雨のプラタナス






 深く腰掛ける座席はひんやりと冷たい。照りつけるような光と強い音が体に響く。留伊子は視線を一点に定めたまま、浅く呼吸していた。自分の存在が画面を動く人々の声に掻き消されていることを感じる。
 町の片隅にひっそりと立つ小さな映画館だ。建物の傷み具合や場内の雰囲気からして、相当古いものらしい。擦り切れて色の薄くなったビロードの座席は降り積もった時の長さを思わせたが、客は留伊子を入れてたったの六人だった。かつてつけられた数百、数万の足跡を見ることはできない。
 巨大な画面をさらに凝視したが、そうするとますます彼女の集中力は後退していった。
 一月前、買い物帰りに使う道を気まぐれに変えたところ、見つけた映画館だった。映画といえばテレビで流れているのをなんとなく見る程度で、特別好きなわけでも知識があるわけでもなかった。わざわざ高い金を払って映画館に入るのは人に誘われたときくらいで、一人で足を運んだことはない。それがどういうわけか、この古ぼけた映画館を通り過ぎることができなかった。美しい景色を前に思わず立ち止まるのと同じ気持ちで、何の飾り気もない看板を見上げるために足を止めた。
 厚いガラスの扉を、しばらく眺めていた。銀色の丸い引き手は重そうに見えた。はじまりかけた夏の夜に立っていた留伊子は、額ににじむ汗が止まるのを感じた。
 忍び込むように静かに戸を引いた。一番最初に彼女の注意を引いたのは匂いだった。大勢の人の息に汚れていない空気の匂いだった。鼻の奥に溜り、肺のほうにゆっくりと沈む。閉じられた空間の独特の匂いだ。
 室内に窓はない。朝の日の光にも外の喧騒にも触れることのない純度の高い湿りが、あたりに満ちていた。
 引き寄せられるように受付に座る老人からチケットを一枚買い、金曜の夜を映画館の暗い箱の中で過ごした。その時は留伊子を入れて客は五人だけだった。小さな場内だったが、客の少なさと席を包み隠す薄闇のために空間はどこまでも広がっているように思えた。
 上映が始まり隣の席に人が来そうもないことを確認すると、膝に載せていた買い物袋をそこに置いた。中には彼女の一週間分の食料が詰められている。一人暮らしで少食の留伊子は週に一度仕事帰りにスーパーに寄る。家からは少し離れているが、安くて品ぞろえの良いスーパーが彼女の気に入りだった。野菜や卵、安売りの豚肉がビニール袋の限りある広がりを目いっぱい活用する位置取りで押し込められていた。無駄な隙間はこれっぽっちもない。袋から十センチ程はみ出した長ネギが気恥しく、そっと手をのばして押し込もうとしたが失敗に終わった。袋の底は卵のパックが占領していてネギが引っ込む余裕はなかったのだ。
 なんで私は、あの時映画館に入ったのだろう。何か見たい映画があるわけでもなかった。大体映画が見たい気分でもなかった。留伊子は考える。しかし彼女がふつふつと沸く疑問を投げかける空間も、同じ映画館の箱の中だった。一月前の帰り際、毎月十五日女性割引という張り紙に目をとめ、次の十五日に再び映画館を訪れた。もちろん買い物袋は提げていない。ネギのはみ出た買い物袋はどうしたって映画館には似合わない。買い物のついででも散歩の寄り道でもなく、映画館を訪れるという目的のためだけに家を出た。祝日のため仕事は休みだったが、真昼間に出掛ける気にはならず、日の暮れるのを待って支度を始めた。
 家から歩いて三十分程の、淀んだ時間の匂いがする映画館に何を着て行こうか彼女は散々迷ったが、結局ジーパンにシャツという一番身軽な格好を選んだ。自分の住む町を歩く時に、服装に気を使うことはほとんどない。箪笥の前で服を選び出す手の動きが鈍るのは珍しいことだった。
 しかし結局何を着ても同じことなのだろうと留伊子は思った。何をまとっていても、場内の明りが落され画面が色づくまでの一瞬の深い闇は確実に留伊子を捕える。暗さは空間を無限に広くし、留伊子を無防備にさせる。この前は完全な暗闇が、肌の内側にまで入り込んできたように感じた。真冬の冷たい海にいきなり全身を浸されたような気分だった。五官は停止し、留伊子は体の奥深いところでそれを感じた。いやおうなく感じさせられたといっていい。体は座席と複雑に絡みあっているかのように動かなかった。わずかに腰を上げて背中の位置を調整するという動きさえ、暗闇は許さなかった。背をずらしたり足を伸ばしたりしようものなら、たちまち闇の中に潜む何かがその気配を察して襲いかかってくる。留伊子は子供の頃に感じた暗さへの恐怖がよみがえり、体を固く縛っているように思った。曖昧になる感覚のなかで尻に敷くクッションの柔らかさだけが確かに伝わってきて、やがて座席と一体化してしまうような気がした。そしてそのまま暗闇の粒が全身に侵入し、映画館の無限の広がりと留伊子が混ざり合ってしまう前に、画面は明るく照りつけた。溢れる音が閉じられてしまった耳の蓋を取り去り、留伊子を少しだけ現実に戻した。  日常の生活の中からふと体が浮き、未知の領域に漂い泳いでいく感じ。そんなことにひかれて、この映画館にまた来たのだろうか。単調で起伏のない日常に感謝し、満足しているはずなのに。留伊子は困惑した。本編に入る前、他の映画の予告宣伝が延々と流れている。留伊子は音を立てたり、誰かに気付かれるのを恐れるようにほんのわずかに腰を上げて、ジーパンのポケットに半券をねじ込んだ。券は留伊子の手汗で早くも色褪せ、四つの角は秋の葉の最期のように縮れていた。
 券は前と同じ小柄な老人が売っていた。彼は一度も伸びたことがないような猫背をしていた。留伊子は老人以外に映画館の人間を見たことがない。あるいは見ていたとしても気付かなかったのかもしれない。留伊子が「大人一人」と言うと、老人はかすかに頷き惜しむように小さな声で値段を言う。留伊子が聞きとれない音量と、聞きとれる音量の微妙な境目に老人の声は響く。こちらがどのくらいの声なら聞きとれるのかを素早く見抜き、なるべく無駄な音量を加えないようにしているみたいだと留伊子は思った。それくらい絶妙な声なのだ。声を張るのが面倒で、ぼそぼそと呟いているという風には聞こえない。もっと必要に迫られた理由があるのだと思わせるような加減だった。
 大きな声を出すと残り少ない命が擦り減ってしまう。例えばそんな風に説明されれば納得のいきそうな声だった。
 灰色の鳥が空を切るように飛び、高く鳴いた。視点は地表に下がり、不揃いなタイルの道を行く馬の蹄が映った。大写しの蹄は砂で汚れ荒々しい音を打ちつけながらも、人に引かれて勢いを制御されているらしい。  留伊子は本編の始まったことに気付き顔を上げた。この映画館に来ると、ふとした考えや映画館に入るまでに見た物が頭の中で膨らみ、流れている映像に集中できない。今だって鳥が鳴くまで、老人のかすかな声が何倍にもはっきりと大きくなって耳元で再生され続けていた。声とともに老人の猫背が浮かび、その曲がり具合が祖父の猫背と重なり、祖父の顔の皺が、乾燥したサバナの地の割れ目に見えたのを思い出していた。熱い太陽の中、水もなくひび割れる地面をテレビで見た幼い留伊子は、おじいちゃんの顔みたいと母に言って笑われたのだ。留伊子は暗い映画館の中で、サバナの燃え付くような太陽までもを感じていた。
 画面には、牛の乳を搾る中年の男の姿が映っている。規則的に訪れる朝に、規則的に乳を搾る男。彼の手は効率よく牛の乳を搾り、白い乳の溜ったバケツからは太く鳴く牛の体温が這いのぼってくる。
 留伊子は思い出したように映像に見入るが、彼女はとっくに話の筋に置いていかれていた。男がどういう流れの中で乳を搾っているのかも、男と牛がどの程度の親しさを持った間柄なのかも留伊子にはわからない。
 留伊子の中には、受付の老人や祖父、母の声が留まっていた。病院の廊下や待合室にあるような、どこまでも続く長い白い椅子の上に、彼らはずっしりと腰をおろしていた。
 記憶の膨らみは、また別の記憶を刺激し揺り起こした。記憶は再生されるビデオテープのようにかたかたと音を立て、霞んだ色の断片を留伊子の頭にばらまき始めた。
 ここに似た場所に来たことがある。この映画館に似た場所を自分は訪れたことがある。留伊子は思った。画面の人々の話声はますます意味をなくし、留伊子の記憶に呑まれていった。一方会話の背後の鳥の声や車の音はいやにはっきりと聞こえ、耳奥の生ぬるい空間をさまよった。さざめきは耳の壁に当たってははね返り、また別の壁に当たって反響を続けた。
 太い二本のレールを走る電車の音が、長い余韻を伴って近づいて来た。
 台風で朝の電車が止まった日、留伊子は友人とさびれた映画館を訪れた。何か奇抜なことや特別なことが起こったわけではなかったが、その一日は 留伊子の歳月に奇妙な感触を残していた。普段は埋もれていても、過去の泥の中に手を差し入れればすぐ掴むことができる。指先はすぐに感応する。他の高校時代の日々と比べてもその日だけが、違う臭いを放ち、形の異なる影を落とし、歯茎や舌先にしつこく残り続けるような味をしていた。異様な光沢を持つコガネムシのように、十年近く経った今も時折うるさい羽音を立てる。
 それは逆に、自分の高校生活の多くの日々が、留伊子にとってさして興味深いものではなかったということを示していた。思えばその台風の日以外一日も休まず学校に通っていたことを思い出して、留伊子は苦笑した。暗がりの中で誰と話すでもなく苦笑を浮かべるのはとてもおかしなことに思えたので、実際に口の端を緩ませたりはぜずに、心の中でそっと苦笑いをしてみた。しかし胸のうちで一人隠れるように笑ってみると、誰に見られているわけではないのに、むしろ誰にも見られていないために、留伊子は無性に気恥しくなった。
 あの日、台風の影響で電車は止まった。留伊子は学校へ向かう途中だった。強風でしばらく電車が動かないという車内アナウンスが流れてからも、いつになく静かな満員の電車の人々と留伊子は辛抱強く立ち続けていた。電車が止まっても吊革を掴んでいた人々は相変わらず吊革を掴み、雑誌に集中していた人はさらにその集中を深めていく。柔らかな座席に座って眠りについていた人は、電車が発車の意思のない停止を続けていることに気付くこともなかった。違和感を覚えるほどに普段と何ら変わることのない光景が脈々と続いた。それは人々が変化に対してこの上なく鈍感であるか、変化というものを大いに恐れて、固い抵抗を試みていることを思わせた。留伊子の時計は本来あるべきではない時刻に、彼女が通り過ぎるべき駅にいることを伝えていた。蝶の足のような秒針が、震えるように前進していた。しかしいくら進んでも円を描いてまた同じ場所に戻ってくるのだから、それは前進と呼べるようなものではないのかもしれない。
 電車が止まって十分程過ぎると、留伊子の目の前に立っていた背広の男性が鞄を持ち直して乗客を掻き分け、開けっ放しのドアから出て行った。すると重い蓋が取れたように、次々と人々が降りて行った。彼らはそれぞれ会社に電話をかけたり、替わりとなる交通手段を探し始めたようだった。動き出した靴音は、少し前までの氷のような時間を押しのけていった。彼らの時計の秒針は、再び貪欲に時を刻み始めた。
 留伊子はたとえ今電車が動き出しても、授業の開始までに学校に着くのは不可能であることに気付いて扉を出た。電車は留伊子の最寄り駅から学校の中間にある駅で止まったから、家にも学校にも遠い。朝の天気予報で台風は午後には抜けると聞いていたから、それまでどうにか時間を潰さなければならなかった。留伊子はホームの中ほどにあるオレンジ色のベンチに座った。それから線路の向こうに立てられている、飲料水や化粧品の宣伝看板になんとなく目をやる。看板の女性は熱い太陽を背景にペットボトルの冷たい水を飲んでいるが、本当の空に太陽は見えなかった。冷たい水など飲まなくても、今に冷たい雨が雲間から落ちてきそうな天気だった。
 そうしているうちに留伊子は同じ電車に乗っていた友人と偶然ホームで会い、駅を出た。学校に辿り着くことも家に引き返すこともできない二人は、町をさまよっているうちに映画館に入った。
 留伊子は隣に座る友人の細い首を眺めていた。丈夫であることや機能的であることを度外視してつくられたような、細い首だった。留伊子は時折彼女と目を合わせて、相手の話に頷いていた。学校の期末試験や同級生の噂話が会話の大半を占めていた。
「留伊子は東京の大学に行くの?」
 質問が終わらないうちに明りが消え、空間を支配する大きな音が流れ始めた。声の尾っぽは二人の間をすり抜けるようにどこかへ吸い込まれた。留伊子は友人の問いに「うん」とだけ答えたが、相手の耳に入ったかどうかはわからなかった。彼女は「始まったね」とだけ呟き、画面に見入っていた。
 その時見たのは、ホラー映画か何かだった。留伊子は映画の大筋をすっかり忘れてしまっていた。内容やおもしろさが頭に残るような話ではなかった。ただその中の二分にも満たないシーンだけが、風化しない安定した記憶として残り続けていた。留伊子はそのシーンを段々と思い出していった。
 母親が長い柄のついた杓子で、コンロにかかった鍋の中身をかき混ぜている。赤いスープがまとわりつくように杓子の表面を這い、鍋の淵に散った。具の沢山入ったミネステローネだ。温かな湯気はうまそうな香りを含んであたりに広がる。コンロの後ろのテーブルでは、子供たちが料理の出来上がりを待ちわびている。母親のつけるピンクのエプロンのポケットは、柔らかな膨らみを描いている。無造作に入れられた小さなラジオからは、中年の男の話声に続いて音楽が流れた。若い女が、あり余るエネルギーを注ぎ込むような甲高い声で歌った。誰もいないドアを激しく叩くような、とても乱暴な歌い方だった。それでもそこには、彼女の鼻を通る息や、絶え間なく動く舌の渇きと疲れ、何かを求める切実な気配がこもっていた。子供たちは黙って席についている。
 鍋の中では厚く切られた人参やキャベツが浮き沈みを繰り返しながら回転していた。厚いスープの湯気は霧のように濃く不透明になり、部屋を覆った。蚕の繭が幼虫の体を包み込むように、白い湯気は少しずつ深みを増して、母親や子供たちの表情を隠していった。歌はいつの間に終わり、ラジオからは誰の声も聞こえてこなくなった。母親がスープを三枚の皿に分けてテーブルに運んだ。子供たちが銀色のスプーンに手をのばしている間、カメラは立ち上る湯気をかき分けて料理を大写しにした。煮込まれた人参の肌はすっかり柔らかくなり、羊の目のような気だるい艶を放っていた。さらにスープをよく見ると、そこには薄白い豆のようなものがいくつも浮かんでいた。小さな粒に無数の皺が寄っている。
 赤ん坊だった。背中を丸め手足を縮こませ、他の具材に混ざって目立たないが、閉じられた瞼の影と低い鼻筋は確かに人間のものだ。子供達はスプーンですくい上げ、粒のような赤ん坊の入ったスープを口元へ運ぶ。白い歯をちらつかせながら口を開けると、スプーンと歯の触れ合うかちゃりという音が鳴った。
 一体どういうわけでその小さな赤ん坊たちがミネステローネに紛れ込んでいたのか、彼らは何者なのか、子供達は赤ん坊の存在に気付いていたのか。留伊子は何も覚えていない。ただ、子供達の咀嚼はとても長かった。彼らは手に握ったスプーンを皿に浸したまま、際限のない咀嚼をした。赤ん坊の柔らかな頭や手足など、とうに砕け消えてしまっただろう。子供たちの唇は太い芋虫のように、鈍重に動き続けた。
 ここまで思い出すと留伊子は、自分の心音が少し高まるのを感じた。食事する子供達の後ろに立つ母親と目が合う。留伊子の頭の中で再生される映像であるはずの彼女が、留伊子をぐっと見つめてくる。母親の目の感じや薄い微笑みは、留伊子にそっくりだった。しかもそれは留伊子が鏡の中で見る自分よりもっと留伊子らしく、生々しい。自分の目のような母親の目に見入られて、留伊子は気まずさのような恥じらいのような、親しみのような恐れのような説明し難い感情にとらわれた。留伊子は意識を縛られたように母親から目をそらすことができない。母親の白い額を見る。視線は睫毛の密集した目の縁をたどり、鼻筋を流れ、淡く色のついた唇にそそいだ。母親の唇は今にも何か語りだしそうに、小さく開いていた。
「それ以上見てはいけない」
 男の低い声が耳奥に鳴った。氷水を流しこまれるように留伊子の頭は冷えていき、薄く開いた瞼に光の束が差し込んだ。留伊子に似た母親の映像は波が引くように消えていった。子供達の無言の食事は留伊子の知らない所で続けられる。留伊子は手の平が汗ばみ、生暖かい熱を放っているのを感じた。回想の中のスープの湯煙を掴んできたような感触だった。
 留伊子は高校生ではない自分が、映画館の座席に座っていることを思い出した。留伊子を引き戻した画面の男は静かに語っていた。ハイネックのセーターに包まれた彼の首は忙しく右へ向いたり左へ向いたりし、彼を囲んで座る少年達に眼差しを落した。留伊子には物語の展開を理解することはできなかったが、彼女は寒い雪道を歩いて来た人が温かな火を求めるように男の声を求め、耳を澄ませた。波打つような現実の感覚と鼓動が彼の声には含まれていた。留伊子は右手を口元に持っていった。彼女には親指と人差し指で下唇をつまむ癖がある。弛緩した指先に、いつもなら気にすることもない温かい鼻息が染み入った。


 留伊子は家に帰って、夏の間は使わない暖房器具や、自分でも何が入っているのかわからない段ボールの箱の詰まった押し入れを開いた。三カ月か先に控えている引っ越しのための整理という目的もあったが、留伊子はまず高校の卒業アルバムを見つけたかった。押し入れには過去の遺物が所せましとひしめき合っている。アルバムは何年もの間関心を向けられることのないまま、段ボールの箱のどこかにしまわれているはずだった。留伊子は戸の前が荷物でいっぱいになるまで押し入れの中を漁り、三十分ほどかけてやっと目当ての古びた本を見つけた。彼女は懐かしむ間もなく頁をめくり、九年前一緒に映画館に行った友人の顔を探した。先程映画館で細い首筋の様子だけは鮮明に浮かんだものの、顔や名前の漢字が思い出せなかったことが不思議でしょうがなく、妙に不安になっていた。その時は親しい友人だったのだ。
  一体私はあの子と何を語らい、何を思い合い、どうやって過ごしていたのだろう。押し入れの荷物を出すのに疲れ頭の働きの鈍った留伊子には、スープから立ち上る煙が裂け目の向こうの友人の顔をぼかしていく光景が浮かんだ。留伊子と友人は向かい合わせて立っているのだが、その間にはサバナの地のひび割れが深く刻まれている。
 馬鹿な妄想はやめよう。早くこの作業を終わらせ自分の気を済ませて、夕食の準備に取り掛からなくてはならない。留伊子はそう考えながらアルバムの頁をめくり、真面目な表情で写真に収まる友人の姿を見つけた。
 太めの眉に膨らみの豊かな頬。普通より大きめの耳の端が、下ろした髪に隠れきれずにのぞいていた。写真を見ればもちろんそれが彼女だとわかったのだが、そこに写っているのは留伊子の知っているような知らないような友人の顔だった。留伊子は試しにアルバムを閉じて、友人の顔を思い出そうとした。しかし見たばかりの友人の顔は一向に浮かんでこない。留伊子は夢に見た幻を探し出すときのように行き詰まりしきりに惑った。留伊子は黒いアルバムの表紙を四本の指でさすった。それから部屋を見回した。まるで友人の姿がどこかに隠れているとでもいうように、彼女の目が大きく上下し左右に動き、見慣れた空間の隅々までをたどった。畳のすみには朝たたんだままの布団が置かれている。冷房がよくきいているので、汗ばむような気だるさはない。留伊子のまわりを囲むように、押し入れから出された物たちが散乱している。
 使わなくなったテニスラケット、古びて光沢を失ったおもちゃのラッパ。海辺で拾った貝殻が山ほど入ったビニール袋。どうしてこの押し入れの中にあるのかわからないようなものまでが、久々に外に出されて留伊子の視線に触れた。物たちは静かな押し入れの時間の中で、留伊子の好奇を呼ぶ準備をしていたようだった。留伊子は彼らに蓄積された時間をたどり、遠くなった思い出を懐かしむことができた。切れそうに見える細い糸でも、たぐり寄せればその先には、留伊子の過ごした空気や日差しの具合までもが結びつけられていた。
 留伊子は座りこんだ膝の上からずり落ちそうになるアルバムを押さえた。黒い表紙は体温を失った生き物のようにひやりとしいていた。かつては血の通っていた生き物の肌が、死や何かによって機能を停止してしまったような冷たさだった。冷房をきかせ過ぎたのかもしれない。
 友人の顔はやはり思い出せない。留伊子はもう一度頁を開いてみようと思ったが、壁の時計が十一時を回っていることに気付き手を止めた。そして散らかった荷物を片づけるために固くなった腰を上げた。
 

 留伊子は次の月も吸い寄せられるように映画館に行った。いつもと同じ十五日だ。留伊子は席に着くとき、隣に座る男性に「こんばんは」と挨拶をした。押さえられた照明の下で、男は染みのような影を顔に浮かべながら留伊子を見た。紺色のネクタイを締め、背筋の力は全て失ってしまったというように座席にもたれていた。留伊子と同い年くらいだろうか。
「こんばんは」
 軽い微笑とともに挨拶が返ってくる。彼も留伊子を覚えているような様子だった。前に映画館を訪れた時は、留伊子の後に彼が座ってきた。留伊子は気に入った席を決めて一回目に来た時から同じところに座っていたのだが、この男性と隣合うのは二度目だった。いつきても数えるほどの客しかいない映画館だ。隣に誰かが座るというのは珍しいくらいだった。
「お気に入りの席なんですか」
 バックを膝の上に置いて留伊子は訊ねた。
「まあそうですね。あなたも」
「ええ。この席に座るって決めてるんです。行きつけのお店なんかでも、いつも同じところに座るのが好きなんです」
 留伊子は緩められたネクタイを横目で見ていた。それは重力に引きずられないよう必死に取りすがっている、枯れかけの蔦植物のように見えた。


 翌月の十五日、留伊子と男は劇場を出たところのソファーに座り、ぽつりぽつりと言葉を交わしていた。会話には長い間やたくさんの空白があった。留伊子は最初、男が会話を望んでいないのかと思ったが、彼の口からやや低めの声が落ちてくるたびに、そうではないのだと気付き始めた。彼は留伊子の投げかける言葉を牛のようにゆっくり咀嚼し、満足のいくまで体に馴染ませてから返答の句を考えた。
 二人は上映が終わってから三十分近く、降りしきる雨のために映画館の中に閉じ込められていた。二人が帰ろうとした時は恐らく雨の一番ひどい時だったし、風もだいぶ吹いていた。夜が更けるにつれて雨脚は弱まると天気予報で見た気がしたので、しばらく待っていることにしたのだ。家を出る時に雨が降っていないと、留伊子は傘を持つのをいつも忘れてしまう。
「受付のおじいさん、ちょっと怖いですよね。チケットを買うときに、私に映画を見る資格があるのか調べられている気分になるの。ちらっと人の顔を見るでしょう」
 男は頷いて首元に手をあて、かすかな動作であたりを見回した。受付の老人がそこらを歩いていないか確認するかのようだった。それから彼は宙を見つめ、奥二重の目を細めるように瞬かせた。老人のことを思い出しているのだろう。
「僕には、この建物の不思議な力に取り込まれてチケット売りをさせられているように見えます。ここは何だか、おとぎ話にでも出てきそうな独特な雰囲気があるでしょう。若い頃から閉じ込められて、ずっとチケットを売っているんです」
「確かに。そう言われるとそういう風に見えるかもしれないわ。彼を助けに来る人はいないのかしら」
「ここは色々なことを想像させる場所ですね。外の日常とは少し離れている気がする」
 雨音は途切れることなく耳に入った。長く尾を引く幾多の雨粒が、暗闇にまぎれて降りてくる。雨は車のライトや道行く酔っ払いの酒臭い息、町を吹く風すら、しっとりと濡らした。建物の入り口に掲げられた小さな看板も、夜の暗さのなかで意味を失いながら雨に濡れていた。
 街路樹は今日の雨風でたくさん葉を落とすだろう。紅葉した木々の葉は、もうそんなに強くはない。留伊子は家の前の通りに植えてあるプラタナスの葉を思った。夏の間太陽の光を目いっぱい吸い込んだ木は、黄色の葉を乾燥し始めた空気の中に泳がせていた。道沿いに植えられたプラタナスの木々は、金の鎖のようにどこまでも連なっていた。
 雨音は拾い上げようとした時にははっきりと聞こえ、意識しない時にはぼんやりとくぐもって聞こえた。そういう時には、この激しい雨降りはどこか遠くの世界で起こっている、留伊子の身には関係のないことに思えてきた。地面に打ち付けられる水滴の正体が本当に雨なのかどうかもよくわからなくなってくる。
 留伊子は長い歳月を積み込んだこの箱のような建物が、荒れた海の上を漂流しているのを想像した。降り続く雨の音は、寄せる波の音に変わった。雲に閉ざされた空の下で、留伊子を乗せた箱は大きく揺れながらどこかへ運ばれていく。悪天候で黒く染まった波がしきりに打ち寄せ、箱はただ海の意思のままに流される。広大な景色のなかには海岸も小さな島すらも見えない。閉ざされた箱の中で聞く波音は、激しさを失って掴みどころがない。かすれたような高い音は、風が吹いていることを知らせる。留伊子は揺れる箱の中でじっと息をひそめている。
「今日は、僕の兄の命日なんです」
 留伊子の頭からさっと海の空想が引いた。天井の黄色いライトがうすぼんやりと辺りを照らしていた。暗い場内から出てきても、眩しさを感じない弱い光だ。留伊子は塵のように舞う光をかき分けて、相手の横顔を見た。
「いや、僕が決まって十五日にあなたの隣に座るのを不思議に思われているんじゃないかと考えていたんです。それでつい」
 男は膝の上に投げ出されていた左手で右手を包みこみ、それからゆっくりと肩の力を抜いた。
「僕は兄に連れられてよくこの映画館に来ていたんですが、兄は一年前に病気で亡くなりました。八月の十五日です。彼はその夏中冷房のきいた病院にいました。暑さも、体の汗ばむのも感じなかったからでしょう。見舞いに行った時に、全くこれは偽物の夏だと言っていました。僕も後後まで何のことかわからなかったんですが。この暑くも寒くもない映画館で過ごしているうちに、兄が何を言いたかったのかわかりましたよ。私と兄は決まった席に隣合わせて座っていました。がらがらの、席は選び放題の映画館ですからね。兄が死んでから仕事の長引かない十五日の夜は、兄の座っていた席で映画を見るんです。あなたが座っているのは、兄がいた頃僕が座っていたところなんです」
 留伊子は無口だった彼がいきなり長い話を、しかも彼女が想像もしないような長い話を始めたことに驚いた。そしてさっきまで自分が座っていた座席のことを思った。二時間座っても疲れない柔らかな椅子。席を指定するための番号の表示されたプレートがつけられていたが、一度に入る客が十人にも満たないこの映画館でそんなものはとうに機能を失っていた。留伊子は男の話に何と感想を言おうか思案していたが、一向に思いつかない。雨音だけが重なる沈黙の中をくぐり抜けた。そうしているうちに再び彼が口を開いた。
「兄と言っても僕たち兄弟は同じ年です。双子だったんです。そっくりのね。その二人が並んで映画を見ているっていうのは、なんとなくおかしな光景でしょう」
 留伊子は言われて、その様子を想像してみた。確かにそれはいくらか奇妙な光景のように思えた。留伊子の思い浮かべる双子は、なぜか全く同じ服を着ていた。
「お兄さんのことが好きだったんですね」  留伊子の言葉の後ろに、雨の音がうっすらとかぶった。どうしてこんなに強い雨が降るんだろうと彼女は思った。雨のせいで夜はより深く、長くなっていた。床に置かれた鉢植えの観葉植物の大きな葉は、天井のライトを受けて黄色く光っていた。不自然で人工的な輝きだった。
「いえ、むしろ僕はどちらかといえば兄のことが嫌いでした。兄は俳優をやっていました。とはいっても脇役ばかりで名の知られたもんじゃありません。お金もほとんど入ってこないようでしたね。勉強のためにとかなりたくさんの映画を見ていたようですけど、なぜ僕を連れて映画館に通っていたのか今だによくわかりません。兄は僕のことを好いてはいないようでしたからね。僕はそのせいで兄が好きでなはかったんです」
 留伊子は口をはさんだり、声を出して頷くこともしなかった。今彼は、誰に話すでもなく自分のために語りたがっている。そう感じたからだった。自分は偶然そういう瞬間に居合わせただけなのだろう。彼が何かに対して語っているとすれば、それは留伊子に対してというよりは、この建物の壁や空気や年月に対してであるよう思われた。留伊子はただ、光を受ける観葉植物の葉のように、身じろぎもせず男の言葉を受けていた。
「兄は浮気性の母が嫌いで、その母親から生まれた自分のことまで汚いもののように思っていました。そして自分にそっくりな僕のことまで嫌っていました。口に出して言われたことはありません。口に出して言うにはめちゃくちゃな理由ですからね。でもそういう感情は嫌でも伝わってくるものです。兄に嫌われることに関して自分自身の中に何一つ非を見つけることのできない僕は戸惑いました。そして兄のことを、分かり合えない人間と断定してみたりしました。その方が物事に整理がつきやすいと考えたのです。でも僕は、兄に同情していました。彼は母を強く嫌っていました。その感情に比べたら、僕に対する嫌悪はおまけ程度のものだったかもしれません。誰かを嫌うというのは、特に肉親を嫌うというのは膨大なエネルギーを必要とすることです。兄はそのことで、自分でも気付かないうちにかなりのものを消耗していたと僕は思います。彼が早死にしたのはひょっとするとそのせいじゃないかと思っているくらいですから」
 留伊子は自分が遠慮もなく男の横顔を見続けていたことに気付いて、とっさに目をそらした。
「僕は、自分がなんでそんな兄の命日に、ここに通っているのかよくわからないんです」


 ずいぶんと深い眠りが留伊子を包んでいた。
 もう散り終わりそうな街路樹の葉の上を踏みしめながら、彼女は映画館を訪れた。人の顔ほどもありそうな黄色いプラタナスの葉は、踏みつけるとあっけなく砕けた。風に吹かれる木々の音が、夏とはずいぶん変わっていた。白い太陽が雲間から見えていた。
 留伊子の隣には誰も座っていない。絶海に浮かぶ無人の暗い島のように、椅子は固く沈黙していた。留伊子は映画の始まるまで、隣の席に男が現れないか周囲を見渡し注意を巡らせていた。もし彼が来ればいつもの席に座るに違いないのだが、そうせずにはいられなかった。しかし男は現れなかった。
 意識の回復とともに耳に入る音は大きくなった。瞼が完全に持ちあがった時、彼女は自分が映画館の座席にいることに気付いた。二日後に迫った引っ越しの準備に夢中になり、昨日はつい夜ふかしをした。腰かけるクッションの柔らかさについ、眠気を誘われた。
 退屈な人が虚空を眺めるように、留伊子は画面を見上げた。ここが映画館でなければ両腕を伸ばして思い切り伸びをしたい気分だった。唇の先から細く息を吸い、苦しくなるまで吐き出してみた。肺の中はからっぽになるが、喉の奥に何かが詰まっているように感じた。
 映画の登場人物たちは二時間三十分という限られた時間の中を行き来し、喋り立て、時には沈黙を演じた。寝入っていた留伊子に話の筋はわからない。流れのわからない映像を見ているうちに、なんだか所在のない気持ちになってきた。自分はこの映画館の中に間違った記憶として植え込まれつつあるのだと感じた。ひとつだけ余った、どこにも噛み合わないパズルのピースのようだ。厳しい門番の老人に、埃のように払い落されるかもしれない。
 昨日整理した物を思い出した。部屋は相当に散らかったままだ。引っ越しに向けて日に日に積み重なる段ボールの数は増えていった。およそ生活するには必要のない物品の数々が留伊子の部屋には溢れていた。物を捨てられない性分なのだ。何度もアパートの前のゴミ捨て場と部屋を往復したが、最後には何も考えずに片っ端から段ボールに詰め込むようになった。いっそ引っ越し業者が荷物を全部なくしてしまうか、配送のトラックが燃えてしまえばいいのに。留伊子は自分の詰めた重い段ボールが、ある時突然、いくつかの偶然や不運の重なりで消えてしまうことを妄想した。
 眠気の晴れない留伊子は重い瞼の落ちるのを止めようともしなかった。しかし強い鼓動が全身をひと打ちして、留伊子を揺さぶった。
 雨降りの夜の男が、画面に現れたのだ。留伊子は、彼の紺色のネクタイを思い出し、席を立った時の影のような足音を思い出し、画面の男に重ね合わせた。そしてそこまでしてやっと、映画の男が先月話を聞いた男の兄であることに思い当った。留伊子は思わず隣の席に目をやった。暗闇の中に、誰かが座っているような気がしてくる。深く呼吸をしながら画面に見入る誰かがそこにはいる。その誰かは暗闇の粒子を吸い込み自分を暗闇に溶かしこんでいる。そこには誰かがいるのだ。留伊子ははっきりとそう感じた。
 兄はガラスの灰皿を何かに叩きつけている。灰皿をつかんだ十本の指には、ガラスにのめり込んでしまうのではないかと心配になるほどの力が込められている。一体どこからそれほどの力が湧いてくるのだろう。食いしばった歯の隙間からも、あり余った力は漏れ出ていた。眉間にはしつこく貼りつくような皺が浮んでいた。彼は全身を弓のようにしならせ灰皿を上下させている。彼が叩きつけているのは、おむつ一枚で横たわる赤ん坊だった。赤ん坊は一瞬だけ画面に現れ、あとは男が鈍器となった灰皿をひたすら振り下ろす姿が映された。彼は幾度となく腕を上下させた。腕は歯止めのきかない壊れた機械のように激しい運動を続けた。白く無抵抗な赤ん坊がこれほどまでに痛めつけられている理由は留伊子にはわからなかった。溢れる力が男の意思によるものなのか、何者かに強いられたものなのかどうかもわからない。留伊子は起こっていることを見極めようと、食い入るように画面を見た。計算された演技の枠をとうに超えてしまったような動きと緊迫感があった。何度も叩きつけているので、男は何も見なくても灰皿を振り下ろすべき場所がわかるのだろう。  彼の目は焦点を失いさまよい始めた。
 弟が纏っていた雰囲気のかけらも画面のなかの男にはない。それでも二人の顔のつくりは全く同じだった。まつ毛の本数の一本だって違ってはいないというほどに、そっくりだった。留伊子はなぜか男の行為に暴力的なものを感じなかった。激しい動作を続ける男は疲弊していないわけではなかった。彼は確実に消耗し、額に垂れる汗は熱い疲労を含んでいた。しかしその疲れまでもが今や彼のやるせない活力となり、彼を動かしていた。やめてしまえば男はその場に倒れ込み、二度とは動けなくなってしまうのだ。男の目には涙がにじんでいた。
 留伊子の背中はじわりと熱されるように痺れた。湿った感触が留伊子と椅子の背を固く結びつけた。椅子の方が体温を発して、熱を放っているように感じられた。留伊子の座る椅子には、映画館の歳月やかつてそこに座った弟の気配が血脈のように流れていた。留伊子はそのうごめきの中に埋まりながら、一月前に聞いた雨の音を思い出していた。夜の闇を隠れるように伝い、全てを包みこんでいく長い雨だった。





 風は冷たくなり街路の色は段々と褪せてきた。冬の白い息はすぐそこまで迫っていたが、留伊子はその前に町を出て行く。改装中の駅や図書館が建つと噂されるからっぽの土地をおいて、銀色の電車に乗って出発する。今年の冬は新しい町で新しい雪を踏む。今住む町からは遠く、賑やかな場所だ。留伊子はもうこの町を訪れることはないだろうと思った。辺鄙な場所だし、訪ねるべき人もいない。
 引っ越しの日、留伊子は町を離れる最後に映画館の前を通った。特別の友人にひっそり別れを告げるように、人通りのない早朝を歩いてきた。明るい時間に見るのは初めてだった。映画館の入り口は、夏よりも秋の空気に馴染んでいるように見えた。あの弟は来月は映画館に来るだろうか。兄が演じた映画を見るだろうか。自分と瓜二つの顔が画面に映し出されるのはどんな気分だろう。留伊子は兄の姿を見た時、映画館の椅子の背もたれが、彼女がわずかにかかわった双子の兄弟の物語を語りかけたように感じた。それはほんのわずかな、かけらのようなものだ。
 彼らはささやかな巡り合わせで偶然留伊子とすれ違った。留伊子と彼らの結びつきはおぼろげで、誰かの短い瞬きのようなものだった。それでもふとした拍子に留伊子は思い出すだろう。高校の友人の細い首を思い出すように、映画館に並ぶ二つの座席を思い出す。それは留伊子と彼女の過去との間に取り交わされる破られることのない約束だった。もちろんそんな約束のあることを留伊子は知らない。
 留伊子はふと、自分が忘れ物をしいていないか心配になった。彼女には、家を出てしばらく歩いているうちに忘れ物を思い出す癖がある。それは大体いつも駅に着く前のことなので、あわてて家に取りに戻るのだ。しかし今の留伊子に忘れ物などあるはずがなかった。彼女の家はもうからっぽで、大量の段ボール箱は引っ越し屋のトラックに積み込まれて今頃どこかの道路を走っている。
 家具や荷物の運び去られた部屋を、留伊子は不思議な面持ちで眺めていた。何もかもが持ち去られた空間は、まるで馴染みのない別の場所になってしまっていた。広い床も窓から差し込む光も、もう留伊子の知っているものではなかった。最後に家のドアを閉めるとき、留伊子は他人の家を出る時のような気分になっていた。玄関からまっすぐ見える廊下は長く、凪いだ水面のように平たくのびていた。そこはもう、自分が足を踏み入れてはならない場所であるように留伊子は感じた。
 留伊子は肩にかけたバックから切符を取りだし、表示されている電車の時刻を確認した。「A-13」というのが、彼女に指定された座席の番号だった。





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