕事で連絡を取り合ったり飲み会で一緒になるうちに彼を好きになった。ちょっとした気配りが上手くて、話していて楽しい。親しい友達だと思っていたのに、いつの間にか好きになっていた。
 男色一辺倒で自分の恋愛なんかに注意を払ってこなかった私はその時浪人中だったリコに、扱い慣れない自分の気持ちをどうしたらよいものか相談した。私とリコは、私が姉さんと呼ばれる通り姉と妹みたいだったけれど、その時は立場が逆転して、受験中も彼氏のいたリコが色々と私に指南してくれた。彼女の助言が功をなして、というかリコが背後にいてくれているという安心感が私を前に押し出してくれて、二年の秋に彼に思いを告げることができた。
「姉さん、そろそろ夜ご飯食べに行かない? 加賀くんが限界。朝飲んできた焼酎の効果持続時間が切れたって」
 キクちゃんが遠慮がちに訊ねてきた。そんなに考え込んでいたっけ。
「外真っ暗。確かに、そろそろお腹減ったね」 
 私たちは荷物をまとめて教室を出た。外に出ると昼間の太陽のぬくもりは消えていて、強く吹く風に皆は上着の前をしっかりとしめて門を出た。学校横の桜通りを北にまっすぐ歩いたところに、東京タワーがある。信号を渡りながら北の方角に顔を向けると、タワーと直線上にいることになって一番眺めがいい。横断歩道の真ん中で写真を撮る人も結構見かける。
 月一度だけ三田にくる他大メンバーは、いつも観光客のようにタワーを見上げる。私も見慣れた光景ではあるのだけど、夜のライトアップは綺麗でやっぱり目がいく。そういえば授業の合間に、一度俊也と行ってみたんだ。お土産屋さんや蝋人形館の入り口はどことなく古めかしく雑然としていて、昭和っぽかった。俊也と私はそのお土産屋さんを冷やかして、場違いに平成風なコーヒーショップで休憩した。あの日東京タワーで、彼とどんな話をしたっけ。
 コーヒーショップのカウンターはやたらと頭に浮かぶけれど、会話の内容なんて何も思い出せなかった。でもよく考えたら無理もない。それが後になって、もう取り戻すことのできない時間になるなんて、その時は想像することもしなかったんだから。リコとだってそうだ。彼女と過ごす時間は、まだこれから無限にあるように思っていた。
 相談にのってくれるリコはもういない。携帯に残った彼女の電話番号にかけてもどこにも繋がらないことは、人に言ったら馬鹿にされるかもしれないけど、ただただ不思議だった。
 いやおうなく流れていく時間と変化のなかでもみくちゃにされないためには、今あるものを大切にしていくしかない。リコとの記憶や、一応まだ繋がっている俊也。
 由紀と俊也がほおばっていた恵方巻きは、本当においしそうだった。浮気をしているなんて責める気にはなれなくて、立場を武器にして彼らのそんな時間を奪うことなんてできなかった。
 姉さん、お幸せに。
 リコはきっと、私が俊也と温かな時間を持ち続けることを望んでそう書いた。良い方にも悪い方にも動き出せない今の状況を、私はリコの言葉を信じて、いつか何かが動くことを無理矢理にでも信じてしばらく続けてみようとふと思った。オレンジ色にぼうっと光る東京タワーが、胸の端に残り続ける。
 それに私の心には、探そうとすれば少しの余裕があることも確かなのだ。由紀と俊也が並んでいる姿を回想し、あるいは頭のなかで想像する時にきしむ痛みに耐えられなくなった時には、小さなくぼみのような逃げ場がある。
 このままゆるゆると俊也と由紀の関係が続こうとも、いつか俊也は私のところに戻ってくる。どうしてもどちらか一方を選ばなければならないとなれば、彼は私を選ぶだろう。これは半分希望で、もう半分は傲慢だった。
 私は由紀よりも綺麗だ。その一点で、由紀は絶対に私を超えることはできない。安直で表面的なことに過ぎないのかもしれない。しかし目に見える形で由紀より優れていることがあるのは、私の心に一本揺るがない柱を築いていた。
 付き合う前、告白を決意した私がそれでも弱気になって揺らぎそうになっていると、リコは姉さんは美人だから大丈夫、と励ましてくれた。そんな言葉に勇気づけられるなんて、なんと浅はかだろうと思うのだけど、確かに整った目鼻立ちや顔のつくりは、私がどんなに気弱になっても自信をなくしても、いつでも私についていてくれる。
 昔からそうだった。幼い頃から親戚に理沙ちゃんはきれいだ、と言われて、中学生くらいからそれはお世辞ではないのだと自覚するようになった。もちろん、そんなことを他の女の子に言ったら嫌なやつと陰口をたたかれるから、決してひけらかしたりしなかった。心の中で、顔立ちが整っていることは、生きていくために、有利に働く能力のひとつだと確信していた。小学生の頃は誰が美人で誰がかわいいなんて考える頭もなかったが、年齢が上がるにつれて同年代の子たちも自分も、人の美醜がはっきりとわかるようになっていった。女の子たちはクラスで一番かわいいのは誰で、美人なのは誰で、顔立ちが完成されているとは言い難いけど仕草や性格でかわいい部類に入るのは誰で、ということをみんな知っている。それから自分がどのくらいの位置づけに入るのかもしっかりわかっている。他人と比べて、あるいは他人の反応を見て、自分の容姿がどのくらいのものなのかシビアに見極めるようになる。それで心の底で喜んだり落ち込んだりして、悲観しても変わる顔ではないから、あの子よりはいいと慰めに思ってみたりするのだろう。
 その点私は恵まれていた。ほんのちょっとしたこと、でも数でいえばたくさんのことで今まで得をしてきた。例えば、喫茶店の店員さんが人より多めに私に笑顔を向けてくれる。友達と同じ海鮮パスタを頼んだのに、私の方にだけパスタの下に隠すようにしてエビがいっぱい入っている。バイト先でも、異性の上司に失敗を甘くみてもらえた。他の女友達と歩いていたら、私は間違いなく一番に目をひくし、名前を覚えてもらえる。何よりその場の誰より綺麗であるというのは、この上なく気持ちのいいことだった。
 人間の外面なんて本当に不公平にできている。人は内面なんていうけれど、あれは嘘だ。いくら中身が優れていても、パッケージがいまいちの商品はなかなか手に取ってもらえない。そういうことだ。
 俊也が私を連れて歩いたり、友達に私を紹介する時に得意げなのはわかっていた。それは由紀には絶対に追い越すことのできない一線だった。私はもう一度、姉さんは美人だから大丈夫と言ったリコを思い出した。幸せに、という彼女の遺言も思い出した。リコが死んでから、言葉ばかりが何度も生き返った。
「キクちゃん、悪いんだけど先に行っててくれる? 私学校に用事あったの思い出して」
 横断歩道を渡り切ったところでキクちゃんに声をかけた。植え込みに小さく立ってさかんに鳴いていた子猫のことは、さっきからずっと頭を離れていなかった。まだ夜は冷え込むし、あそこに食べ物になるものは何もない。ほうっておけばきっと死んでしまう。リコが死んだ学校の敷地で、子猫を見殺しにするのは嫌だった。リコだったら、何がなんでも拾って帰ろうと言ったはずだ。
 喫煙所の暗がりのなかで猫を探すと、子猫はさっきと私が見たのと同じ場所でうずくまるようにして眠っていた。私が近づくと気配を察したのか、首を持ちあげて鳴き声を上げた。鳴き疲れたような小さな声だった。植え込みでコートが汚れてしまうのも気にせず、木々の間に首をつっこむようにして猫を抱きあげた。子猫は私の胸のなかで怖いのか安心しているのか、とにかくおとなしくしていた。
 猫をかかえて中庭のベンチに座り込んだ私は、これからのことをほとんど考えていなかった。とりあえず事情を話して今日の飲み会は私抜きでやってもらおう。それから猫を抱えたままでは身動きすらとれない私の頭にまっさきに浮かんだのは、俊也だった。私は子猫を膝に載せて、ポケットの携帯を探した。
 彼なら車で迎えにきてくれると思った。俊也は私が困っていたらきっと助けてくれる。そしたら私はありがとうと言って、私たちは今まで通りにやっていけるんじゃないか。これは全部私の希望だ。
 子猫が私を見上げて鳴いた。頭を丁寧に撫でてやるけど、それは子猫を安心させるためというよりは自分を落ち着かせるためだった。耳にあてた電話から俊也の息が聞こえた。しばらくなかった私からの電話に、戸惑っているのだろうと思った。
「もしもし、俊也」
 自分の息が、電話と電話を当てた頬にとどまって生温かかった。もしもし、という短い言葉が彼に届ているはずだ。
「理沙?」
 しばらくして、俊也は返事をした。黙っていた時間の意味に考えを巡らせないわけにはいかないけれど、声の調子はいつもと変わらない。私は今までのやりとりはなかったように、抱いている猫について話した。一度は見ないふりをしようとしたけど、どうしても放っておけなくて学校にきてしまったこと。もし暇だったら、悪いけど車で迎えにきて欲しいということ。
 全部話すと、俊也は快くわかったと言った。理沙は猫が好きだもんな、子猫となれば放っておかないよな、と笑った。
 私は俊也にチャコの話をしたことがあった。野良猫を手なずけていた私に、猫の扱いに慣れているね、と彼が言った時だ。私はうん、と返して携帯を握りしめた。
 ほら、大丈夫。私たちは何も欠けることなくこれからもやっていける。笑い合うべき思い出を、二人でちゃんと持っている。そうだよね、リコ。
 膝の子猫を抱きしめると、土の匂いと体温が白い毛を伝わってきた。それはただ、子猫が鼓動して発している生き物の熱ではなかった。それは私の思い出で、これから繋いでいくべき希望で、形のない足がかりだった。私はこの温かさが、俊也を待つ間も、彼がやってきてからも、できるだけ長く続けばいいと思った。





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