キクちゃん(1)






二〇一二年 八月

 テントウムシのイラストが描かれた盤面の上を、ピンク色の秒針がちょっとずつ回っている。あたしは腕時計から目を上げ、正面のエスカレーターを一段飛ばしで駆け上がった。時刻は十一時五十八分、横浜駅の西口に正午の約束だから、あと二分だ。今朝この腕時計を取りに帰ったせいで一本電車を逃してしまって、やっと横浜駅の西口改札に辿りついたときには集合時間を五分ほど回っていた。
 あたしに気が付いた姉さんが、こちらに右手を振った。加賀くんが釣られて振り向く。
「ごめん、遅刻した。ユーリは?」
「遅刻」
「え、せっかく走ってきたのに」
 唇を尖らせたら、姉さんが「ごめんね」と微笑んだ。顎のラインですっきりと切りそろえられた黒髪、きめ細やかな肌、アーモンド形の大きな目、腰がきゅっと締まっていて、竹のようにすらりと背が高い。こんなに美人で、その上他人の遅刻に「ごめんね」なんて言えるくらい心が広いのだから、さぞいい男が寄ってくるだろうと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。
「キクちゃん、見て。今年のコミケの収穫」
 ああ、来た。姉さんはきらきらした目であたしに片手の紙袋を開いて見せた。薄い本が三冊詰まっている。表紙は見えなかったが、内容がアニメの二次創作、しかも男のキャラクター同士の恋愛を扱った作品であることは明白だった。
「またですか。姉さん、そろそろ卒業しましょうよ」
「いいの、これは私のエネルギーだから。あ、これは加賀くんにどうかなと思って。ハガレンすきだったでしょ?」
「いや、確かにハガレンはすきですけど、カップリングがすきなわけではありません」
 加賀理一は表紙も見ずに、姉さんが差し出した本を押し返した。愛想がないのは、アルコール切れと禁煙のせいだろう。姉さんにとっての同人誌が、加賀くんにとっての酒とタバコだ。あたしは四年間同じサークルにいながら、しらふの加賀くんをほとんど見たことがない。
 姉さんは残念そうに男同士が抱き合っているイラストがでかでかと描かれた本を紙袋にしまった。姉さんが彼氏に恵まれない一因にこの嗜好が関係しているのは間違いない。最近ぽつぽつと、姉さんはあたしに彼氏の相談をするようになった。同じサークルの女同士なのに、あたしが姉さんの色恋話を聞いたことがなかったのは、今までリコがその役目を引き受けていたからだと思う。リコは高校生のときから姉さんと付き合いがあったらしく、あたしたちが福永武彦研究会に入る前から、大石理沙を「姉さん」と呼んでいた。
 リコの初盆の夏だった。あの三月の日から、来月で半年が過ぎる。あたしたちは福永武彦研究会最後の夏合宿に行く。リコの墓参りには行かなかった。国津家の墓は鹿児島らしい。遠い、と言い訳しているけど、はっきりと理由があるわけではない。ただなんとなく、誰も行こうとは言いださなかった。
 待ち合わせ時刻の二十分後、どうでもいいようなジーパンとよれよれのTシャツを着た男がこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。伸ばしっぱなしの前髪に隠れて顔はよく見えなかったが、一目して上原悠理だとわかった。こいつは「細面」なんて小説にしか出てこないような言葉が似合う顔立ちなのに、積み上げれば月に届くほど致命点があるせいで、福永武彦研究会の外では完璧に孤立している。たとえば「時間を守る」という常識が丸ごと欠けているのがその一つだ。悪びれもせずにぶらぶら歩いて来て、開口一番「暑い」なんて言うものだから、あたしはユーリの後頭部をひっぱたいた。
「暑い、じゃないわよ。遅刻するんだったらメールしろっていつも言ってるでしょ」
「どうせメールしても怒るじゃん、菊池」
 加賀くんが「まぁ上原の遅刻はいつものことだからな」と言いながらスポーツバッグを持ち上げた。かく言うあたしも遅刻したのだけれど、あたしの場合は遅刻常習犯のユーリとは違う。
 湯河原まで一本で行ける電車にギリギリで乗り込み、あたしたちは向かい合わせになっている座席の一角を陣取った。窓際の席に座ると、姉さんは早速コミケで仕入れたらしい同人誌を開き、加賀くんがコンビニの袋から缶ビールを取り出した。あたしはフェイスブックに電車内の様子を書いた記事を投稿しようと思ってケータイをいじっていたが、途中で飽きてやめた。
 電車の窓に、代わり映えしない都会の景色が流れている。ショートパンツから伸びる、ほっそりとした膝の上でドぎついボーイズラブが描かれた同人誌のページをめくっていた姉さんが、「そういえば」と目をあげた。
「だれか、花火買ってきた?」
「花火?」
「うん。キクちゃん、合宿で花火やりたいって言ってたでしょ。上原くんあたりが持ってくるんじゃないかと思って買わなかったんだけど」
「なんで俺が」
「あんたたちカップルは仲いいんだか悪いんだか」
 姉さんが笑いながら同人誌を閉じる。あたしも覚えていないような発言をユーリが覚えているはずなかった。のりたま野郎ユーリは今のところ宿泊先の旅館の朝食で出るふりかけのことしか考えていないと思う。
 加賀くんが缶ビールをぐいと飲んで、「腹減った」と呟く。
「お昼ごはん、まだなの?」
「ビールでいいかなと思って」
「いいわけねぇだろ。健康オタクはどうした」
「ビールは体にいい。少なくとも僕には」
 加賀くんは健康オタクを自称しているくせにニコチン中毒プラス酒が入らないと無口になるという不健康のゴールデンコンボを体に抱えている。あたしは脚を組んで大袈裟にため息をついた。
「あたしのダイエットにはいちいち口出しするくせに」
「いや、食事制限のダイエットは体に悪いよ。菊池、まだあのリンゴダイエットやってんの?」
「あんなの、ぜんぜん効果出なくてやめたわよ。今は炭水化物抜きダイエット」
「炭水化物抜き! ふりかけのお供の主食を削るってことか」
「ちがうよ、上原くん。主食がふりかけのお供なんじゃなくて、ふりかけが主食のお供なんだよ」
 諭すような声音の姉さんに、ユーリはなんだか不思議そうな顔を向けていた。
 有名な温泉地なのだから、駅の近くにコンビニのひとつくらいあるだろう。湯河原についてから花火とお昼ご飯を買おうと提案し、あたしは腕時計を見た。
 午後二時過ぎに湯河原に到着した。駅舎の雨どいの向こうで空はカラリと晴れ、日光がまっすぐアスファルトに降りていた。改札を出て正面のターミナルから、バスが一台走り出した。道の向こうにファミレスの看板が見える。
 車窓に海が見え始めたあたりから様子がおかしくなっていた加賀くんが、とうとうスポーツバッグを足元に投げ出して崩れた。
「もうだめだ。姉さん、僕は貴族です」
「わざわざ太宰治風に言わなくていいよ。死ぬくらいならタバコ吸ってきなさい。私たちは先にそこのスーパー行ってるから」
「加賀、今回の禁煙記録は?」
「五時間半」
 加賀くんは短く答え、光の速さでコンビニに駆け込んで行った。
「あいつはダメだ、どんどんタバコの言い訳が文学じみてきてる」
 ユーリがぼやく。加賀くんを見ていると、文学は作家の苦しみの中から生まれたのだという高校の国語の先生の言葉に合点がいく。
 慢性的に金欠の福永武彦研究会は今回の合宿も夕食をつけていないので、あたしたちはバスターミナルの近くのスーパーでお惣菜と酒、花火を三セット買い込み、改札口に戻った。加賀くんがコンビニの前でサッポロビールのロングボトルを片手に薔薇色の笑顔で手を振っていた。姉さんが紙袋から同人誌を一冊取り出し、ぶんぶん振って応じた。
「彼、他に発散する場所がないからタバコとお酒に走るんじゃないかな。大人しくこれ読めば救われるよ、きっと」
 それは違うと思う。
 宿のチェックインの時間まで中途半端に時間が余っていたから、タクシーを一台捕まえて宿の近くの海に向かった。八月もそろそろ終わりだというのに、浜辺は海水浴を楽しむ人たちであふれ返っていた。リュックサックからつばの広い帽子を取り出したあたしに、加賀くんが呆れたような顔を向ける。
「そんなオバケみたいな帽子被って、よく前見えるな」
「お黙りニコチン中毒。夏の日光は肌の大敵なのよ」
 行きあたりばったりで海に来てしまったから、シートの用意はなかった。あたしとユーリは防波堤のブロックに腰かけて、子供みたいに海辺へと駆け出していく加賀くんと姉さんを見送った。
「菊池、行かないの?」
「いいよ。日焼けしたくないし。あれ、ユーリのこと呼んでるんじゃない? 加賀くん、変な動きしてるよ」
「ちがう、あれは姉さんに何かちょっかい出されてる」
「よく見えるわね」
「おまえ、目、悪すぎ」
うるさいな、と笑いながら、あたしは無意識に、着け慣れない腕時計のベルトをいじっていた。ユーリがちらりとこちらを見て、たいして興味もなさそうに尋ねる。
「それ、新しい時計?」
「うん。あずさちゃんにもらったの」
 ふうん、とユーリは海に目をやって頷いた。
 いかにも女子高生が好きそうなデザインの、安っぽい腕時計だった。近所の雑貨屋さんで買ったらしく、合皮のベルトに見慣れないメーカーのロゴが押されている。
 妹のことを、あたしは「あずさちゃん」と「ちゃん」をつけて呼んでいる。七つという年齢差ももちろんあるけれど、それ以上に、母の再婚相手との間に生まれた異父姉妹だから、というのがやっぱり大きい。あたしには実の父の記憶は全く残っていないし、母の再婚はあたしが小学校に上がる前だったのだが、なぜか、あたしは「お父さん」と一緒の家で育った年月よりも、母とふたり、あの狭いアパートで暮らしていた年月のほうが、遥かに長かったような気がしている。
 あずさちゃんや両親との生活に、特別な問題があるわけじゃなかった。母はあたしを託児所に預けて夜遅くまで働く必要はなくなった。父から連れ子として差別されたこともない。あずさちゃんもあたしを姉として慕ってくれている。ただひとつ、あたしが引っかかっているのは、母と父があずさちゃんに、あたしと彼女の関係について知らせていないという点だった。あずさちゃんはあたしの実の父親が今の「お父さん」とは別人であるとは思っていない。あたしも親戚も、父と母から固く口止めされていて、この秘密はあずさちゃんが成人してから明かすつもりなのだという。あたしを「おねえちゃん」と呼ぶ妹のことを、未だに呼び捨てにできないのは、あたしが一方的にこの秘密を握っているせいなのかもしれない。
「これ、内定祝いなの」
 他に話題もなかったから、あたしはユーリにそう言って腕時計の盤面を見せた。ユーリは「よかったね」と短く言って、それきり黙りこんだ。空には洗って干したような白い雲が泳ぎ、水平線は空の色と溶けあって、はるばると彼方へ伸びている。サンダルを脱いで、砂に足をうずめた。ちょうど防波堤の日陰になっていて、生ぬるい。一言二言ユーリに話題を振ってみたが、だんだん独り言を言っているような気分になって、あたしは腕時計に目を落とした。
 ケータイを時計代わりに使っていたあたしには、腕時計をつける習慣はなかった。だからいつもなら箱に入れたまま机に飾っておいただろうけど、今、あたしは何か、強迫観念のように腕時計を持ち歩いている。あずさちゃんから手渡された箱を開けた瞬間、リコの腕時計のことが、光のように記憶に蘇ったのだ。これがリコの形見であるように思えた。贈ってくれたあずさちゃん以上に、あたしはリコを重ねている。
 あたしに、リコの死を伝えたのはユーリだった。ユーリはあたしたちの中で一番入部の時期が遅かったから、福永武彦研究会最後の新入部員ということになる。一年生のとき、実はユーリのことが少しだけ苦手だった。これは今も同じだけど、ユーリは表情が読めない。腹の底で何を考えているのかよくわからないし、ふりかけ研究という趣味もいまいち理解できない。そのうえ理工学部のユーリは忙しくてなかなか遊びにも誘えなかったから、二年生になるまでほとんど交流がなかった。
 あれは二年生の終わりだったと思うけど、あたしは同じ大学の友達と大喧嘩をした。今も原因はよくわからない。最初は仲よくしていたのに、ある日を境に彼女は「菊池さんは無神経だ」だとか「人の気持ちがわかっていない」だとか、あたしへの不満をストレートにぶつけてくるようになった。当初戸惑っていたあたしも、だんだん苛立って、とうとうメールでの応酬が起きた。口で話してしまうよりも文章として残ってしまうメールのほうがなんだか後々まで痛みが残る。自分では腹を立てているだけのつもりだったけど、薄っぺらな言い方をすれば、あたしは傷ついていたのだと思う。福永武彦研究会の飲み会で散々愚痴を言い、姉さんに「でも相手には相手の思うところがあるんだよ、きっと」と諭された。確かにそうなのだろうけど、そうやって納得するには割り切れないことが多すぎた。そのとき、たったひとりだけ、「おまえは一ミリも悪くないよ」と言ってくれたのが、ユーリだった。こいつは救いようのない利己主義者だと思う。周りの人に気を配れる姉さんやリコのような人たちならまずそうは言えないだろうし、リアリストの加賀くんにもきっと言えない。だけど、あたしは真実がほしいわけじゃなかったのだ。どんなに偏った言葉でも構わない。あたしはあたしに都合のいい言葉がほしかった。「相手が百パーセント悪い。そうやって逃げた方がいい」真剣な顔でそう言われたとき、あたしは後戻りできないくらいユーリに傾いた。
「菊池」
 波打ち際で歓声が上がった。ビーチボールが日を反射して星みたいに光っている。ユーリの声はかき消されてしまいそうに淡かった。あたしは「なに」と浜を眺めたまま聞き返した。
「四月から、一緒に住まない?」
 コンビニ行かない? みたいな口調で言われた。
「は?」
「は? って、いやなの?」
「いや、突然すぎて」
「だからさっきからムード作ってたじゃん」
「ムードって、あんた、黙ってただけでしょ」
 顔を上げたら目が合った。ユーリは笑っていなかった。あたしの顔を覗き込み、ラムネの瓶底みたいに澄んだ瞳で、じっとこちらを見詰めている。冗談ではなかったらしい。あたしは尋ねた。
「だって、おばあちゃん、どうするの」
 ユーリは幼い頃に両親を亡くし、祖父母の家で育てられた。おじいちゃんは大学に入る前に他界していて、今はおばあちゃんと二人、国分寺の団地で暮らしている。ユーリの家に行ったことはないが、小学校の教頭先生だったというおばあちゃんは優しくも厳格な人らしい。ユーリが幼い頃に「塩分の取り過ぎになるから」とふりかけのかけすぎを固く禁じていたのもおばあちゃんで、当時のユーリはとても無念だったらしい。たぶん孫の健康を案じてのことだったのだろうけど、あの反動で今ふりかけに情熱を注ぐようになったとユーリは以前語っていた。
「叔母一家が二世帯住宅買って引っ越すって話になってて。もう年だから、俺もそのほうがいいと思うし」
「そこから大学、通えないの?」
「無理、福岡だから。菊池も来年から一人暮らしだろ。ちょうどいいかなと思って」
 あたしの内定先は都内の銀行で、会社からは実家に住むのを勧められているのだけれど、大学を卒業したら家を出ると決意していた。一方のユーリは早稲田大学の院に進学予定だ。しかも、奨学金を受けているとはいえ、お金のかかる理工。二人で暮らしていこうとしたら、どうしたって経済的に無理が出るのは明白だった。
 ただ、ユーリがそう言い出したくなる気持ちだけは、なんとなくわかった。浜で姉さんに海水を思いっきり引っかけられて、加賀くんが何かわめいている。加賀くんは、高校生のときに父親を亡くし、心の弱くなってしまった母親とギリギリのバランスで暮らしている。あたしもユーリも、彼に比べたらずっと恵まれた家庭で生活していると思う。ただあたしはあずさちゃんとの関係にほんの少しの違和感があり、そのほんの少しの違和感は、確かにほんの少しではあるのだけれど、それでも家を出ていくには十分な理由なのだ。
「考えておく」
 なぜかむくれたような声が出た。あたしの機嫌を損ねたと思ったのか、ユーリが「ごめん」と小さく言う。考えておく、とは言ったものの、あたしが実際に考えたのはユーリとの新生活ではなくて、リコのことだった。波打ち際で姉さんが手を振っている。強い日差しに晒された姉さんの顔は、髪の毛の影でよく見えなくて、あたしはぼんやり、手を振り返す。リコの姿が、記憶の底から浮きあがってくる。海面がきらきら光っている。





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