許可を取ります




 
 少年が、ずんずん林の中を進んで行ってにわかに、がらんと、夜空が開ける。『銀河鉄道の夜』の、序盤のシーンを、思い出す。不憫なジョバンニ少年を、銀河鉄道は彼方へと連れて行ってくれたが、彼には、そうもいかないようで、屋上の柵の向こう側に立ったまま、その人は振り返って私の方を見る。愛想笑いなんかしている。抜けるような空の下、がらんと開いてしまった空白の真っ只中。
「おはよ」
 そんなことを、言っている場合でもない、と思うんだけど、他にかけるべき言葉も思いつかなくて私は、とりあえず、あいさつする。その人はおかしそうに笑って、「おはよう」と返事をした。
 見ない顔だから、先輩だと思う。まぁもっとも同級生さえ名前と顔が一致しない人が何人もいるぐらいだから、私の記憶なんて怪しいものだけど、なんとなく、年上かなと思った。同じ学校の制服を着ているのに、彼はなぜか、くたびれ果てて見えたから。
「朝練は?」
 彼はなんでもないような口調で、世間話を始めた。私はセーターのポケットに両手を突っ込んで、屋上のドアに寄り掛かった。
「今日はないよ。なんで?」
「いつもここから見てるから。陸上部でしょ」
「よく見えるね」
「君は目立つからわかるだけ。あとはぜんぜん」
 ふぅん、と頷いて私は、自分の髪を一束、鼻の前につまみ上げる。普段は朝、シャワーを浴びたり、しないのだけど、今日はシャンプーの甘ったるい匂いが、髪に残っていた。高校に上がったとき、周りの子に合わせて、髪の毛を、染めた。一ヶ月ぐらいで、色に飽きて、あれこれ試していたら、一年弱ですっかり痛んでしまって、今は、ブリーチしたみたいに、赤っぽい。別に、おしゃれがしたかったわけじゃないのだ。髪を初めて染めたときの気持ちなんて、もう、覚えてはいないけど、ただなんとなく、そう思う。現に、私はクラスメートの女の子たちのように、あれこれカタカナの洗髪剤をつけることもないし、流行の制服の着崩し方にも、まるで興味がない。スクランブル交差点の渡り方と一緒で、隣の人に合わせないと衝突するから、そうしただけ。
「これ、目立つ?」
 毛束をつまんだまま尋ねたら、彼は頷いた。
「陸上部、女の子三人しかいないし、髪染めてるの君だけだから」
「あぁ、そっか。よく見てるね」
「暇だからね」
「じゃあもっと遅く来たらいいのに」
「朝なら人が来ないんだ、ここ。君が初めてだよ」
 そのわりに全然、驚いた素振りも見せないで彼は、相変わらず穏やかな口調で、言う。晩冬の風に濁り合うような、角がなく、肌寒い声だった。
「じゃあ残念だったね」
 私の言葉に、彼は首をかしげる。
「どうして?」
「よりによって今日あたしが来ちゃってさ。ホントは誰も来ない予定だったんでしょ?」
 彼は目をぱちぱちさせ、そして緩やかに微笑んだ。
「別に構わないよ。だって君、止める気ないでしょ?」
 そりゃ先生が来てたら焦ったけどさァ、と冗談みたいに言って、彼は、ケラケラ笑う。冗談っぽい状況じゃなかろうに、なぜか私自身も、冗談みたいな、気持ちがしている。私はドアから背中を起こして、ゆるゆる、柵に歩み寄った。
「先輩さァ」
 歩きながら、呼びかけると、彼はこちら側に、体を向け、柵に肘をついた。
「なに?」
「遺書、書いた?」
 私も柵に両肘をついて、もたれかかる。下は見ない。だから、空の先が、かすむみたいに白い。
「書いてない。一本ちょうだい」
 彼は私がポケットから取り出したタバコを見て、そう言った。彼の柔らかそうな黒髪が、風に舞い上げられて、ゆらゆら、ふわふわ。私と同じ学校の制服なのに、彼の方がなんとなく、仕立てがよさそうに見えるのは、教科書みたいにきっちりと、それでいてとても自然に、着ているからなのだと思う。育ちのよさそうな彼が、タバコをくゆらせる姿が意外で、私はライターを握ったまま、しげしげ、彼の顔を見詰めた。近くで見ると、瞳はやっぱり死んだみたいに澄んでいて、まつ毛がそこへ、覆いかぶさるように、下向きに、生えていた。
「無責任かな」
「わかってるなら書いたらいいのに」
「死ぬ理由を明らかにすることが責任だとは思わないよ。そうじゃなくて、勝手に死ぬっていうのがさ」
「じゃあ誰に許可取って死ぬの?」
「それじゃあ、君に」
 今、思いついたみたいに、軽く言って、彼は煙を吐き出す。私は思わず、笑ってしまう。
「変なの」
「そうかな」
「変だよ。なんで死ぬの、先輩」
 彼は一口ふう、と白い吐息のように煙を吐いて、ふらふら、おぼつかないような、酔っ払いみたいな、笑顔を浮かべて、言う。
「なんでだろう。ぼくにはわからないな」
「なんで? 自分のことなのに」
「だからわからないんだよ。君にはわかる?」
 見透かしたように、そう尋ねられて私は、ぎょっとしてしまった。
「なにが」
 ごまかしてそう聞き返してみたけど、わかっているような顔をして、彼はやはり、答えない。わかっていたんだと、思う。どうしてか、想像もつかない、けど、わかっていたのだ、この人。
「君だって、別に、朝の風に当たりに来たわけじゃないんだろう」
 極めつけにそう言われてしまっては、もうごまかして、笑っているわけにはいかなかった。いかなかったけど、人って、なんでこういうときに、笑ってしまうのだろう。私は、自分の頬が緩んで、ため息みたいに、小さく声が漏れ出るのを感じた。自分の体がどうしてか、果てしなく、遠い。ぼくにはわからない、という彼の言葉が、少しだけ、わかる。
「たまたま今日だったってだけ」
 彼は煙を深く吸い込んで、一気に吐き出した。目に見える呼吸の形の行く末を私は、ふっと視線で辿る。淡い呼吸が、初秋の空気に消え入る。
「背中、押してあげようか」
 そう言ったら笑った。
「殺したことになるけど」
「どっちでも、同じことじゃないの」
「心中みたいだな」
「そうかな。そうだね。それもいいかも」
 どうせ、そうやって解釈されるんだろう。見も知らない人と、二人、手をつないで、飛び下りたって、思われる。衝突しないように、それがルールですから。
 無責任ですか。ルール違反ですね。
「先輩」
 だからあなたに許可を取ります。ほんの一瞬だけ、本当に、最後の最後に一度だけ、どうしてか、私の心を見透かした人に。
 どちらともなく取り合った互いの手の温度が、どちらとも区別がなくなってひとつに溶けあってしまわないように、空はだから、がらんと開けて、かすみゆくように、冷たく白い。














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