いつか大人になったら






 店内にはポイントカードの入会を促すアナウンスが流れていた。陳列棚には淡い色づかいのベビー用品がぎっしり並んでいる。黄色、ピンク、水色。パステルカラーって優しさの押し売りのようで、つわりの時期も過ぎたというのに、なんだか胸がむかむかする。
 私は両掌に収まりそうなほどに小さい肌着を手に取って、柄を見比べた。ピンクの花柄がかわいいけど、男の子だからやっぱりゾウの方がいいか。洗い替えも必要だろうけど、何着くらいいるのだろう。それなら、こっちの3枚セットを買った方がいいだろうか。あれこれ考え込んでいたから、声をかけられるまで人の気配に気が付かなかった。
「ありさ?」
 遠慮がちな声に呼ばれて顔を上げたら、店内のパステルカラーに溶け込みそうな瞳にぶつかった。私は「えっ」と一度聞き返し、はっとした。
「若菜? やだ、久しぶり」
 若菜はほっとした顔で微笑み、「久しぶり」と上ずった声で応じた。仕立てのよさそうなグレーのコートに身を包み、白いマフラーを腕に引っかけている。肩まで伸ばした髪の毛を内側にくるりと巻いて、品よく化粧をしていた。ずいぶん印象が変わったのは、髪型のせいだろうか。瞳が柔らかくなって、頬は少し丸みを帯びた。
「何年ぶり? 卒業以来かな」
「成人式以来じゃない? あ、でも私、成人式の後の同窓会には行かなかったから、やっぱり卒業以来かも」
「ありさ、こっちに戻ってたんだね。里帰り出産? おめでとう」
 若菜は私のお腹と肌着を交互に見ながら尋ねた。私はうなずいて、「先週から産休なの」と付け足した。
 若菜は中高の同級生だった。地元の中学校から同じ私立女子高に進学したが、卒業後、私は東京の大学へ、若菜は地元の短大へそれぞれ進んで、今日までメールはおろか年賀状のやりとりすらしていなかった。私は懐かしいやら気まずいやらで、会話の糸口を探しあぐね、「今日は寒いね」とどうでもいいことを口走った。
「寒いねぇ。今、何カ月?」
「九カ月」
「じゃあ、もうすぐじゃない。旦那さんは? 一緒?」
「今日は家なの」
 若菜はもう一度「おめでとう」と言って、私のお腹をまじまじと見つめた。ダボダボしたマタニティワンピースの上からも分かるくらいに、胸から下がぽこんと前に突き出している。
「そっかぁ、ありさがママかぁ」
「若菜ったら、親戚のおばちゃんみたい」
 本当ね、と笑って、若菜はそうっと私のお腹に右手を当てる。人にお腹を触られることには、ここ数カ月で慣れた。
「若菜は? 妊娠中?」
 見た所、お腹は膨らんでいなかったけどそう尋ねたら、若菜は首を横に振った。
「ううん、まだ独身。姉に子どもが生まれるから、お祝い品を見に来たの。でも、ベビー服っていうのはあんまりよくないかもね。違うのにしようかなぁ」
「なんで?」
「こういうのって、自分たちで選びたいものの代表じゃない? やっぱり夫婦で選んだほうがいいんじゃないかしらね。好みもあるだろうし、必需品を探すのと違ってお気楽で楽しいし」
 おもちゃか何かにしようかなぁ、と若菜は私のお腹に話しかけるみたいに呟く。隣にベビーカーを押した夫婦がやってきて、もこもこした冬物のベビー服を選び始めた。
「ありさはいいの? ひとりで選んじゃって。旦那さんと一緒に選べば?」
「いいのよ、あんなの」
「もしかして喧嘩したの?」
 若菜はおかしそうに笑う。小動物みたいなとがった八重歯が口元に光った。私は大袈裟にため息をついて、腕を組んだ。
「まったく、予定日の前日に飲み会入れてたんだよ、信じられない」
「仕事の?」
「そうだけど、ふつう断るよね」
「まぁね」
「それで私が怒ったら、『じゃあいい、これから飲み会は全部断る!』だって。いや、何言ってるの、って感じじゃない? 当たり前のことを指摘されただけなのに、さも私に無理を強要されたみたいに。まったく、出産は女だけの仕事だとでも思ってるのかしら」
 同じ会社だから、営業職の夫にとって飲み会が仕事の延長線上にあるのは知っている。でも立ちあい出産を希望したのは夫だったし、私だって地元に戻っているとはいえ初産で毎日が心細かった。
 子どもは二人ほしいな。通販で個数を指定して注文するみたいに夫は言う。彼は自分を「イクメン」の素養のある男だと信じているようだ。確かにゴミ出しも洗いものも手伝ってくれるし、穏やかで真面目な人ではあるのだけど、一方でゴミ出しをしたり洗いものをしたりするくらいで「家事をやっている」と公言できる男の社会というのは一体どういう構造になっているのだろうと時々疑問だ。
 予定日前の土日に、ふたりでベビー用品を買いに行く予定だったのに、出掛ける直前に口げんかになり、ふてくされた夫は「今日は家にいる」とついてきてくれなかった。こういう子供っぽいところも、直してほしいんだけど。私が「信じられない」ともう一度ため息と一緒に吐き出したら、若菜はくすっと笑った。
「ありさ、よくしゃべるようになったね」
「そう?」
「うん、昔はもっとこう、寡黙でミステリアスな感じだった」
 若菜だって、ずいぶん変わったよ。そう言おうと思ったけど、その前に若菜が続けた。
「ふつうに大人になれたんだね、私たち」
 パステルカラーに暴力的に飲み込まれてしまいそうな声音だった。
 セーラー服から伸びた華奢な手足、触れたら切れそうに研ぎ澄まされた眼差しと、打ち震えるように私に語りかけた唇、凍ったみたいに緊張した指先を、思い出す。彼女の延長線上に、ベビー用品店に立ち寄るような女がいるとは、あの頃、とても信じられなかった。
「今日は他に何か買うの?」
 若菜は話題を変えて、明るい声で尋ねた。
「うんちのスプレーでも買おうかな」
「何それ」
「ワンプッシュでオムツがフローラルなお花の香りになるんだって」
「へんなの」
「自分の子供だろうがなんだろうが、うんちは普通に汚いでしょ」
 若菜は声をあげて笑った。白い頬に紅が差している。
「じゃあ、今日はうんちスプレーだけ買って帰りなよ。ベビー服は今度、仲直りしてからにしたら? まだ予定日まで時間あるでしょ?」
 私が「なんで?」と尋ねたら、若菜は「なんでも」と押し切るみたいに言う。
「その代わり、姉の出産祝い選ぶの、付き合ってよ。独身だといまいち何を買っていいのかよくわからないんだよね。まだ時間、大丈夫でしょう?」
 若菜は「ね」と口の端を釣りあげて笑う。
 夫婦、とか、家族、とか、そういう生ぬるいような言葉に、細かく思いを巡らせたり、傷つけられたりするようになるということを、私も若菜もあの頃、ぜんぜん信じていなかった。そんなことはつまらない大人のやることだとさえ思っていた。だからそんな大人にならないために、私たちはあの卒業式の日、一緒に死ぬつもりでいたのに。
 行こう、とおもちゃ売り場を指差す若菜の手の先に、あの日校舎の屋上から見えた空が広がった。春先の陽に淡く溶け合うような空だった。薄い雲がちぎれて漂い、冷たい風がスカートをすり抜ける。私は思わず腹に両手を当てた。あの日、握れなかった若菜の手。その先にこんな日が待っていることを、信じられなかった私たち。
 大丈夫、とつぶやいた。若菜は承諾と取ったらしく、私に背中を向けて歩き始めたけど、そうではなくて、私はあの屋上に取り残されたままの私たちと、お腹の子供の未来に向かってそう言ったのだった。大丈夫、いつか必ず十代は終わるから、大丈夫。声に出さずにつぶやいて、私は若菜の背中を追って、パステルカラーに埋め尽くされるおもちゃ売り場に向かった。





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