加賀くん(1)






二〇一二年 十一月 

 腕時計を見るたび、時間の進みは遅くなった。コンビニ袋から取り出したビール缶に少しだけ口をつけた。姉さんとみんなはまだ帰ってこないのか。
 今日は慶應義塾大学の学園祭だ。三田キャンパスで催される学園祭は三田祭と呼ばれ、中庭から教室までゼミやサークルの屋台や展示で賑わっている。中庭にはステージもあって、音楽バンドが入れ換わり立ち替わりけたたましい音を立てる。教室の窓をぴったり閉めていても、その音は耳元まで伝わってきた。
 昔から文化祭というのは、意味もなくうるさくて暑苦しくて苦手だ。自分の大学の学園祭はまともに見たこともないけど、三田祭には姉さんに呼ばれて、というか命令されて、去年に続いて福永武彦研究会のメンバーで集まっている。
 昨年は姉さんが三田祭の名物行事であるミスコン、すなわち慶應学内で最も美しく聡明な女性を選ぶというあのコンテストの候補に推薦されたというので、冷やかしにきた。コンテストは、自薦他薦で選ばれた最終候補六人に物好きな学生たちが投票し、三田祭の最終日のステージで栄光の第一位が選ばれるというものだ。ゼミの後輩に熱烈に推され、最終候補まで選ばれた姉さんは、プロフィールの趣味欄が仇をなして見事落選した。そりゃあ、男色同人誌の一ページを自分の顔写真の横に印刷したら、いくら姉さんが美人だってそんなやつがミス慶應に選ばれるわけない。というか、あのプロフィール写真の掲載を運営側が許可しただけで奇跡だ。
 時計を見ると姉さんたちが消えてからもう三十分は経過していた。まったく自分が店番の時間なのに姉さんはずいぶんゆっくりしている。
 大教室をいくつかの団体ごとにパネルで区切った空間のひとつが、僕が今店番を頼まれている「インテリジェント文豪喫茶」だ。一ミリのインテリジェンスも感じられないセンスが泣けてくるが、これは姉さんが院生ゼミの人たちとやっている企画らしい。普段は授業で使われる机を並べてその上に赤チェックのテーブルクロスを敷き、即席の喫茶店にしている。趣旨としては、ジュースやコーヒー、紅茶などのメニューを用意して、学内巡りに疲れた足を休めてもらう場を提供するものである。夏のゼミ合宿の費用を少しでも稼ごうというのが真の目的だ。
 そして僕に言わせれば全く必要のないサービスなのだが、店員の院生がそれぞれ愛好する作家に扮し、客にその作家と茶を飲んでいるようなときめきを感じてもらうコスプレイベントが最大の売りであるらしい。  
 太宰研究に取り組む院生の一人は太宰風に髪型をセットし着物を身につけて、席についた客に語りはじめる。俯き加減に「恥の多い人生でした」などと語られて飲む茶がうまいわけがない。現在のところ僕が見た客はただその一人だ。喫茶手の入り口に半歩だけ踏み入れた高校生らしき少年は、何かに怯えた様子で引き返して行った。太宰さんは、福永武彦研究会メンバーが姉さんと親しげに話すのを見ると、まるで当然のように僕の肩を叩いて出ていった。事前に店番のシフトを渡されていながら、午後から彼女とデートの約束をしていたらしい。人間失格。
 福永武彦研究会の面々は、客がこないと嘆く姉さんにサクラ役として急遽呼び出されたわけで、現在姉さんと他メンバーは昼食の調達のため各自屋台に繰り出しいる。
 万一客がきた時の人員として、二日酔いであまり食欲のない僕は店に残った。微妙な距離をあけて座る川端康成との空気は気まずい。姉さんによるとこの作家は無口なことで有名で、自宅に招いた女性編集者を一時間も目の前に座らせて一言も発さず、彼女を泣かせた逸話を持つという。作家の性格を忠実に再現しているのか、生来そういう気質なのか、とにかく川端さんは僕と挨拶すら交わしてくれない。青い着物で腕組みしてこれでもかというばかりに目を見開き、隣の団体とのスペースを区切るパネルを睨みつけている。だからこんなんで客が入るわけがないだろ。首から折り紙で作った金メダルをかけているけど、ノーベル賞でもらってきたやつだろうか。姉さんがもうすぐ来る、と言っていた芥川さんも一向に現れず、僕と川端さんの間には沈黙によってもたらされる濃密な時間が漂いはじめていた。
 目をやった腕時計の秒針は、重たげに時を進めていた。これは大学に入る前に死んだ、父のかたみだ。毎朝出かける前に腕に通し、風呂に入る前に外して引き出しにしまう。実用品として日々当たり前に使っている時計を死んだ父の形見だとわざわざ思うようになったのは、半年前にリコが死んでしまってからだ。
 こうして父親がくれた腕時計を後生大事につけているけど、父は本当にどうしようもない人だった。女にだらしなくて、浮気をしているのは子供の目にも明らかだった。女の香水の匂いを体にたっぷりと染み込ませて、家に帰ってきた。父には自分のやっていることを、妻や子供に隠そうとする気が少しもなかった。僕が小学校にあがる頃から、そんなごたごたは繰り返された。もっともその具体的な意味を理解できたのは、学年がある程度上がってからだったけど。
 父は酒臭い息を吐き散らしながら玄関になだれこんだ。まっすぐ歩けないくらい酔った女も父にもたれながら、ハイヒールの嫌な音を立てて床に踏み込んできた。汚い、と思った。小学生の僕はなすすべもなく、母親のところに駆けて行った。
 母は父に何を言うでもなく、子供部屋に僕を連れて引きこもり、朝方女の気配が消えるまでは、決して出て行こうとしなかった。トイレに立つ時は、自分の家なのに泥棒に入るみたいに静かにドアノブに手をかけ、そのついでによく台所からお菓子の入った缶を取ってきてくれた。僕と母は子供部屋で、かりんとうや小分けに包装された小さなドーナツをわけあって食べた。僕はその時に食べるおやつがなくならないように、他の時には缶のお菓子を絶対つまみ食いしたりしなかった。
 父が女を連れて帰ってくる夜は、自分の家がまるで自分の家ではなかった。僕が手洗いに行く時は、心配した母親が後から着いてきた。子供部屋が唯一僕らが安心して過ごせる場所だった。母親と子供部屋にいる限りは安全だけど、部屋を一歩出れば、暗くて手をのばす先のわからない空間が広がっている。
 母は僕を安心させようとしたのか、それとも自分の気を紛らわせるためなのか、本棚にあった絵本を読み聞かせてくれた。小学生になっていた僕は幼稚園の頃に買ってもらった絵本なんてとっくに読み飽きていて、手にすることもなかった。しかし、その夜の読み聞かせは子供心に何か大切な儀式のように思えて、何度も読んで覚えてしまった物語に無言で耳を傾けた。ネズミの兄弟の話や、空飛ぶじゅうたんの柄を鮮明に覚えているのは、見知らぬ女の気配から逃れようと懸命に母の声に耳を澄ましていたからだ。
 僕はそうやって絵本を読む母を、強い人なのだと思っていた。父の横暴に文句ひとつ言わずに耐え、僕を抱きながら重い夜の時間をやり過ごす。母は忍耐強くて固い防壁を持っているように見えた。でも本当はそうじゃなかった。彼女はとても歪んだ意味で、父親を必要としていた。父が夕飯のカレーの出来に文句を言ったりする、そんな些細なことに母は神経を尖らせ、父の機嫌を損ねないように振る舞うのが彼女の生活の全てだった。汚れた父の靴を毎晩磨くのは、父のためを思ってというよりは父を恐れてのことだった。
 反抗期を迎えた僕が父に何か楯つく気配を察すると、母はすかさず話題を変えた。僕には母がなぜそこまでして父の機嫌を取り、しがみつこうとしているのかがわからなかった。専業主婦の母は経済力を持たず、父と離れては生活が難しいというのは現実的な要因の一つには違いがなかったけど、母にはそれだけではない執着があった。
 中学の頃、台所で珍しく酒を飲む母が若い頃の話をしてくれた。父と母の異常な馴れ初め話だ。僕の両親が婚約した頃、二人はグループハウスのようなところで、二人を含めた九人で生活していたという。どういうわけだかはわからないが、僕の父のもとには、母を含め八人の女が集まってきていたらしいのだ。彼女たちは父に何かしらの魅力を感じて、吸い寄せられるように共同生活を営むようになった。付き合っていた男に暴力を受けた女や、離婚後行き場のない女、大学進学のために上京し家賃の安いグループハウスを探していた少女、十五歳そこそこの家出娘など、それぞれ事情は異なっていた。
 その頃の父は、問題を抱えて集まってくる女性たちに丁寧に対応し、家賃を払える見込みが定かでない者にも、親切心から部屋を貸していた。女好きだから、というわけではなく、母が出会った頃の父は僕が知る浮気者の父とはまるで人が違ったという。女たちは、優しく自分を助けてくれた父に自然とひかれていった。
 母はその中で父の婚約者という地位を獲得したことを、心の底で誇りに思っていた。でも父は、八人の女性に囲まれ、そのそれぞれに特別な感情を向けられているうちに、だんだんどこかがおかしくなってしまった。母との結婚の話が進み正式な婚約が交わされる頃には、父はグループハウスのほとんどの女性たちと関係を持っていたらしい。それでも母は父の正体を見破れなかったのか、彼を信じていたかったのか、父から離れなかった。母は結婚後僕を生み、それを機にグループハウスの他の女たちを追い出した。
 結婚してからの母は、父がどんなに外で女と関係を持とうと、家に帰ってくる限り何も言わなかった。父が家の玄関で靴を脱ぐ限り、我が家は安泰であるとでも思い込んでいるようだった。実際父が女を連れ込むことよりも、父の帰りが遅い時の方が彼女は落ち着きをなくした。父に執着し離れまいとするほど母は弱弱しく身動きがとれなくなっていくのに、彼女自身はそのことに気付いていなかった。むしろ夫なしでは自分の存在がこの世から消えてしまうとでも思っているみたいだった。母は自分を狭くるしい檻の中に閉じ込めて、その鍵を父に預けてしまった。
 だから僕はあの時、父がいなくなれば母は自由になり、生活は変わると思った。僕の行動がなくても、ひょっとしたら父は勝手に死んでいったかもしれない。あの頃の父の体は、もう酒と不摂生でまともに機能していなかった。父は酒で弱っていく体を、酒で動かそうとしていた。無茶苦茶だった。でも、僕には殺意があった。だから父を殺したのは、僕に違いない。
 高校一年の春。父に誘われてなかば強引に家の近くの居酒屋に連れていかれた。父は僕のグラスにビールを注ぎ乾杯をした。未成年だから、と僕が言うと、固いこと言うなよと父は答えた。仕方なく一口飲むと、今まで経験したことのない奇妙な味がした。父は最初のつまみが運ばれてくる前に一杯目を飲み干していた。僕は目の前のグラスが一向に減らないのが子供じみていてかっこ悪いと思ったので、対しておいしいとは思えないビールを無理に流し込んだ。
 父とまともに会話をするなんて珍しかった。父は高校に入学したばかりの僕に学校のことを尋ねてきた。受験にも一切興味を示さなかった父は、僕の通いはじめた高校のことなんて何ひとつ知らなかった。受験できる地区のなかでは結構な難関校だったし、試験にはそれなりに苦労した。学校の偏差値や、大学はどこに行くのかと聞かれた時、どうせそんなことには興味もないくせにと思いながらも、何も知らない父に一から丁寧に答えた。父は頷きながらどんどんお酒を飲んだ。
 その頃の父は会うたびに酒臭く、酔っていないことのほうが珍しかった。母は冷蔵庫と棚の酒を切らさないように気を使い、僕は酒なんか飲まないのに、部屋に転がる空き瓶を見るせいで自然と焼酎やウイスキーの銘柄に詳しくなった。空き瓶を見る度に、こんなにたくさんの酒が一人の人間の体に入るものかと思った。
 父は何杯目かの日本酒を飲みながら、高校の時に美術部に入っていたことを話した。無骨で繊細さのかけらもない父親にしては意外だった。中学から一緒だった友達は運動部ばかりで、高校からいきなり美術部に入った父は、部に好きな子でもいるんじゃないかとからかわれたらしい。本人は至って真面目に部活動に取り組み、油絵で描いた風景画が市のコンクールで最優秀賞を取ったこともあったと言った。色使いを誉められたということだったが、金がなくて同じような色の絵具ばかり使ったせいで、画面の色がまとまったんだと笑っていた。僕はその時ばかりは、夜中に女を連れ込む父の姿を忘れていた。父親の昔の話を聞いたせいかもしれないし、慣れない酒を飲んでいたせいかもしれない。
 日付の変わる時間まで飲んで、僕と父は飲み屋を出た。会計の時、父が店のおじさんにつまみが高いといちゃもんをつけそうになったので、慌てて止めた。桜の葉もだいぶ茂った四月の中頃だったが、その日の夜は冷え込んだ。温かな室内から出ると、冬から吹いてきたような風が僕たち親子の背中に触れた。僕と父は住宅街の暗い道を並んで歩いた。父はおぼつかない足取りで、そういう僕も自分で立っている感覚がなくなるくらい酔っていた。酔っぱらうってこういうことなのかと、はじめて駅でふらついているサラリーマンの姿に納得した。
 突然、父がその場にしゃがみ込んだ。車がくるんじゃないかと父の肩をつかみ、引きずるように歩道の端に寄せた。声をかけてもうめくばかりでまともな返事は聞こえてこなかった。飲み過ぎただけなのかと思ったが、明らかにいつもと様子が違った。困惑して、父さん、と幾度か呼んでいると、父は口を押さえて倒れこんだ。薄い街灯の下で目をこらして見ると、父が吐いているのは暗い色をした血だった。喉をえぐるような声と一緒に、父は何度も血を吐いた。僕は酔った体が急激に冷えて震えるのを感じた。
 父が地面に体を横たえて意識を失った時には、もう走り出していた。前も後ろも見ず、酒のせいでまっすぐ進めない体を懸命に動かした。できるだけ早く、できるだけ遠く倒れた父から離れようと、それだけを考えていた。走っているのは見慣れた近所の道ではなく、ただひたすらに全てを飲み込む暗闇だった。自分の息と足音だけが聞こえた。地面はやたらと柔らかかった。一秒でも足を余分に置いておけば、ずぶずぶと沈みこんでいくんじゃないかと思った。
 僕に見放された父は、人通りのない住宅街の細道で死んだ。その知らせを聞いたのは翌日だった。母にはその日父といたことは黙っていた。その晩父と居酒屋に行くことは母に話さず、友達の家に泊まるということにしていた。なんとなく、自分だけが父に誘われて時間を過ごすことを言い出せなかった。
 僕は父を見殺しにした。逡巡はあった。最初に父がしゃがみ込むのを見た時には、横から抱えて帰ろうか、もし何かあった時には母に電話するか、ひどければ救急車を呼ぼうだとか、あらゆる処置の方法を思い巡らせていた。でも父が血を吐いて尋常ではない様子で苦しみ出すのを見ると、その考えは一気に吹き飛んだ。
 二度と訪れない機会だと思った。父が女を連れ帰る重たい夜も、父に固執して苦しむ母の姿ももう見なくて良くなるのかと思ってしまうと、理性なんか働かなくなった。これで母を救うことができる。そう考えれば罪悪感も僕の足を引っ張りはしなかった。そうやって、僕は父のいない生活を手に入れた。
 父が死んで葬式が済み、事務的な手続きが全て終わってしまうと、家中の父の持ち物を全て捨てた。靴も服もマグカップも全部捨てた。冷蔵庫に残った酒も台所に流した。台所は父の匂いでいっぱいになった。母は僕のやることをじっと見ていたが、何も口出しはしなかった。
 中学の入学祝いにもらった腕時計だけは、どうしても捨てることができなかった。僕が持っているただひとつの父にまつわるものだった。感傷だろうか、それとも時間が経つにつれて心を巣くいはじめた罪悪感がそうさせたんだろうか。貰ったその日から腕につけていた時計は、そのままずっと今日まで、僕の腕で針を進め続けていた。
 父は基本的に僕の学業に興味を示さなかったけど、入学式からしばらくたった夜、いきなり僕の部屋に入ってくるなり箱に入った時計をくれた。
 お前、部活も始まるし忙しくなんだろ。時計のひとつくらい持っとかないとな。
 それだけ投げかけると、父は手の平ほどの茶色い箱を僕の机に置いた。
 誕生日もクリスマスも、お年玉さえろくにくれない父親に何かもらうなんて普段にないことで、僕は何と答えていいかわからないくらい驚いた。父が出て行ってしまう頃にやっと、ありがとう、という言葉に辿りついた。僕の言葉を聞いた父は後ろ姿で軽く手を上げて、部屋を出た。扉がしまって一人になると、恥ずかしいような悔しいような気分になった。大嫌いな父親に、そんな言葉を使うなんて信じられなかった。でも、ありがとうと、そのたった五文字の言葉はとっさに口をついた。父親とごく普通のやりとりができたその瞬間が、時間が経つほど忘れらくなった。それからどんなに父を恨んでも疎ましく思っても、腕時計を捨てたりはしなかった。腕時計をつけてさえいれば、また素直に父に言葉を返せる日がくるような気がしていた。他愛もないおまじないだ。
 大学の入学式に出るため生まれて初めてのスーツに袖を通した時、父との最後の飲み会は、父親なりの高校入学のお祝いだったんだろうかとふと思った。ただ父の気まぐれがそういう時期にあたっただけかもしれないし、今ではもうわからないけど。
 母親は入学式に向かう僕を玄関で見送った。父が死んでから始めたパートの仕事があったし、大学生にもなって入学式に親はこないと言うと、残念そうにいってらっしゃいと言った。定期券を買いなさいと新品の札で三万円をくれた。
 もし父が生きていたら、母は駄目になっていたと思う。父が死ぬ前には、彼女も夜中の台所で酒を手放せないようになっていた。僕の方も、もてあました父への憎しみを処理しきれなくなっていた。だからあの日、父親を見捨てて走ったことを後悔してはいない。してはいないけど、後悔、というものと同じ重さの何かが、ときおり胸をふさぐ。





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