ピースフル・ワールド(1)






 ユキオちゃんは紅のネクタイを締めている。細身で背の高いユキオちゃんが、夏服の白いワイシャツに赤いネクタイを締める姿は目立つけど、黒縁の眼鏡の奥で切れ目を緩めて笑う表情に、紅色はよく似合う。女の子の間では彼氏と制服のネクタイを交換するのが流行っていて、男子制服の紺色のネクタイを締めるのは彼氏がいる印だった。
 階段の踊り場に、ぶらりと依田が現れて、こちらを見上げてへらっと笑った。まどかは紙パックのストローをくわえたまま、片手を振った。依田はゆるゆると階段を上がってくる。
「遅かったじゃん、依田」
「コンビニ行ってた。購買混んでて。そういえば、春野さんに会ったよ。ユキオちゃん、行かなくていいの?」
「いいよ、今日は。面倒くさい」
「言いつけてやろう」
 依田はケラケラ笑いながらまどかの隣に腰を下ろした。
 四階の東階段を登り切ったところに、狭い踊り場がある。すぐ背後の屋上のドアに填め込まれた小さなガラス窓から、わずかに初夏の鮮やかな日差しが垂れこんでいるだけで、採光も悪く、湿気もこもる。徐々に暑くなってきたこの頃は屋上まで上がる生徒も減っており、教室から遠い東階段は昼休みでも人通りがまばらだった。
 依田はコンビニのビニール袋からクリームパンを取り出した。
「依田お前、まだ母ちゃんと仲直りしてないの?」
 ユキオちゃんが薄笑いを浮かべ、これ見よがしに卵焼きを箸でつまむ。依田は先週までお弁当を持参していたが、月曜日に勃発した冷戦により、購買に通う日々が続いていた。卵焼き以外のおかずがすべて冷凍食品であることに対して母親に異議を申し立てた所、翌日すべてのおかずが卵焼きになっていたのだ。まどかとユキオちゃんに散々笑われながらも依田はまだ意地を張っていて、昨日は不気味で独創的な弁当を自分で作ってきた。ご飯とサラダと卵が混じり合い、ちょっと味見させてもらったらオイソースの味がした。
「いい加減、謝れよ。俺、もうご飯の中に埋まったキュウリなんて見たくない。食欲失せる」
「ユキオちゃんこそ、春野さんと仲直りしなよ。睨まれちゃったよ、さっき」
「え、ユキオちゃん、けんかしてるの? なんで?」
 まどかは潰した紙パックを依田のコンビニ袋に放りいれた。ユキオちゃんが決まり悪そうに目を逸らす。
 変なの、とまどかは思う。ユキオちゃんにはなんとなく、男とも女とも記号がつかない。色白の肌、長い睫毛に縁取られた黒々とした瞳、華奢な節々や細い髪。女の子みたいな目鼻立ちにばかり気を取られていたまどかは、最近までこうした容姿の特徴が中性的な印象を与えるのだとばかり思っていた。
「男」より「女」に近いわけではないのに、仕草や言葉の端々がどこか「男」という型から乖離している。「男」だと括ってしまえばユキオちゃんの多くの部分を削ぎ落としてしまうような気がする。それなのにユキオちゃんに女の子がくっついていることで、ユキオちゃんは無理矢理「男」のカテゴリーに分類されてしまう。まどかの中ではどうしても、ユキオちゃんと「男」がしっかり噛み合わないのだ。
「もう別れちゃいなよ。そして浮いたデート代で俺とまどかさんに何かおごりなよ」
「そうだユキオちゃん、それがいい」
「ばーか」
 ユキオちゃんは軽く笑い、水筒のお茶を飲んだ。まどかは右足を伸ばし、ずり落ちた紺のハイソックスを上げた。背後のドアが開く。振り向くと、癖っ毛の男の子が屋上のドアを押していた。依田が腰を上げ、道を開ける。男の子は小さく会釈し、ひょこひょこと階段を降りていった。
 もう夏が来るんだな。まどかはなんとなく男の子の背中を眺めながら思った。数秒漏れこんだ屋上の空気が、鼻腔の奥にかすかに残っている。甘い夏の予感をはらんだ、初夏の生ぬるい風。梅雨が明け、九月の文化祭に向けて準備が始まり、期末テストもあと一時間で終わる。まどかたちのクラスは文化祭で『美女と野獣』の演劇をすることが決まっており、夏休みにも何日間か学校へ行かなければならない。大道具係だから楽できると思ったのに。そう声に出しそうになったとき、夏休みにそれぐらいしか予定がないことに唐突に気がついた。
 まどかは首だけで振り向き、小窓を見上げた。四角い枠いっぱいに、日光が射している。何もかもをくっきり浮き上がらせるような力がまぶしくて、まどかは目を細めた。立ち上がれば手が届く距離なのに、海の底から振り仰いだ太陽みたいだと思った。
「幽霊かな」
 依田がペットボトルの蓋に手をかけながら、ぼそりと呟く。
「は? 何が」
「今の奴。変じゃん、昼休みに一人で屋上なんて」
 ユキオちゃんがわざとらしく眉間に皺を寄せる。まどかはちょっと笑った。
「なんで」
「友達の輪の中に入らない奴って、普通、昼休みに一人で屋上行こうなんて思わないよ。しかもあいつ、弁当も持ってなかった」
「告白かも」
「あのね、まどかさん、少女マンガの読みすぎ。プロポーズもメールの時代なの。春野さんとユキオちゃんだってメールだったの」
 ユキオちゃんが「はいはい」と適当に頷き、もう一口お茶を飲んだ。
 依田は時々、こうして妙なことを言い出す。本気で言ってるの、と聞くと、冗談に決まってるじゃんと笑われるのが常だから、まどかは全部与太話として受け取っているように振舞う。そのうちいくつかは、本気で言っているのかもしれないけれど、茶々を入れてごまかしている方が楽だから、まどかもユキオちゃんも、依田自身も、「冗談に決まってるじゃん」を約束事にしていた。
 たとえば依田は、制服のネクタイをつけない。夏服はまだしも、冬服のブレザーにネクタイがないと、なんだか物足りない。しかも惰性で前髪を伸ばしているから、物足りなさを通り越してだらしない印象さえ受ける。あるときまどかが、なんでネクタイつけないの、と尋ねたら、依田はちょっと笑ってユキオちゃんの紅色のネクタイをグイッと引っ張った。ほら、こんなのつけてたら、簡単に殺せちゃうし、簡単に首吊れちゃうじゃん。何を言っていいかわからずに曖昧に微笑んだまどかに、ユキオちゃんがネクタイを直しながらごめんねこういう奴だからと依田の上靴を踏みつけた。
 依田はペットボトルからお茶を一口飲み、「やっぱり」と頷いて続けた。
「幽霊だな、あいつ。何もかもどうでもよくなって、学校の屋上から飛び降りた生徒の幽霊」
「お前じゃあるまいし」
 真顔で断定する依田に、ユキオちゃんが吐き捨てる。まどかは笑った。幽霊なんてぜんぜん信じてないくせに。今あたしがそう言えば、死んでもこの世に留まるなんて救われない、とか、ユキオちゃんを困らせるようなことを言うくせに。
「こんな真っ昼間に、お化けが出るわけないじゃん」
「わからんよ。そのへん、複雑なお化け心理が働いてるのかも」
「なに、それ」
 依田がペットボトルの蓋を締めながら、釣られて笑う。笑いながら、言う。
「気持ちいいだろうなぁ、こんなに天気のいい日に、屋上からまっさかさま」
 まどかはそうだねと相槌を打ち、ぐっと伸びをした。
「あぁ、次、数学か。ユキオちゃん、脳みそ交換しようよ、一時間だけ。期末こそは三十点くらい取って挽回したい」
「まどかさん、今回三十点達成してもどうせ夏期補習決定でしょ」
「うそっ」
「うそじゃないよ。だって、中間テストの時点で合計十八点だったって自分で言ってたじゃん。期末で四十二点取れなきゃアウト」
「なんで」
「三百点満点の二割って六十点だから。なに、気づいてなかったの、おまえ」
「三百点満点の二割が六十点だってことに気づいてなかった。うそー、もう、早く言ってよユキオちゃん」
 まどかは頭を抱え込んで膝に顔をうずめた。依田がペットボトルでまどかの頭を軽く叩く。
「無駄無駄。ユキオちゃんにいくら警告されようが、まどかさんは十八点だった。運命です、運命」
「依田、うるさい。ああもう、頑張って四十二点目指そう」
「えー、一緒に補習行こうよー。ほら大丈夫、俺、現在十二点だけど、こんなに元気。まどかさんより悲惨な状況の中でも立派に生きてる」
 まどかは依田のペットボトルを払いのけ、両腕で膝を抱えた。そんなかっこうしてるとパンツ見えるぞ、とユキオちゃんが呆れ顔で言う。まぶたの裏側に、膝からほんのりと湿った熱が染み出してきた。体温で、春が去っていったことを、再び感じた。
 階段の下から、ふざけ合う声や甲高いおしゃべりが折り重なって昇ってくる。依田がクリームパンのビニールをクシャリと手に丸めた音がすぐ隣で聞こえた。きゅっと水筒の蓋が締められる。背後で乱暴にドアが開き、女の子たちの愚痴が飛び込んでくる。太陽の光が途端に踊り場に広まって、まどかやユキオちゃんの薄い制服の背中まで届いた。
 まどかは腕から顔を上げ、依田と一緒に立ちあがって場所を開けた。彼女たちは先輩の愚痴に大盛り上がりらしく、まどかたちには一瞥も寄越さない。スカートのプリーツが揺れる。制汗スプレーの混じり合った甘いにおいが目の前を通り過ぎていく。俺、セーラー服のスカート短くするのはなんか間違ってると思う、と依田がクリームパンを頬いっぱいに含みながらぼそりと呟いた。


 机の上に両手を突き出して、まどかは伸びをした。その仕草が日向ぼっこをしている猫みたいだと依田に言われたことがあった。奔放に振舞っている分、依田の方がよっぽど猫みたいだよと言い返したが、それは違ったのだろうなと思う。
 四十点はおろか二桁の手応えもないままに数学のテストは終わった。
「まどか、夏休み、いつ暇?」
 小山さんが教室の後ろから声を張った。まどかは振り向き、慌てて椅子から立ちあがった。沙耶や鳥居くんがいる。文化祭の大道具係の話し合いだと見当がついた。
「ごめん、待って」
「とりあえず、七月中で早い日がいいんじゃないかって話してたんだけど」
 携帯電話のスケジュール機能に目を落とす振りをして、まどかはそうだねと小山さんに相槌を打った。
「あたし、だいたい暇だけど、沙耶と鳥井くんは?」
 予定がほとんど入っていない携帯電話から、まどかは顔を上げなかった。
「数学の補習の気配が濃厚なんだよね。だから八月の頭は午後からしか行けないと思う」
「あ、あたしも。沙耶、半分書けた?」
「目分量で埋めた」
 まどかは顔を上げ、片側の頬だけで笑う沙耶と目を合わせた。同じ中学校から上がってきた沙耶は、まどかが中学のときに美術部に所属していたことを知っていて、大道具係にまどかを誘った。依田やユキオちゃんと屋上の踊り場に座り込むようになる前は、鳥井くんや沙耶や小山さんとお弁当を食べていたから、クラス会議で係にあぶれた鳥井くんが大道具に流れてきたのは納得できた。鳥井くんは美術の先生にシャガール・ブルーの感想を求められた際に「青いです」と高らかに答えるほどに間違った方向での美術センスの持ち主だが、沙耶はキュービズムを感じさせる彼の犬の絵をいたく気に入っていて、一人喝采で彼を迎えた。
 クラス会議後の黒板を見て、「大道具係は結局いつもの面々になっちゃったわけね」と担任が教卓のすぐ前に座るまどかに笑いかけた。まどかや沙耶や鳥井くん以外のクラスメートからすれば、黒板に並んだ四人の名前は見慣れた組み合わせだったのだろう。隣の席のユキオちゃんだけが、ちらりとこちらに視線を寄越した。
 まぁ決まったことだから仕方ないじゃん、とクラス会議の後の教室でまどかに言った時と同じような苦笑いで、鳥井くんが沙耶を見る。
「学校のテストなんてそんなにたいしたことないでしょ。受験どうするの、倉島」
「絶対私立。三年になったら数学とは一切の縁を切る」
 清々しいほどきっぱり言い切る沙耶に、小山さんがちょっと笑う。
「でも私も今回ちょっと不安かも」
「小山さんが? 珍しい」
「やっぱり第一志望じゃなかったからね、ここ。いまいちやる気出ないんだよね」
 沙耶はカチンと携帯電話を開き、画面に目を落とした。
 第一志望じゃなかった、は一年生のころから小山さんの口癖だった。
「三十日が無理かな。そのくらい。鳥井くんは?」
「俺、二十八日から合宿」
「大地に穴開ける合宿?」
「三橋は地学部をなんだと思ってるの。違うよ、合唱部の方」
 まどかも沙耶も周りの空気になんとなく押されて、なんとなく演劇部に顔を出していたこともあったが、役者として舞台に立ちたい意欲はそれほどなかったし、まず演劇への興味が薄かった。反対に鳥井くんは地学部と合唱部を掛け持ちし、どちらの部にも週二回ずつ通っている。兼部先が地学部と合唱部、という時点でまどかはなんだか妙な人だなと思っていたけれど、同時に、日本の活火山がなんとかとかロジェ・ワーグナー合唱団がどうしたとか、お弁当のおかずの話題からそんな話にまで発展させられる鳥井くんが、少し羨ましくもあった。ただしそのほとんどは決して憧憬や尊敬といった、やわらかく前向きな感情ではなく、単純に引け目だった。
 そしてまどかは最近、鳥井くんだけでなく、相手が沙耶やユキオちゃんや依田でも、時折同じようにこんな感情を抱く。
 小山さんが手帳を開いて低く唸った。
「私、結構忙しいんだよね」
 忙しい、も小山さんの口癖だ。忙しいという言葉の後にはたいてい聞かれてもいない彼女の今後一ヶ月のスケジュールが続き、まどかたちが大人しく相槌を打っていると間もなくなぜそこまで予定を詰めたのか説明を始める。最後はさりげなく自分の溢れる学習意欲をにおわせ、この高校第一志望じゃないから、で締める。
 その話はもういいよ、とは誰も言わない。まどかも沙耶も鳥井くんも、小山さんにそこまで言ってあげるほど親切ではないのだ。小山さんのスケジュールがちょうど八月上旬ごろまで差しかかったのを聞きながら、まどかは自分がたとえ親切であったとしてもこの人にわざわざ指摘してあげるほどの義理はないなと考えた。あまりにも平気でそう思えるものだから、その平気さが、自分で寂しく思えた。
 いいなぁと、教室の窓辺に揺れる観葉植物にさえ感じてしまう。小山さんの些末な言動の重なりが、まどかには我慢ならない。一時期小山さんもまどかに対して似たようなことを思っていたのだろう。しかしそれは彼女の中ではほとぼりが冷め、すっかりきれいに解決してしまっている。水に流したから直接触れないのではなくて親切にする義理がないから口に出さないだけだということに、まどかの内心では何一つ片づけられていないということに、彼女は勘付きもしない。ただ小山さんをねちねち恨み続けたところで何かがいい方向へ転がるとも考えられず、時々ふっと呆れから姿を変えて胸にぼこぼことこみあげる熱い泡の行き場に、まどかは迷っていた。こんなふうに自分自身の感情を持て余すことのない観葉植物が羨ましいと、しみじみ思う。
「私は行けるときに行くから、みんなで予定立ててメールしてよ。忙しいから行けなかったらごめん」
 観葉植物から目を離した途端に舌打ちが我慢できなくなりそうで、まどかは教室の窓辺に視点を固定していた。羨ましい、と思うことでぎりぎり仄明るい感情を保っていられる気がしていた。
 すぐ背後の教室の引き戸が開いた。音に釣られて思わず振り向くと、『水泳命!』とプリントされた水泳部のバッグをさげた依田が真剣な顔をして立っていた。
「まどかさん。クリームパンにはクリームが入ってるじゃん。あんパンにはあんが入ってる。じゃあなんでうぐいすパンにはうぐいすが入っていないんだろう。そしてこのクリームパンにはクリームらしいものが入っていないみたいなんだけどなんでだろう」
 依田は言いながらおもむろに、お昼に食べていたクリームパンの袋を取り出して、成分表示を指差す。あまりの馬鹿馬鹿しさに力が抜けてしまって、まどかは不覚にもへらりと笑った。





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