ハッピー・バースデー・トゥ・ユー




 
 諏訪で電車に乗ったことがなかったから、私は仕方なく父が帰ってくるのを待って、茅野に向かった。それまでに晴佳がひょっこり帰ってくるのではないかと思っていたが、夕方近くになっても、三嶋先輩から「お騒がせしました」のメールは来なかった。
 合宿所の玄関に立って私を待っていた三嶋先輩は、いつも通り笑顔で片手を振っていたが、夕方の陽光にぼうっと照らし出された顔は青ざめていた。
「晴佳、帰ってきましたか」
 挨拶として一応尋ねてはみたものの、やっぱりわかり切っていた答えが返ってくる。三嶋先輩は首を横に振り、笑顔を引っ込めた。
「二年生には伝えたんですか」
「最終日だし、部活終わってからにしようって。俺がとりあえず宿舎に残って、部活終わったら二年生集めて教えろって、新谷先輩に言われてる」
「先生には?」
「車で駅まで見に行ってもらったよ。どうも駅には行ってないらしい」
「荷物は?」
「部屋に置きっぱなし。ケータイと財布だけ持って行ってるっぽい」
 どうするんですか、とは聞けなかった。こうして状況を確かめている間にも、三嶋先輩の顔はみるみる固くなっていった。
 私は正直なところ、晴佳のことが心配で駆け付けたわけではなかった。あの女は大袈裟に孤独をアピールして人に心配をかけることで自分の地位を確かめることを生きがいにしている節があるから、今回のこともその一つに過ぎないだろう。だけど元々夕方には合宿所に来る口約束をしていたし、他にやることも特にないし、何より、「そのうち帰ってくるから放っておけば」と進言して不興を買うのが嫌だった。一応事務上の手続きとして、私が晴佳のために合宿所に駆けつけるという行為は必要だと判断したのだ。晴佳の安否など知ったこっちゃないし、まぁどこかで生きてはいるだろう。
 一方で、三嶋先輩はそうではないらしかった。
「瀬川、どうしよう、このまま中山が見つからなかったら」
 おろおろと視線を飛ばしながら、三嶋先輩が言う。長身の青年が「どうしよう」なんて口に出す姿がいかにも頼りなく見えて、私はため息をついた。
「見つかりますって。そろそろ捜索隊の人数も増えますし」
「でも、昼間からずっと探してるのに、ぜんぜん見当たらないし、もしかしたら事故かも」
 そんなことを母も四年前に言っていたなぁと思い出す。
「利恵さんとか新谷先輩とか、まだ探してるんですか」
「白樺湖まで見に行ってる」
「なんか大騒ぎになってますね」
「こんなときに鳥人間ならすぐ探せるのに」
 この期に及んで鳥人間の話題を出せるくらいには余裕があるらしい。私はパーカーのポケットから手を出して、握りこぶしを作って見せた。
「さっちゃんだと顔に出そうだから、千草ちゃんにだけこっそり教えて、私たちはもう一回この辺探してみましょう」
「もう散々探したよ」
「隠れてる人間っていうのは、一度隠れた場所をそう簡単には動きません。移動中に見つかるリスクの方がはるかに高いですからね。で、人の気配を感じるとしばらく息をひそめて待機して、足音が遠ざかるのを待った後に様子を見て少しずつ移動するものです。そんな大金を持っていたわけでもないでしょうし、こう大騒ぎになっちゃったせいで単に引っ込みがつかなくなっただけかもしれませんし。案外近くにいますよ、たぶん」
 三嶋先輩が首をかしげる。私は握りこぶしで自分の胸を軽く叩いた。
「私はかくれんぼの英才教育を受けてますから」
「は?」
「三嶋先輩、かくれんぼの罰ゲームで鼻の穴にダンゴムシ詰められたことなんてないでしょう。そんな生ぬるいかくれんぼをやってきたアマチュア連中には負けません」
 三嶋先輩はぽかんとして、昨日の夕暮れと同じことを言う。
「おまえ、変な奴だなぁ」
「鳥人間には負けます」
 私は三嶋先輩を玄関に残して足早にトラックに向かい、フェンスの向こうからちらちらと様子をうかがっていた千草ちゃんに合図した。空の端には夕闇が滲み、低く垂れこむような光がトラックに落ちていた。


 兄がいなくなった日のことをあまりよく覚えてはいない。私はやっぱり今と似たようなことを考えていただろうか。三月の半ば、日付は思い出せないが薄曇りの日だった。
 このままどこかで死なれたりしたら、探さなかったことが責められるだろうな。そんな打算で、私は当面必死に探すふりをした。正直どうでもいいというか、迷惑だとすら思っていたけど、そんなことは口に出せなかった。
 三嶋先輩は道路脇の雑草をかき分けてみたり暗がりにペンライトを当ててみたりと忙しそうだった。私と三嶋先輩は、合宿所内の捜索を千草ちゃんに任せ、トラックの裏の雑木林周辺に当たりをつけた。
「そんなだだっ広いところなんてどんなバカでも隠れませんよ。素人はこれだから」
 ハイパーかくれんぼでの智代ちゃんのスパルタ教育で散々泣かされてきた私は、三嶋先輩の慣れない所作にいちいちケチをつけていた。智代ちゃんは六歳も年下の私に対しても容赦なくハイパールールを適用するので、私は隠れている時間よりも鬼になって血眼で兄や智代ちゃんを探している時間の方が長かった。ハイパールールでは隠れてもいいエリアが諏訪郡全域に及んでいたため、もうそれはほとんど家出人の捜索に近かった。山狩りも再三経験してきたが、三十分以内に見つけないと鬼の負けで、制限時間より一分でも後に「みぃつけた」と言ってしまえば智代ちゃんの鉄鎚が下るため、私は己の勘と地図を手掛かりにエリアを絞り込み、集中的に探す術を身に着けた。かつての経験とツイッターの書き込みから、晴佳が隠れていると私が踏んだのは、この雑木林のさらに先の、蜂蜜工場だった。
 日が落ちていた。数少ない街灯が、点々と道路を照らしている。光の下で時々照らし出される三嶋先輩の横顔は、ぞっとするほど表情がない。他人のことをこんなにも心配できるということが、私にはよくわからなかった。
「そんなに心配ですか、晴佳のこと」
 素直に疑問をぶつけたら、三嶋先輩はゆるゆると視線を下ろし、私の顔を見た。瞳が暗くよどんでいる。おまえは心配じゃないのか、と叱られるかと思ったが、そうじゃなかった。
「俺、昨日振っちゃったんだよ、中山」
「は?」
「昨日の夜、玄関に呼びだされて、やばいかなと思ったんだけど、やっぱり告白だった。私も一緒に空を飛びたいです、とか言われて。そもそも、鳥人間っていうのはそういうことじゃなくてさ」
 三嶋先輩は鳥人間の美学を語りだそうとしたらしかったが、言葉を切ってため息をついた。
「え、ていうか、なんで?」
「俺が聞きたい」
「いや、だって、晴佳と入れ代わりじゃないですか、三嶋先輩。関わりないでしょ」
 晴佳が陸上部に入った去年の春には、三嶋先輩は卒業している。私は一瞬そう考えて、はたと気がついた。
「夏合宿?」
「たぶん」
「もしかしてそのときも?」
「うん、一目惚れだとか言われて」
 心底呆れた。去年の夏合宿、私は受験勉強の真っ只中だったから参加していないが、恐らくそのとき初めて晴佳は三嶋先輩に会って、恋に落ちたのだろう。たかが三泊の合宿でその恋に破れ、たかがそれだけの恋でハル化し、たかがそれだけの相手に今も執着している。何が「しにたい」だ。いっそ死ね。
「三嶋先輩が心配することないですよ」
 私は思うままに口に出していた。
「晴佳の思うつぼです。あんたが心配して探してくれるのをわかってやってるんですよ、あいつ」
「でも、ちょっと何しでかすかわかんないところあるし、もし変なこと考えてたら」
「人間そんなことくらいで死ねるわけないでしょ」
 三嶋先輩は押し黙った。私は大股でずんずんとアスファルトを踏み、足早に蜂蜜工場に向かった。人間、そんなことくらいで死ぬわけない。兄が失踪したときも、おどおどとあちこち探し回る父母を傍らに、やはり私は同じことを思っていた。そんなことで死ねるなら、もっと人生は単純に割り切れるものになっていたに違いない。私だってこの先の自分を不安に思う必要もないし、潔癖にあれこれ結論をつけようとしなくても済むし、三嶋先輩を諦めた時点、いやさらに前の時点で、さっさと死ぬことだってできただろう。
 夜風に木立がふるえる。道の先はいよいよ暗かった。
「そうじゃないかもしれないだろ」
 三嶋先輩がぽつりと言った。いくら説明しても、今の三嶋先輩には晴佳の姑息な意図など伝わらない。私は諦めて、黙って歩いた。
 蜂蜜工場の敷地が近づいていた。この時間は操業していないらしく、近くの街灯だけがぼんやりと建物を照らしている。人気のない夜の工場はしんと静まり返り、まるで廃墟のようだった。雑草の生えた駐車場に、何に使うのかよくわからない機械やベニヤ板が置かれている。
「瀬川、ちょっとここで待ってて」
 駐車場の前で立ち止まって、三嶋先輩が唐突にそんなことを言った。私は「え」と聞き返した。
「俺、探してくる」
「いや、私も手伝いますよ」
「中山がいなくなったの、俺の責任だし」
「だから」
「中山の責任だって言うんだろ。そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃん」
 そうかもしれないしそうじゃないかもしれないって、おまえは村上春樹か、と言いかけて、私は黙った。煮え切らないような三嶋先輩の言葉の中に、しかし私は何か、ひやりとするものを感じたのだ。
 責任、という言葉だった。なぜか、その言葉だけが、私の耳に繰り返し反響した。もちろん探すなと言われても探さないわけにはいかなかったのだが、私はペンライトを手に駐車場の雑草を踏み分けていく三嶋先輩の背を、ただぼんやりと見送っていた。
 私は彼らに対する責任を果たしてきただろうか。建物の角を曲がって闇に消える三嶋先輩を眺めながら、無益とも思える疑問を胸に繰り返す。
 どうして鳥人間なんてものに興味を持ち始めたのか、そもそもの発端については知らない。ただ三嶋先輩が鳥人間に本格的に傾倒していった、その最後の引き金を、私は知っていた。三年生の五月の部活中に、三嶋先輩は靱帯断絶の怪我を負った。高跳びの選手として、それは致命傷だった。高校生活最後の大会、いよいよインターハイの切符が見えてきていた。慰めることもできたはずだが、かける言葉がなかった。スケッチブックを睨みつける目は一気に熱を増し、猛勉強の末に航空学部に現役合格した。選手としての自分を諦める代わりに、鳥人間としての自分を求めているみたいだった。そんな簡単なことではなかったのかもしれないが、私にはそう映った。あのとき彼は何を思っていたのだろう。私は彼の無念さをすぐそばで感じながらも、その無念さに傷つけられるのが恐ろしくて、何も気が付かないふりをした。
 別に、間違いではなかったのだろう。鳥人間を理解できないというのはふつうの感覚だろうし、私が慰めたからといって解決できる問題でもなかった。三嶋先輩自身の責任であり、何度精査したところで私に非はない。ただ、確かにあのとき、私は三嶋先輩を見下したと思う。当たり前の心の動きとして、私はそうやって落ち沈んでいく彼を下に見た。今の晴佳に対するのと同じように。私は三嶋先輩を諦めたのではなくて、彼の痛みを汲むことを諦めたのではなかったか。彼らの痛みを、理解できないものとして遠ざけたのではなかったか。そしてそうした痛みが、自分とは無関係のものだと言い切って逃げることを、私は私に許してしまった。
 人の痛みを踏み台に、私は私の結論を、私の心の落とし所を見つけてきたのではなかったか。三嶋先輩が鳥人間になったから見切りをつけるだの、晴佳がハル化したから呆れてものも言えないだの、そうやって彼らの責任ばかりを追及してきた。理解できないものを自分の心から切り離し、他人の痛みを引き受ける責任を放りだした。それは正しいことだったか。どうでもいいと言い放ってよかったのだろうか。
 どうやって生きていったらいいかだとか、この先どこへ行くのかだとか、そんな自分の未来を憂えるよりも前に、もっと向き合っておかねばならない問題を、私は積み残したままにしていた。
 工場の敷地から、「中山ぁー」と大声で呼ぶ三嶋先輩の声が聞こえていた。合間に「ちくしょう、ぜんぜん飛べねぇ!」という絶叫が混ざる。草を踏む足音が不自然だから、どうやら飛んで晴佳を探そうとしているらしい。脳裏に、三嶋先輩の着メロに設定している『翼をください』が流れた。
 私はもしかして、この人にきちんと恋ができていたら、もっと他人の心に寄り添える、あるべき感覚を持つことができていたかもしれない。だけど今更取り返しもつかないとわかっていたから、ケータイの画面を起動して、足元を照らした。
「猫じゃないんだから呼んだって出てきませんよ!」
 私は三嶋先輩の声のするほうに向かって声を張った。
「まったく素人はこれだから」
 ぶつぶつとつぶやきながら、駐車場の草を踏み分ける。四年前、やっぱり心から探してはやれなかった、兄への責任を取るみたいに。暗い工場の庭先で、私は探し始める。


 ものの数分で、陸上部の青いジャージを工場の廃材の影に見つけた。本気のかくれんぼで隠れている人間は、トイレの個室のような密閉された空間には案外隠れない。見つかりそうになったときに即座に対応できないし、ドアを開けられたら逃げようがないからだ。かくれんぼエリートの私の勝ちだった。
「あんた、何してんの」
 私は気まずそうにこちらを見上げる晴佳に言い放った。晴佳は錆ついた鉄の間で膝を抱え、肩を狭めて座り込んでいた。
 みんな心配している、なんて言ってやるつもりはなかった。いくら、他人の痛みを放棄してきた自分に気が付いたところで、いざ晴佳を前にしてみれば、沸き上がるのはこの女に対する苛立ちだけだった。晴佳には晴佳なりに考えるところがあってハル化したのだろうなんて、聖人みたいなことを考えてやる気分には到底なれない。汲んでやるべきだと頭でわかっていても、心の赴き方ばかりはどうしようもない。私は優しくないかもしれないし、人として正常な心の持ち方ができていないのかもしれない。だから自分に言い聞かせるみたいに、私は言った。
「バカじゃないの」
 晴佳が小さく「はい」と言う。かすれるような、泣き出しそうな声だった。暗くて晴佳の表情はよく見えないが、唇がわなわなとふるえているのだけがわかる。
「はい、じゃないよ。どれだけ迷惑かけたと思ってるの」
「すみません」
「ちょっとくらい我慢がきかないわけ、あんたは。いなくなってみれば三嶋先輩が振り向いてくれるとでも思った?」
 わざと三嶋先輩の名前を出した。晴佳の口元は途端に歪み、両手がその唇を覆った。嗚咽が漏れる。こうなるとわかっていて晴佳を責める私には、三嶋先輩や兄に対する責任など、果たせるわけなかった。そういうふうには、人の痛みを引き受けられない。それがどんなに見苦しいことであるのかわかっていても、そういうふうには心を動かして行けない。
 晴佳は嗚咽の間に混じらせて、途切れ途切れに言った。
「沙織先輩は、強いから、ちょっとくらいのことだって、思うのかもしれませんけど、あたしはそうじゃないんです」
 自分は弱いんだとでも言いたげな口ぶりに、私は私の弱さを思う。人の痛みを引き受ける、そんな人間として最低限の責任も果たせない。なんて卑怯で、なんて弱いのだろう。
「ちょっとくらいのことでしょう」
「沙織先輩には、きっとわかりません」
「じゃあ、あんたには何がわかるって言うの」
 私には何がわかるのだろう。鳥人間に対しても、ヴィンに対しても、彼らの痛みを、汲んであげられなかった私に。今、目の前でボロボロ泣いている晴佳の気持ちすらも、慮ってやろうとは思えない私に、いったい何がわかるのか。私は弱い、なんて言葉は、もう言い訳にしかならなかった。
「あたしは弱いから」
 晴佳は免罪符のように、弱い、強くない、と繰り返す。弱いから、他人の弱さがわかるって言うの? それとも、弱いから、他人の痛みはわかんなくてもいいって言うの? 冗談じゃない。弱者を自分の弱さの言い訳に使うな。
 私は自分の胸に叩きつけるみたいに怒鳴った。
「いい加減にしなよ。弱いからなんだって言うの!」
 弱いからって免除されるべきことではない。これまでも、そして恐らくこの先も、他人を踏み台にして生きていくのであろう私が、過去に対する責任も果たさずに未来を願っていいはずがなかった。そう口に出したときに初めて、私は私の卑怯さを、身を切る痛みのように強く感じた。
 晴佳は私の怒鳴り声にびっくりして、両手から顔を上げてぐしゃぐしゃの顔をこちらに向けていた。暗さにだいぶ目が慣れて、晴佳の腫れあがった目元が見えていた。私の声に気が付いたらしい三嶋先輩のペンライトが、私と晴佳の足元の草むらあたりを探り探り照らしている。
 顔を上げて三嶋先輩を呼ぼうとしたとき、不意に私の背中を白いライトが蹴っ飛ばし、三嶋先輩のペンライトの頼りない光をたちまち飲み込んだ。タイヤが砂利を踏む音がした。私は目をしょぼしょぼさせながら、駐車場の方へ振り返った。
 シルバーのセダンが一台、駐車場に入ってきていた。私は腕で目の上あたりを覆って、ライトの光を遮った。工場の人だったら晴佳と一緒に廃材の影に隠れてやり過ごさねばと思って三嶋先輩に合図を送ろうとしたが、セダンのドアが開く方が早かった。車から降りるときには先にライトを消すものだという省エネ思想をしっかり植えつけられていた私は、ライトをつけっぱなしにして運転手が出てくるとは思わなくて、不覚にも一瞬隠れるタイミングを逃しそうになった。
 慌ててしゃがみこみ、人差し指を唇にあてるジェスチャーをすると、晴佳は必死でしゃっくりを飲み込みながら頷いた。そっと廃材から顔を出す。気付かれたかな、とセダンから出てきた一人の男の様子をうかがった。横顔がライトに照らし出される。少しだけ俯いたその人の、耳のあたりがちらりと見えた。私は息を呑んだ。
 ほとんど無意識のうちに、立ち上がっていた。
「沙織先輩」
 晴佳が慌てた様子で私のパーカーの袖を引っ張った。
 セダンの男が、こちらに気がついて、おずおずと右手を上げた。逆光になって、正面からの顔は真っ黒だった。
 右手を上げるときに小首をかしげる、その癖を私は知っていた。智代ちゃんがあんまりにも遠くに隠れてしまって、どうしても一人では見つけられず、途方に暮れてとぼとぼ坂を下っていると、どこからか私の目の前にひょっこり現れて、小首をかしげて、右手を振って。
 唇の端のほくろ、スッと通った鼻筋、鋭い顎の線、豊かな下向きの睫毛に縁取られた黒目がちの瞳。髪が四年前よりも少しだけ長い。
「兄さん」
 茫然とつぶやく。口の中はカラカラだった。
「沙織、ひさしぶり」
 銀ぶちの眼鏡の奥で、兄はニッと笑った。
 頭の中身が一気に煮えたぎった。自分の頬にサッと熱が溜まるのがわかる。
 私は廃材の影を飛び出し、雑草を蹴散らして猛然と走りだした。
 ほとんど体当たりみたいに、兄のよれよれのシャツに掴みかかる。
 今まで何をしていたんだ、とか、なんでこんなところにいるんだ、とか、言うべきことはたくさんあったはずなのに、何よりも先に叫んでいた。
「ヴィンはどうした!」
 私は右手でドンと兄の肩をぶん殴った。兄が困惑した表情でよろよろと後ろに下がる。
「ヴィン」
 兄ではなく三嶋先輩の声だった。振り返ると、駐車場の隅、怪訝そうな顔の三嶋先輩がペンライトをこちらに向けていた。晴佳が廃材の影からためらいがちに顔を出している。
 どうも三嶋先輩は聞き慣れない響きの言葉を思わず口に出してしまったらしい。私と目が合うとハッとした様子で口元を押さえた。それから小さく頭を下げ、ペンライトを持った手で「続きをどうぞ」とジェスチャーする。私は力が抜けて、笑ってしまった。
 つけっぱなしのセダンのライトが、殴りつけるみたいに私たちを照らしていた。夜風が吹きつけて、兄の髪の毛が顔の横に流れ、あの半分しかない右耳が剥き出しになった。駐車場の脇の雑木林が低くうなる。ふと目を上げたとき、羽虫の群れる街灯が息切れしていた。


 暗い道路を走りだす。合宿所がたちまち小さくなっていく。青いジャージの集団は玄関でしばらく車に手を振っていたが、やがてぞろぞろと合宿所に入って行った。私は首を前に戻して、フロントガラスを睨んだ。
「さっきの子に、沙織が工場の方に行ったって聞いて。ヴィン」
 隣でハンドルを握る兄が、おずおずと私に話しかける。
「千草ちゃん?」
「金髪の。ヴィン」
「さっちゃんか」
「わからないけど。ヴィン」
 兄は叔母の家で私が茅野に行ったことを聞き、それから合宿所で後輩に蜂蜜工場のことを聞いたらしい。叔母が動転して呼びよせた智代ちゃんも交えて、諏訪で既に家族会議を済ませてきたと言う。
「お父さん、よく一人であたしの迎えなんて行かせたね」
「もう帰るところだったから。ヴィン。僕以外酒入ってたし、沙織には一度、ヴィン、会っておきたかったし。ヴィン」
「帰るの? 泊まっていかないの?」
 私は思わずシートベルトを伸ばして身を乗り出した。兄はフロントガラスに目をやったまま、横顔で笑った。
「うん。帰るよ。あ、ヴィン。明日も仕事だからヴィン。休日出勤ヴィン」
「仕事してるの」
「ヴィン。じゃない、うん。今は浜松で。いろいろ、ここ四年の詳しいことも話してあるから、帰ったら聞いてヴィン。たぶん、まだ智代ちゃんもいると思うし。ヴィン」
 帰ったら聞けだなんて、四年も家出していた人間が言う台詞ではないが、そう言われてしまうと深く突っ込んではいけないような気がして、私は疑問の代わりにため息をついた。
 私のため息の意味に気がついたのか、兄はハンドルを握りながら、ざっくりっと話をした。家を出て何週間か後から、母に時々連絡を入れていたこと。まず札幌に行って、最初の一ヶ月くらいは引っ越し業者でのアルバイトで貯めた貯金を食いつぶしながら生活したこと。半年間北海道の大学に通う友達の家に転がり込んでいたこと。二十歳までは家から仕送りをもらっていたこと。二年くらい自動車の工場で働き、寮で暮らしたこと。その工場がつぶれてから、派遣の仕事を転々としたこと。四年間の兄の足取りは、確かに叔母の家までの距離では語り尽くせるものではなくて、私にも手紙を書いたという話のところで私は兄の言葉を遮った。
「読んでないよ、それ。ずっと失踪してるんだと思ってた」
「読ませなかったんじゃないかなヴィン。金の無心だったと思うし、沙織はテオじゃないんだって手紙が返って来たし。ヴィン」
「お父さんとお母さん、やっぱり怒ってた?」
「いや、思ったほどでは。それよりもめちゃくちゃ驚いてたヴィン。後半は酔っ払ってたヴィン」
「そりゃいきなり来るから」
「沙織が怒るだろうから自分たちは怒らなくてもいいんだってさヴィン」
「ヴィンヴィンうるさい」
「ごめん」
 兄は苦笑して、カーブに合わせてハンドルを切った。
 尋ねたいことは山ほどあるはずだった。怒鳴り散らしたいような、だけどともすれば泣き出したいような気持ちだった。心配だったことなんて一瞬だってなくて、兄の消息などどうでもいいとさえ思ってきたのに、いざこうして本人を前にすると、そうはいかなかった。胸の奥がぐらぐらしていた。「ヴィン」はいつやめたのか。魔法使いになるってどういう意味だったのか。なぜ、どうして。聞くべきことは、聞いていいことは。黙っていていいはずがないのに、何もかもがうまく言葉になっていかない。
 私はせかされるような思いで口を開いた。
「兄さん、なんで出て行ったの」
 兄はたいして気まずく思った様子もなく、口元に微笑を残したまま、「うーん」と首をひねった。
「今となっては、よくわからないな」
 それが本心だったのか、わからない。何か理由があったのかもしれないけど、一秒も心の底から兄を探さなかった私には、それ以上深く聞く権利がなかった。
 兄はゴッホになりたかったのだろうか。鳥人間になりたいと願って陸上部を去った三嶋先輩のように。でも私は兄のテオにはなれないし、兄は右耳の形以外におよそゴッホとの共通点といえるものを持っていなかった。絵も字もへたくそだし、というかゴッホは語尾にヴィンなんてつけなかっただろうし、兄がそれほどゴッホの絵画を愛していたとも思えない。きっと私が思っている以上に、兄には家を出ていかねばならないほどの痛みがあったのだろうけど、やはりすべてを汲めそうにはなかった。
「これからどうするの?」
 私は代わりに尋ねた。
「家に帰るかってこと?」
「まぁ、そういうことも含めて」
「追々考えるよ。まだわからない」
 たぶん、兄は戻ってはこないだろう。私は車窓の外を流れて行く雑木林の闇を見ながらそう直感した。これから先、ここではないどこかで、またいつか会うことがあったとしても、四年前に去った相手に対して、私はきっと兄弟みたには振舞えない。そういうふうに、兄を思ってやることができない。
 とてつもない時間が流れてしまったと思った。
 兄さん、なんで出て行ったの。さっき尋ねたことを、もう一度胸に思う。たとえそうでなくても、私と兄の関係はドン詰まりだった。私たちは家で必要最低限の会話しか交わさなかったし、兄は私のことなどそうたいした存在として考えてはいなかっただろうし、私だってそうだった。それなのに、兄を責め立てたいような気持ちが沸き上がる。探さなかったくせに、そんなことを思ってしまう。
 私は両手で顔を覆って、大きくため息をついた。そのとき、兄はふと思い出したような口調で私に言った。
「沙織、大学合格おめでとう。あと、卒業おめでとう」
 指の間からフロントガラスの先が見える。諏訪大橋が近かった。私は頬から両手を離さないまま、言った。
「そんなこと言うために、戻ってきたわけじゃないんでしょう」
 指先がつめたい。頬の体温がじんわりと伝わり、手の平がしびれるみたいに温まっていく。
「どういうこと?」
「智代ちゃんの赤ちゃん、見に来たんじゃないの?」
 兄は即座に「別に」と否定しようとしたらしかったが、言葉を切って押し黙った。私は構わず続けた。
「会えたの?」
 顔から手を離して兄の方を見やると、兄のハンドルを握る手の甲に、くっきりと筋が浮いていた。兄は小さく二度頷いた。
「私、知ってたよ。それでいなくなったんだって、思ってた」
 兄は答えなかった。
 諏訪大橋を渡り切って、夜闇に公会堂が小さく見え始めていた。道路の周りの景色が開けて、フロントガラスの外に一面の麦畑が広がった。暗くて畑の様子はよく見えない。車は景色の間を突っ切るように道路を進み、麦畑は車窓の外を瞬く間に疾走していく。公会堂の建物がどんどん大きくなって、叔母の家の前あたりで、兄はゆるゆるとスピードを落とした。
 一言お礼でも言えばいいのに、そんな気持ちにはなれなかった。私は黙って車を降り、兄も言葉を探しあぐねているようだった。
「じゃあ、また」
 シートベルトをいっぱいに引き伸ばして助手席の窓を開け、兄が言う。寄っていかないのか尋ねたら、軽く笑って首を横に振った。
「あ、ちょっと待って」
 私はハッとして、鞄を探った。またっていつだよ。そんなことを聞こうかとも思ったが、じゃあ浜松においで、なんて言われても、適当に頷くことしかできない気がした。私は腕を伸ばして、窓から兄に右手を突きだした。
「これ」
 兄は首をかしげながら、片手を私の右手の下に添えた。一瞬、その指先が私の小指あたりに触れ、すぐに離れて行く。
 兄の銀ぶちの眼鏡の奥は、もう見えなかった。たぶん、笑ったと思う。
「ありがとう」
 晴佳が喜ぶかと思ってこっそり買ったのに、こんなことになってしまったせいで渡しそびれていたものだったけど、兄にかけるべき言葉をひとつも思いつけない今、餞別として渡せそうなのはこれくらいだった。
「ドビーニー、まだ集めてるよ」
「キティちゃんだよ、バカ」
「ごめん」
 私に調子を合わせようとしたのか、なんだったのか、わからなかった。今も集めているというのも本当かどうか怪しい。だけどそんなことを問いただす暇もなく、兄は運転席に体を戻した。
 元気で、とか、またね、とか、いくらでも無難な言葉はあったと思う。しかし私はただ立ち尽くして、シルバーのセダンが諏訪大橋のほうへ走り去っていくのを見詰めていた。
 あの人が、ここに戻ってくることはもうないだろう。ふかくふかく、体の奥底からそう感じる。かつて、この諏訪の町で、数えるほどの年月だけ、私の兄だった人。


 テーブルを囲む父と母と、少しだけ会話を交わした。兄さんはもう帰ったよ、とか、そんなことを言った気がする。どんな内容だったか、よく覚えていない。どっと疲れが出て、空腹感をやっと感じた。私はふらふらと叔母の家の客間に向かった。智代ちゃんが「まだ寝てるよ」と注意するのに、私は振り向かずに頷いた。
 客間は豆電球がついていて、薄暗かった。私は畳の上に敷かれたサイズの小さい布団の傍らに膝をついた。ハート柄のタオルケットにくるまれて、赤ん坊がすやすやと寝息を立てていた。歯の生えていない口元を、小さくもごもごさせている。握りしめた赤ん坊の拳は私の小指ほどしかなかった。
 触れていないのにあたたかいと思った。兄はこの子を見て、どんな思いになったのだろう。一回くらいは名前を呼んだだろうか。それとも、こうして握り拳を振り上げて。
 私は憑依されたみたいに、固く握った右手を肩の上に掲げていた。勢いよく振りおろせば、どんなことになるか。そんなことまでは考えていなかった。
 弱いからなんだって言うの。蜂蜜工場で晴佳に向かって怒鳴った自分の言葉が蘇る。どれだけの責任が、私には残っていて、これからどれだけの責任を背に、私は生きて行くのだろうか。そんな途方もない道ゆきの先に、いったい何があるというのだろう。それだけのものを抱えて、私は私の卑怯さを、どこで許していけばいいのだろう。兄の痛みを、三嶋先輩や晴佳の痛みを、私はきっと、引き受けてはいけない。そういうふうに、心が動いていかない。であるならば、せめて、兄に報いたい。兄の代わりに、一度だけ、兄の気持ちをくんでやりたい。
 確からしい理由などほとんど意識になかった。わけもわからず、殺意のような衝動が、勢いよく私の全身を駆け巡る。私はぐっと拳に力を込めた。赤ん坊のまぶたを見詰める。
 みるみるうちに、私の右手から、すっと熱が引いていった。赤ん坊は、私の膝の先で、なんにも知らずに安らかに眠っている。私は振りあげていた拳を、膝の上に力なくおろした。そうして、そっと赤ん坊の頭に右手を添えた。
「ハッピバースデートゥユー」
 受験勉強を経ても、ちっとも上達しなかったへたくそな英語が漏れ出る。私は右手で柔らかい髪の毛を撫でながら、唇だけで小さく謳った。意識の表層を、静かな風が通り抜けて行く。
 私の兄だった人が、狂おしいほどに、ずっと愛していた人の子供。語尾同様に、その思いにもまたこだわり続けていたあの人が、この子の誕生を祝う気持ちになれるほどに、あの愛情を整理できていたのか、私にはわからない。だけど人の痛みを汲むというのは、その人の代わりになることとは違った。じゃあどういうことなのか、と聞かれたらうまく説明できる自信もないが、少なくとも、誰かの立場を正義面して奪い取ることではない。
「ハーピバース、デー、トゥー、ユー」
 三嶋先輩は空を飛べないだろう。晴佳の恋は叶わないだろう。私はあの人と再び兄弟にはなれないだろう。そしてそういう痛みを、私の心は引き受けてはいけないだろう。何者かになろうとしてそうはできなかった彼らを、背負ってはいけないだろう。
 それならば、そんな人として生きていくうえでの責任を、果たしていけないというのならば、せめて私は、誰かの幸福を心の底から祈らなければならなかった。そんな奴いっそ死んじまえ、とは言わないから、せめてそれだけは、果たしていかないといけなかった。
「ハーピ、バース、デー、ディーア、かーれんー」
 自分の口からあふれ出す歌についていこうとするように、私の心は目の前の彼女のこの先を、全身で祝おうとしていた。ふさわしい言葉などひとつも思いつかない。無心に、ひたすらに、神にすがるように、強く思っていた。
 未来がどうならいいのだろう。彼女がこの先学校に行って、仕事をして、家族をつくって、友達がいて。そういう具体的な想像が叶えばいいというのとはまた違って、何が、どうあれば、幸福なのか、そんなことはまったく見当がつかなかった。もう大雑把に、ただなるべく優しくありますように。能天気に眠っている彼女にそんな思いが届くわけもなかったけど、それでもいいと思っていた。
「ハーピ、バース、デー、トゥー、ユー」
 脆いような温もりが手の平から脳裏に伝わって、そこらは麦穂のにおいでいっぱいだった。金色の麦畑の景色が、冴え冴えと澄んだ空の色に浮き上がる。黄金の波、空の高いところを飛んでいる鳥の影、アスファルトを踏む足音、甘い風の香り。一度だけ見ていた、あの実りの季節。
 兄さん、どこかで幸せにしていますか。抜けるような空の匂いの中に風が消えていく。透き通った空気の遥か向こうに松林が望まれた。眼前の麦畑が凪ぎ、その穂が触れ合うかすかな音を聞く。たちこめる日の光の、かすむようなにおいの中に、麦穂が淡く溶けあっていった。














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