>氷のほとり(2)






 大学の夏季休暇は残り少なくなっていた。にもかかわらず、夏はこの世界にどっかりと腰をすえて、このまま永遠に続くのではないかと思った。季節はいつも、その初めの香りを嗅いだと思ったらたちまち過ぎてしまうものなのに、この夏はなかなか立ち去りそうになかった。
 そんなある日に水津さんが訪ねてきた。ムーミンおじの所在が知れないことでいてもたってもいられなくなり、もしよかったら訪ねてもいいかというメッセージが、昨日携帯に入っていた。私もおじのことは心配だったし、おじにああいう女性の知り合いがいたなんてと、半分は好奇心にかられて返信した。
「私のせいなのかもしれないわ」
 そう言った水津さんは、約束の時間ちょうどにベルを鳴らしてきた。
「サイダーって久しぶりに飲むわ。おいしい」
 彼女は挨拶ではなく、本当においしそうに冷蔵庫にあったサイダーを味わった。お客さん用に普段より気前よく冷房をきかせたので、座った床は冷え冷えとしてした。
「それって、おじがいなくなったことでしょうか」
 ムーミンおじがどこにいるのかわからないけど、音信不通の日々がレンガ石のように積み重なるにつれて彼の居場所はだんだん遠くなっていくように感じた。
「文香さんとはずいぶん昔からの付き合いなんです。そうね、あなたが生まれる前から」
 生まれる前。その言葉は、まだ見たことのない土地のことを思い起こさせる。生まれる前と言われると、なぜか行ったことのない外国の町並や、人跡未踏の深く広大な森のことを連想する。水津さんの言う生まれる前とは、どんな町で、どんな森なんだろう。
「文香さんとは時々会ってお喋りするような仲です。喫茶店だったりレストランだったり、時々は映画も一緒に見たりね。彼は話を聞くのがとてもうまいの。長くて込み入った話を我慢強く聞いてくれる、そういう人は結構いるけどそうじゃない。文香さんは我慢なんかしない。彼はどんな話でもとても興味深く聞く。関心のあるふりをしているわけじゃなくて、本物の好奇心を持って話を聞いている。なかなかそういう人っていないわ。文香さんとはとても楽しく過ごせた」
 水津さんの話し方は、もう繰り返されない過去のことを言っているみたいだった。まるでこれから先再びおじと会うことはないというような。彼女のそういう口ぶりに私はふと不安になる。ひょっとしてもうおじは二度と私の前に現れないのではないか。おじは誰も知らない場所、虹の根もとなんかにひっそりと消えてしまったのではないか。彼が抱えていたボストンバッグに入っていたものは、かえの洋服や洗面用具じゃない。そこには彼が人生の最後に必要とするもの、たとえば色々な思い出とか、誰かに告げそびれた言葉が詰め込まれていたのではないのか。
「そんな、付き合ってる人に何も言わずに消えちゃうなんて。ムーミンおじはまったく」
 広がる妄想をかき消すようにそう言った。まったく、と言い終わらないうちに水津さんは首を振る。
「いえ、付き合っているわけではないの。気は合うし一緒にいて楽しいけど、私たちは今、不安定だと思う」
「不安定」
 水津さんの目は入り組んだ迷路を歩くように右を見て左を見て、天井を見て、最後は床に伏せられた。彼女の目は何をつかむわけでもなく、静かに止まった。
「あのね。私文香さんの、お兄さんとお付き合いしていたことがあった」
 水津さんが言うと、巨大なビー玉が喉につまったように息ができなくなった。水津さんはそんな私のためか、あるいは彼女自身のために次の言葉をすぐには続けない。
 膝に置かれた水津さんの手を見ながら、私はずるずると父の葬式の場面に引き込まれていった。棺に入れられた彼は、病室でやせ衰えた父とはまるで別人のようだった。病気で死んでしまったというのに、生きているときより肌の色がよく健康にさえ見えた。まるで目覚めの前に、浅い夢を見ているような顔つきだった。知らない喪服の人たちが次々とやってきて祖父母と挨拶をかわした。たくさんの女の人の首に、模造真珠のネックレスが巻きついていた。靴音は厳粛で、会場の人々の咳払いまでが特別な意味合いを含んでいるように耳に入った。私の隣に座ったムーミンおじは普段より特別大きく、静かだった。
 水津さんは黙ったままで、二人の間に置かれたグラスの氷はひそやかに溶け続けている。私が何かを尋ねるように彼女を見ると、水津さんは応えるように見つめ返してきた。黒い瞳が流れる川面のように光った。私たちの間を、見えない風が吹き抜ける。あらゆる季節のにおいと、時間の感触を含んだ風。その時この人が、父に長年にもおよぶ熱心な歯磨きの習慣を与えた人だと確信した。父が母と出会う前に、最も深く心をひかれたのはこの女性だ。季節にうながされる渡り鳥のように、父のもとを去ったのはこの人だ。
「たぶん、私はあなたのことを父から聞いていると思います」
「昔のこと、ね」
 水津さんはそう言ってほほえもうとした。しかし、彼女が作ろうとしたほほえみはうまくできあがらなかった。口の端は中途半端な位置にとどまり、どちらかというと泣き出しそうな表情に近い。年上の女の人のそんな顔を身近に見たことがなかった。
「卓巳さんと文香さんはかなり仲のいい兄弟だったわよね」
 水津さんは自分を励ますように声のトーンを一段上げて言った。
「はい。結構大きくなるまで一緒にお風呂に入っていたそうです。それもどうかと思うけど」
「広いお風呂だったのよきっと」
 水津さんは大げさに明るく笑う。自分の顔がうまく動くかどうかを、確かめているみたいだ。それでも彼女が笑うと、日が差すようにあたりの雰囲気が変わる。
「なぜ私が文香さんと知り合ったかというとね。卓巳さんとお付き合いしている時、何度か文香さんをまじえて三人で食事をしたことがあったの。卓巳さんはその頃両親と折り合いが悪かったから、ご両親より先に兄の文香さんに私を紹介しておきたかったんだと思う。あの頃、私たちは結婚するつもりで付き合っていたから」
 水津さんと目が合う。彼女の声は強く張った弓のように意思を持ちはじめていた。自分の口から出る言葉に、彼女自身がやっと慣れてきたという感じがした。
「卓巳さんを好きだった。前も後ろもわからなくなるくらい。それまでも恋人はいたけど、卓巳さん以上にぴったりとくる人はいなかった。卓巳さんに別れを告げたときでさえ、そう思っていた」
 水津さんはソーダ水をひと口飲んだ。結婚、という言葉の意味が一瞬わからなくなる。それは新しく習う難解な言葉に聞こえた。部屋は静かだった。ソーダ水のはじける音が耳元まで届いた。夏の一番透明な部分が、今この部屋を訪れている。
「卓巳さんとお別れしても、文香さんとは友達付き合いが続いた。知り合ったばかりなのに、昔から友達だったみたいに感じる人ってたまにいない? 文香さんと私はなんていうか、気が合ったの。ぴったりと。本当に少し喋っただけでそれがわかったわ。だから私は卓巳さんと別れて新しい恋人とデートしながら、ときどき文香さんと会ってお喋りした。それって浮気じゃないのよ。彼は大切な友達になった。私はそれまでたくさんの男の人のところを渡り歩くような日々を送っていて、ろくに友達も作ってこなかったの。女の友達も男の友達もいなかった。だから恋愛めいた駆け引き抜きで楽しく過ごせる相手がいるって、こんなに素敵なことなのかと思った。私は何度も恋人をつくっては別れ、別れてはつくってで落ち着いたことがないんだけど、文香さんとはずっと友達付き合いが続いてる。思えば長い付き合い」
 水津さんはほほえむ。
「そういう関係がずっと続くと思っていたの。でも、そんなことはないと思っていたのに、私は文香さんを好きになってしまった。好きになったっていうのは、もちろん、男の人として好きになってしまったということ。文香さんをこの世に一人のパートナーとして、この先の人生を生きられたらいいのにって」
 彼女はまたソーダ水に口をつけた。何かの印みたいに、グラスのはしに唇が触れただけだった。彼女の目からはそれまであった黒々とした輝きがなくなっていた。窓から射し込む日の加減が変わったせいかもしれない。
「あなたの、そうね、お母さんくらいの歳の女がこんな話をするのはおかしいかな」
 水津さんは射抜くように私の目を見た。何者が差し挟まれるのも許さない強い視線だ。   
 水津さんは私に言葉を求めていた。まなざしと同じ強い求め方だった。
「おかしくありません」
 彼女が求める通りの返事をした。それが自分の思っていることと違っていなかったので、安心した。
「ありがとう」
 そう言う水津さんの声を胸の一角に丁寧に収めた。隙間から流れ出したり、風にあたって消えてしまわないように。私はこの目の前の女性に好意を抱きはじめているようだった。とりあえず、父と彼の歯ブラシのことは忘れて。
「私は自分でもなぜそんなことが起こるのかわからないけど、次から次へと違う男の人が好きになってしまうの」
 水津さんは首をかたむけた。沈んだような声なのに、その動作がかわいらしくて思わず目をそらしてしまう。
「好きになる時は真剣なの。心の底から好きになる。なのに数カ月、長くて一年もすればまた別の人を好きになってしまう。付き合っている相手に不足を感じるわけではないわ。ただ、ほかの誰かを自分でもおさえ切れないくらい好きになってしまう。その繰り返し。一般的にいえば浮気性っていうのよね、そういうの。ただ私の場合はその度合いが普通とは比べものにならない。次から次へと手あたり次第に男の人を好きになってしまう。おかしな病気にかかっているみたいに。そんなだから、新しく誰かを好きになった時にはもう、自分はまた別の人を好きになるだろうとわかっているのよ。不幸なことに、不幸なことというべきでしょうね。私が好きになる人はみんな私を好きになってくれた。だからある時から私の人生には、恋人ができては別れ、別れてはまたできという繰り返しが隙間もなくあるの。つらいのは、私が男の人を好きになる時には心の底まで乾いて、身を切るくらい激しくその人を求めることなの。繰り返される感情がいつもいつも生半可なものじゃない。後から思い出すとそれは私をとても疲れた気持ちにさせる。だってどんなに好きになったって、また他に好きな人ができて早晩別れてしまうんだから。でも、そんな思いをしても、新しい人を好きになってしまったら巨大な竜巻に巻き込まれる一枚の葉っぱみたいになってしまうの。抵抗なんかできない。崖から突き落とされるみたい。もうやめておこう、とはならない。そうできればどんなにいいかと思うけど、できない。そして恋人と呼べる間柄になっていくらも経たないうちに終わってしまう。また別の人を好きになるから。だから、何十人もの男の人と付き合ったのに、私は恋人同士の親密な気持ちも面倒で嫌になるようなことも、経験したことがない。一度もね。そこに至る前に駄目にしてしまうから。今まで付き合った人たちとの関係ともいえない関係のことを思うと、むなしくなるわ」
 そこまで話し終えると、水津さんの体はいくらか縮んだように見えた。彼女は脚の位置をずらして窓の外を見た。そこには空と電線と、飛び立つ鳥の姿があった。鳥はあっという間に小さくなって消えた。
「だからね、文香さんを好きになったと気付いたときはかなり動揺したわ。悲しかった。それは私の望んだことではなかった。でも一度好きになると、自分ではもう手におえなくなってしまうの。うん、そう。そういう素振りを知らず知らず彼に見せていたんだと思う。文香さんはそのことを察して姿を消したのかもしれない。彼は恋人をとっかえひっかえする私の癖をよく知っていたから」
 水津さんはまたグラスに口をつけた。今度はソーダ水がなくなるまでグラスは傾けられた。最後の炭酸が彼女にしみ込んでいく。
「でも、どんな事情があったとしても、おじが大切な友人の前から黙っていなくなってしまう人には思えません」
 私がそう言うと、水津さんはうなずいた。
「ええ。大丈夫。戻ってくるわ。ただ私の気持ちが冷めて、物事が落ち着くのを待っているのかもしれないわ」
 水津さんはその日そう言って帰った。そして彼女は一週間も経たないうちに、また私の家にやってきた。
「こんなにおじゃましちゃって、ごめんね」
「ぜんぜん。夏休みの大学生って本当に暇なんです。暇を切り売りしたいくらい」
「私も大学の頃は莫大に時間があったわ。文学部は通称あそぶんがくぶって呼ばれてたから」
 その日顔を合わせた水津さんの雰囲気は前よりも打ち解けて、心地よい軽さがあった。
「それ、うちの大学にもあります。法学部はあほう学部、理工学部は単位取得が大変だからおりこうがくぶ」
「私は暇ってわけじゃないんだけど、フリーで絵を描く仕事をしているから時間の融通はきくの。仕事の量も調整できるし」
「すごい、イラストレーターですか?」
「でもすごいってほどのものじゃないのよ。自分の好きな絵が描けるわけじゃないし。ちょっと話すとみんな芸術家みたいに言うけどそんなの誤解。お客さんの要望に沿うように描いて、チェックを受けて修正してってその繰り返しなの。でもなんだかんだいって気に入ってる仕事ね。そんなことより、夜ごはんどこかに食べに行かない?」
「いいですね」
「私におごらせてね」
 会いたくなっちゃって。
 昨日の夕方、今度はメッセージではなく電話がかかってきた。彼女は何も本当に私に会いたいわけじゃなくて、ムーミンおじが消えてしまった不安を分かち合う相手が私しかいないから、電話してきたのだと思う。でも水津さんに会いたいと言われて、悪い気はしなかった。できれば私ももう一度、水津さんという女の人に会ってみたい気がしていた。
「ゴーヤーチャンプルーと、あ、これもください」
 家から歩いてすぐの沖縄料理屋に入った。自炊が面倒だけどちゃんとした物が食べたいという時によく行くお店だ。
「そんなに食べられます?」
 迷いもなく次々とメニューを指さしていく水津さんに疑いの目を向ける。お通しには海ブドウが出てきた。
「結構大食らいなのよ私」
「見た目によらないですね」
 つい、水津さんの脚に目がいく。今日はスカートではなくグレーのジーンズを履いているけど、相変わらずきれいな線が浮かび上がっている。彼女は予告通り運ばれてきた料理を次々とお腹におさめていった。ムーミンおじより食欲旺盛だ。ムーミンおじは量は食べないけど夜中に食べるからいけない。
「泡盛、頼もうか。お酒飲める?」
「ちょっとだけなら」
 水津さんは運ばれてきたお酒を私と自分のお猪口に入れると、これも気持ちいいくらいの速さで飲んだ。彼女は店にいる間中ずっと、感心するほど食べ感心するほどよく飲んだ。
「文香さん戻ってくるかな」
 精力的な食事を続けながら水津さんが言った。
「心配しなくても戻ってきますよ。家も仕事もあるんだし。おじさんってちょっと変わってるから、子供の家出みたいなものなのかもしれません」
 戻ってくる。そう言わなければ、おじが帰ってこない気がして大きめの声で返事をした。
「そうだといいけど。私、彼がアマゾンの奥地で謎の巨大魚に食べられたり、どこかの平原でシマウマの集団につつかれてたりするところを想像するの。こう、シマウマたちが輪になってね、いじめてるの。文香さんはシマシマのなかで溺れてしまって。冗談じゃないのよ。彼ってそういう雰囲気があるじゃない? 無事だといいんだけど」
 ゴーヤをつまみながら水津さんが言う。
「おじさんの鞄は海外まで行く感じじゃなかったですよ。日本には謎の巨大魚も野生のシマウマもいません」
 そう、虹の根もとに消えてしまったのでなければ。
「だといいんだけど。あーあ、私もどこかに行きたくなっちゃった」
 水津さんは自分を調整するように、あっちの皿から、こっちの皿から料理をとって食べていく。生気溢れる食べっぷりなのに、その夜の水津さんは時々空気の抜けた浮輪みたいになった。のんびりと気持ちを楽にしているように見える一方で、必要な浮力を失って色のない海の淵まで流されてしまいそうにも見える。そうだったら、どうにかその浮輪に空気を送り込まなくてはならない。ムーミンおじ、早く帰ってきなさいよ。私は繋がらないおじの電話を恨めしく思った。
 帰りはだいぶ泡盛を飲んでいた水津さんを駅まで送った。といっても彼女はまったく酔っていない顔をして、きれいな足を扱いに慣れた道具のように動かして歩いた。
「駅までの道、覚えてるから大丈夫よ」
「夜に散歩するのが好きなんです。特にこの季節は夜が一番気持ちいい」
 街頭の明かりが道知るべのように並ぶ下を、私と水津さんはゆったりとした速さで歩いて行く。
「父の、お墓参りにいきませんか?」
 そう言ってから、自分の方がよほど酔っていることに気がついた。水津さんという人が、おじの行方を訪ねてきた日からどんどん私に近付いてくるものだから、酔いにまかせそんなことを言っても許される気分になっていた。
「卓巳さん」
 水津さんは父の名前を呼んだ。まるで目の前に、ひさしぶりに再会した父の姿があるような言い方だった。
「お墓、どこにあるの?」
「結構遠くて、福岡なんです。父の実家は福岡だったから。近くに祖父母の家があるんですけど、今は旅行に行って留守にしてます。父が死んでから二人でずっと遊び回ってて。きっと、さみしいんだと思います」
「そうだった。覚えてる。彼は東京の大学に合格して、それから上京したの」
 私が生まれる前の父の話を、知り合ったばかりの女の人がしている。地面から体が浮遊するような感じがした。
「いこっか、そこ」
 水津さんは、まるで父の墓がひと駅先にあるような口振りで言った。
「飛行機か、新幹線じゃなきゃ行けないですけど」
 あんまり気軽に返されたので、私はおそるおそる言ってみた。
「知ってるわ。友里ちゃん、おかしなこと言う」
「だって水津さんがあまりにも気軽だったから」
「ほら、どこかに行きたいって言ったじゃない、私。卓巳さんは昔の女に墓参りされて、いい気がするのかわからないけど」
「私もわからない」
 そう言うと、水津さんは笑った。
「行ってみようよ。文香さんを待ってるだけじゃ、おかしくなりそうなの」
 水津さんとは改札の前で別れた。彼女は路線図の料金表示を読み上げながら切符を買い、手を振りながらホームへ消えて行った。

 後日電話のやり取りでとんとん拍子に旅程が決まり、私たちは福岡の小さな街を訪れた。小さい頃からたびたび訪れていたその土地は、辿り着くたびに私の人生に時間が流れているのだという当たり前の事実を実感させる。花火セットを持って祖父母の家に転がり込んだ私も、庭に出したビニールプールで遊んだ私も、もうどこにもいなかった。その代わり、昔は駅から祖父母の家までの道のりもわからなかったのに、今では東京からの道筋も、隣の町の名前も、その隣の町の名前も知っている。こうして水津さんを連れてくることもできる。
 墓地は人気がなく、墓石が太陽にあたって白く輝いていた。前に来た時とはあまりにも印象が違っていて、父の墓がどこなのかさんざん迷い歩いた。私の案内が全くあてにならないので、そのうち水津さんが前を歩いた。水津さんは柄杓と雑巾の入ったバケツを持って、私は近くの花屋で買った菊の花と線香セットを持ってもくもくと歩いた。水津さんはすべての区画をしらみつぶしに歩くつもりらしい。足になじんだブルーのミュールが、砂利を踏んで規則正しく音をたてた。私は彼女のあと歩きながら、消えた母のことを思った。今日の水津さんの背中はなぜか母のことを思い出させる。
 母について思い出すのは、珍しいことだった。母に対しては、好きとか嫌いとか、何の感情も残っていなかった。残っていない、という言い方はあまりにもしっくりと心情に合う。母に対して抱いていた感情がバケツいっぱいの水だったとしたら、バケツの底に開いた穴はいつの間にか大きくなって、今では中の水は一滴も残っていない。ほんの短い子供時代を過ごした大好きだった母親。そう、一緒に暮らしていたときは好きだった。出て行ったしばらく後も恋しく思っていた。それで毎晩泣いて父を困らせたのだ。しかし小学校に入って学年が上がるにつれ、母が父と私を捨てるようにしてよその男のところに行ったことを理解しはじめた。そして半休をとって授業参観にくる父を見るたびに、母を嫌いになっていった。最初は母を嫌いだという感情に戸惑った。あんなに好きだったのに、自分の母親をうらむ日がくるなんて考えも及ばなかった。罪悪感という言葉を当時は知らなかったけど、自分の母親を嫌うのは後ろ暗く悪いことで、とても人前で口にできるようなことではないと思っていた。好きな気持ちと嫌いな気持ちは、その時々によってどちらかが領分を増やし、またどちらかが領分を減らした。ふたつはさんざん揺らぎ合い、充分にぶつかり合うと、最後にはどっちでもなくなってしまった。いつの間にか母のことを好きでも嫌いでもなくなっていた。葛藤がなければわざわざ思い出すこともない。いつのことだっただろうか。高校の頃にはもう、母は私の人生の「よそ」にある人だった。
 水津さんが足をとめた。「着いたわ」と言いながら、私のほうを振りかえった。
 三和卓巳
 久々に父の名前を見た。もう、彼宛てに届く郵便物もほとんど途絶えていた。たまに届く父宛ての手紙はお店の案内とかそんなものだ。そこに記された父の名前を見るたび、彼が死んだという意外な事実は何度でも私にもたらされる。あ、そういえば、そうだった。私はいつも夢から覚めたように、そのことにはっと気がつく。巨大な部屋で一人、世界でただその部屋でしか映らないテレビ番組を見ていたような気分になる。チャンネルをまわしても、ほかは海の底のように真っ暗な画面が静止しているだけだ。
「普通のお墓でしょ」
 私は水津さんに言った。水津さんは私が生まれる前、何年も前に父に会ったのが最後。そのころ父は誰の父親でもなく、朝起きてから夜寝るまで純然たる三和卓巳で、水津さんを心から愛していた。
「お墓だもの」
 水津さんが答えた。私はただ、暑いと思った。ここは東京よりも暑かった。土も木もからからに乾ききっているように見える。今年の夏は全国的に降水量が少ないらしく、そういえば梅雨の時期もまったく梅雨らしくなかった。首都圏の水がめといわれる群馬のダムの貯水率が、平年の半分以下になってしまったとニュースで知った。昼のワイドショーは連日のように家庭への節水を呼びかけていた。
 飛行機で隣に座る彼女の横顔を見た。備え付けのイヤホンを耳につけたまま、静かに寝入っていた。呼吸は深く、眠りはどこまでも続きそうだった。座席の個人ディスプレイではブロスナンのジェームズ・ボンドが駆け回っていた。彼のリボルバーが放つ固く鋭い銃弾はばたばたと何人もの敵を倒した。そんな銃弾の音が、水津さんの眠りの中にかすかにゆらめく。
 まぶたの裏の暗闇に、彼女は何を見ていたのだろうか。私は映画から目をはなし、再び隣の女性を見た。シートと体が年月を経て癒着してしまったかのように彼女は動かず、寝息さえも聞こえてこない。絶え間ない飛行機のうなりが私と彼女を包んでいた。機内にはベルトの着用を指示するランプが点灯した。きっちりと髪をまとめたスチュワーデスたちが長い通路を行き来し、急激な気圧の変化に耳が痛みはじめた。水津さんの眠りのただなかに、巨大な翼は地上に降りた。
 「お墓だもの」と言ったきり、水津さんは何もしゃべらなかった。彼女は風を受けながら、黒い墓石の前にたたずんでいた。蝉が鳴き木の葉がゆれ、汗が落ちた。この土の下にいる人は、本当に私が父と呼んでいた人なのだろうかと思う。父が死んだことはわかる。でもその彼が土の下にいるというのはよくわからない。その感覚は昔、母がいなくなった時と同じだった。私にはその距離がどういうものなのかがわからなかった。スケート場の氷を魔法のように滑っていた男の人は、一体誰だったのだろう。ベッドの横で、泣きじゃくる私をなぐさめ続けていた男の人はどこから来た人だったのだろう。
「お花」
 知らないうちに、水津さんは私の手もとをじっと見つめていた。
「ああ、そうですね。活けましょう」
 私と水津さんは、正気を取り戻したように動き出した。墓石に水をかけ花を供え、線香に火をつけて二人で三本ずつ分け合った。目を閉じて手を合わせている間、隣にいる水津さんの気配がとても濃かった。
 福岡には二泊した。一日目は墓参りをして町にあった唯一の旅館に泊まり、二日目は観光にあてた。太宰府天満宮を訪ねてから夕方博多のホテルに荷物を置くと、夜は水津さんたっての希望で博多名物中州の屋台にくりだした。
「見て見て、明太子の宣伝ばっかり」
「へええ、ここまでベタに明太子なんですね。博多って」
 中洲の川の両岸には、電光で輝く派手な看板が並んでいる。それが川面に映り込んで、巨大なホタルのようにゆらゆらと光っていた。なかでも明太子を宣伝する看板は特別大きく目立っているように見えたけど、それは博多イコール明太子という先入観のせいかもしれない。
 私たちはしばらく屋台の並ぶ川沿いの道を歩いた。席を待つ客が十数人も並んでいる屋台もあれば、ほどほどに繁盛している屋台もあり、どの店も明かりが多数の虫を呼びよせるように道いく人たちを吸引している。
「あそこ入ってみよう」
 水津さんは半分ほど席の埋まった屋台を指差した。まずはビールと、焼きラーメン、いわし明太子、厚焼き卵。
「かんぱい」
「かんぱい」
 すっかり喉が渇いて半分くらいを一気にのんだ。頭の芯がきりきりと冷え、ジョッキをおろすと今度は蒸すような熱が体に満ちた。水津さんは出されたイワシ明太子を解体しはじめる。
「それ、そのままイワシと明太子を一緒に食べるんですよ」
「そうなの?」
「だって別々にしたら、わざわざイワシに明太子をセットした意味がなくなるじゃないですか」
 水津さんはイワシの腹から明太子を引きずり出すのを中止した。
「ケッタイな食べ物ねえ」
 彼女はイワシ明太子に批判を加えながらもいざ食べるとなかなか気に入ったらしく、二皿目を追加した。
「水津さんは父と過ごした頃を、ずっと昔に感じますか?」
 ふと思い立ってそう聞いた。水津さんは横顔で私を見ると小さく笑った。
「友里ちゃん、私のこといくつだと思ってるのよ」
「カレンダーの時間じゃなくて、体感時間っていうのかな。昔のことを、昨日のことのように感じるって言い方があるじゃないですか。ああいう感じの」
「それだったら、大学の教室で並んで講義を受けてるところなんか映像みたいにはっきり思い出せるわよ。卓巳さんの声までしっかり。彼がいつもどういう服を着ていたかも、何パターンかすぐ思い出せる。だから今日お墓の前に立った時は変な感じがしたわ。いきなりカレンダーの時間が舞い降りてきて、卓巳さんはもう亡くなってる。つい昨日まで、大学で同じ授業を受けていたのに」
 追加分のイワシ明太子がやってきた。一皿に二匹。私と水津さんは同じタイミングでその一匹ずつを箸でつかむ。
「私の場合は反対で、父が亡くなったのがもう何年も前みたいに感じます。ずっと前に父は死んでいたような気がするんです。私が彼と過ごした記憶は、何十年も前のことなんじゃないかって。そんな昔に、私は生まれてもいないのに」
「時間って、たまにおかしくなってしまうことがある」
 水津さんは半分に減った私のグラスにビールを注いでくれた。飲みかけのビールに再び泡が立った。酔いが私の全体を鈍くさせ、その変わりにある一部だけを針のように鋭くした。そういう頭のなかに突然、父の歯磨きについて水津さんに話すという考えが浮かんだ。
 水津さん。父は水津さんと別れたあと、二種類の歯磨き粉を順番に使って、やたらと時間のかかる歯磨きをしていたんです。朝と昼と夜に、それは丁寧に歯を磨いていました。水津さんが新しい男の人を好きになって、別れて、また新しい男の人を好きになって、時々ムーミンおじとお茶をしている間、父はずっと歯磨きをしていました。日に三度必ず行われる大切な儀式みたいでした。絵描きが絵を描くことを生きている証とするように、登山家が山を登ることを生きている証とするように、毎日長い歯磨きをすることが、父が生きている証だったのです。そして三和卓巳が死んだあとに残ったのは、彼が使っていた一本の歯ブラシでした。
「ムーミンおじはどこに行っちゃったんだろう」
 頭の中で浮かべた台詞を私は言わなかった。その代わりに二人が現在共有している心配ごとを持ち出した。ほんとにどこに行ったのかしらと、水津さんがこだまのように返した。
「戻ってこなかったら」
 水津さんは言葉を宙に浮かべて、そのまま忘れてしまったように黙り込んだ。彼女は続く言葉を考えていないのではなくて、口にすべきかを迷っているようだった。
「戻ってこなかったら?」
 残りの言葉をたぐり寄せようとした。
「戻ってこなかったらいいのに、というわけにはいかないわよね、もちろん」
 彼女は弁明するようにぎこちない微笑を浮かべた。私は水津さんの口から出てきた言葉に驚きはしなかった。
「それは水津さんが、おじさんを好きになったから?」
「彼を好きになった時から、私たちの関係は変質してしまったわ。私が文香さんを好きでいる限りは、彼が帰ってきてもまた元のような友達に戻ることはできないと思う。以前とは違う空気が私たちの間にはできてしまうでしょうね。まったく、全部私のせい」
 彼女は手にとって触れられるくらい、はっきりとした形のため息をついた。
「水津さんはまるで、何か取り返しのつかないまずいことをしてしまって、そのことを後悔しているみたいに見えます」
「だってそうなのよ」
 水津さんは割り箸の袋を小さく折りながら言う。
「おじを好きになるのは、そんなに悪いことなんでしょうか」
「たとえば私と文香さんが恋人関係になったとして」
 彼女はしつこく箸の袋をいじりながら、朝まだきの鳥のように首をかしげた。前にも見たことのある仕草だった。
「私は今までやってきた虚しくかなしいことをまた繰り返すことになるのよ。文香さんと付き合ってもまた新しい人を熱病のように好きになって、それで終わり。毎回手に残るものは同じ。これ以上なく虚しいという感触よ。徹底して何もないっていう感触。お前には何も与えられないし何も残されないと、誰かが私の耳元で言うの。肌に触れることのできる特殊な空洞を両手に握らされるの。それは空虚な空洞のくせに、私を芯まで傷つけることができる。新しい人を好きになるたびに空洞が増えていく。うっすらと体が冷たくなっていく。そんなこと、そろそろやめにしないといけないわ」
 水津さんはあごの下で両手の指を組んだ。
 私はついこの間水津さんと出会って、彼女の抱えているものを横目で少し見ただけだった。一体何が言えるのだろう。私たちの背中を夜風が通り過ぎた。風は川面の湿りをふくみ、木の葉のざわめきを連れてきた。屋台に据えられた扇風機が負けじとあたりの空気を回転させている。隣のおじさんたちの話し声が急に大きくなった。扇風機は意固地に羽を動かし続け、今にも飛び立ちそうに見える。黙っている水津さんに何かを尋ねてみたいと思った。しかしムーミンおじについてこれ以上話すには彼女はこわばり固くなり過ぎていた。
「イワシ明太子、もう一皿いっちゃわない?」
 先に口を開いたのは水津さんの方だった。彼女は私の返事を待つ前にイワシ明太子を注文した。


 深夜、コンビニに行こうとしたところをムーミンおじと鉢合わせた。福岡から帰ってきてから二日目のことだ。サンダルをはいて玄関を出ると、切り株のようなボストンバッグを抱えたおじがいた。
「駄目じゃないか友里ちゃん、女の子がこんな時間に外に出ると危ないよ」
 久しぶりにおじの声を聞くと、頭のてっぺんから力が抜けていく。
「ちょっとどこに行ってたのよムーミンおじ。そっちこそ今何時だと思ってるの。とにかく中に入って。今日は泊まっていくよね、電車ももうないし。ソファーで寝られるから泊まっていって」
 ムーミンおじは聞こえているのかいないのか、うんとも何とも言わない。
「ほらほら」
 私は鞄ごとおじを引っ張った。また彼がどこかに行ってしまうのではないかと不安で、靴を脱ぎ始めたおじから目をはなすことができない。
「僕はね、歩いていたよ」
 おじはボストンバッグを部屋の隅に置くと、いつもの二倍くらいはゆっくりとした動作で座りこんだ。つけっぱなしにしていたテレビの電源を切ると、雨の音が聞こえてきた。そういえばおじの肩も濡れている。夕方一度やんでまた降ってきたらしかった。断続的に続く雨のせいで、旅行中の洗濯物がまだ乾かない。今さらになって空梅雨の埋め合わせでもするように、ここのところは曇り空が続いている。
「歩いた?」
「夏休みをとってしばらく家にいたんだけど、それも飽きてしまったから色々なところを一人で歩くことにしたんだ。いくつかの土地に行ったよ。観光雑誌に載っているようなところや、全然有名なんかじゃなくて、ただなんとなく気になって電車を降りたところとかにね。僕は訪れた土地をかなり真剣に歩いた。一歩一歩大地を踏みしめて。大地といってもだいたいはアスファルトだったけどさ。でもそんな風に歩いたのは久しぶりだった。普段歩くときには、早く職場に着こうとか、スーパー行って何買おうとか、いろんな余計なことを考えてるじゃない。真剣に歩くっていうのはそうじゃなくて、一歩一歩歩くことだけに集中するんだ。自分が足を踏みしめている感触、目じりにとらえる景色の動いていく速さ。全部を取りこぼさないように余分なことは考えない。すると腕も力強く動くし、眼差しもまっすぐになる。ちょっといい気分になる。自分が歩いてるってことがわかる」
 おじの考えていることの熱が、あたりを走る。私はそれをうまく受け取ることができない。熱はとりとめもなく分散していく。
「雨の日や疲れた日は宿にこもって外を眺めていたよ。本読んだりウォークマンで音楽を聞いたりしながらさ。ホテルのロビーから、旅館の部屋から、きれいな中庭が見えた。別に庭を基準に宿を選んだわけじゃないけど、たまたまどこも良いところに当たったんだ。手入れの行き届いていない庭だと自分で手を入れたくなっちゃうけど、今回見た庭はそんなことなかったな。緑がいい色だったよ」
「毎日そうやって過ごしていたの? 一日歩いたり外を眺めたり」
 私にはそんな退屈な生活は送れそうになかった。おじにとっては退屈ではなかったのかもしれないけど。
「水になった気がしたよ。透明な水。でもさ、そんなに長いこと仕事を休んでいるわけにはいかないし、この長い夏休みもかなり無理を言って手に入れた休暇だったし、こうして帰ってきたよ。いつまでも透明な水のまま流れているわけにはいかないみたいだね」
「水津さんが心配してたよ」
 私がそう言うと、おじの目に小さな炎がともった。こぼれるばかりに光って、まぶたがとじられた。
「水津有紀さん」
 壁に書かれた大きな字を読み上げるように、彼女の名前をもう一度言った。ムーミンおじは何か問いたげに私を見た。
「おじさんがいなくなったって心配して、うちを訪ねてきたの。彼女についての話を色々してくれた。それから一緒に福岡に行った」
「福岡って、兄さん?」
「そう。お墓に行ったの。ねえ、おじさんは何で私たちに何も言わずにいなくなってしまったの? もう帰ってこないんじゃないかって本気で心配したのよ。水津さんも私も。どうして電話に出なかったの?」
 中洲の屋台で見た水津さんの横顔が浮かんだ。それから飛行機で見た彼女の横顔も思い出した。
「おじさんがいなくなったのは、水津さんのことと関係があるんだね」
 私が言うと、おじは観念したというように小さく笑った。
「友里ちゃんはもう何でも知ってるんだな」
「何でもじゃないけど。おじさんが想像しているよりは、知ってるかもしれない」
「僕は一人になりたかったんだよ」
 おじはあぐらをかいた足を組み直した。
「変だろ? いい年したおじさんがこんなこと言うのは」
 聞いたことのある台詞だと思った。水津さんからも、同じような問いかけを受けた。
「変じゃないよ」
 そして私も同じように答える。
「いや、変なんだよ。僕はずっと長い間独身の一人暮らしをしてきた。さみしいと感じることはあっても一人になりたいと思ったことは今までなかったんだ。兄さんが離婚してから毎週のように君たちの家を訪ねていたくらいだからね。どちらかといえば、僕はいつも一人の時間を埋めたがっていた」
 ムーミンおじは喋るのをやめて息を吸った。話している間は息をしていないとでもいうような深呼吸だった。麦茶を入れたグラスの水滴が、テーブルまで素早くつたった。
「夏のはじめに、自分が誰にも会いたくなくなっていることに気がついた。といっても僕には多くの友達はいない。職場でのしがらみはあるにしろ、それは本当の僕の領域には入ってこないものだ。仕事を超えて付き合いのある人はいない。仕事をやめさえすればそこでの関係はゼロになる。だから仕事を休んで君たちと連絡を絶てば、すんなりと一人になれた」
「おじさんは、水津さんに会いたくなかったの」
「友里ちゃん、なんでそんなに僕のこと知ってるのかな。あのね、ある時から、僕は彼女といると混乱するようになった。なんていうか、僕の勘違いでなければ、彼女は僕を好きなんだ。そして僕も彼女のことを好きだ。友達以上に。最近やっと気がついたんだよ」 
 おじは確認するように私を見た。ムーミンおじが水津さんを好きだったということには驚いたけど、話の流れを断ち切らないように小さくうなずく。
「でも水津さんには問題があった」
「それも、彼女から聞いたわ」
「そうなんだ、じゃあ話が早い。水津さんは僕に対する態度を決めかねて迷い続けていて、そんな水津さんを見ているうちに、僕自身もどんどん不安定になっていった。自分の身の置き場がわからなくて。僕がいることで水津さんを苦しめているんじゃないかと思うようになった。それで心機一転、頭を切り替えるために一人になろうと思った。日常から離れてみようと思ったんだ。気分を変えれば何かがわかるかもしれないから」
「何かが、わかったの?」
「一人になってみてもね、知らない土地に行ってもね、結局僕は水津さんのことを考えていたよ」
 ムーミンおじは沈んでいく太陽を見つめるように、静かに目を細めた。雨は強くなっていた。町中をつたう雨だれの音が聞こえるようだった。
「まったく変よね。水津さんとおじさんは両想いってやつなのに」
「僕は水津さんの癖を昔からよく知っているからね。友達のままでいるのが正解なんだと思う。だから僕が彼女のことを好きだとかなんだとか、言っちゃ駄目だよ」
 駄目だよと繰り返すおじの目が私を見つめる。そのままにしておくと、二つの目はこっちに向かって転がり落ちてきそうだった。絶対に言わないから。私はそう答えて彼の目が落ちてくるのを未然に防いだ。おじは表情だけで返事をしてしばらく黙り込む。そして彼は会話を投げ出したままソファーに横たわり、天井にまっすぐ顔を向ける。宝の地図でも貼りつけてあるかのように、ムーミンおじは天井を見たまま少しも動かなかった。ムーミンおじ的傾向が極限に達している。
「風邪引くよ」
 押し入れからブランケットを引っ張り出してきた時には、ムーミンおじはもう寝息を立てていた。毎度そうだけど、信じられないくらい寝付きのいい人だ。でももしかしたら、今夜のおじは寝ているふりかもしれないと思う。そう考えると寝息はすこやかな分だけ嘘臭く思え、動かない体も不自然に見えた。しかしおじを起こすことはしない。そんなことをしても中洲の屋台で水津さんにかける言葉が見つからなかったように、おじにかけるべき言葉も私は持たなかった。おじの顔の半分までブランケットをかけ、最後に一度だけしっかり閉じられた彼のまぶたを確かめた。
 取り残された私は、幼い頃父と過ごした夜を思い出す。泣きやまない私を父がなぐさめ続けていた夜だ。私は小さかったから、その時のことを直接には覚えていない。知っているのは後になって父から話を聞いて思い描いた光景だ。だからその夜の本当の記憶は父しか持っていない。当たり前だけど、福岡の墓の前に立ち尽くしていても、私があの泣き続けていた夜に戻ることはなかったし、他のどこかに運ばれることもなかった。そこはただ暑く、蝉が鳴き、とめどもなく汗が流れる場所だった。
 雨音はますます強くなっていた。なのにこの部屋は奇妙なほど静かだった。私はその静けさの中に水津さんの横顔を浮かべてみたり、駅で見たおじの黒く濃い影を投げかけてみたりする。ぬるい雨が水津さんの鼻先をぬらし、おじの影を淡くぼかす。雨は土や埃や色々なものを区別なく押し流し、ねっとりとした夜の時間をかろうじて前に進める。私の中には何か大きくて動かしがたい物が次々と投げ込まれる。その物たちが描く波紋をじっと見つめて、水面が色もなく平らになるのを待つ。そして今度は、自分の中から出て行く物たちを見送る。そんなことが延々と続いていき、明け方になるまで眠気は訪れなかった。





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