ふるえる(1)






 咲き初めの薔薇の花びらを浮かべたように、白皙の頬にさっと朱が差していた。セーラー服の紺色の襟元から、細い首が決然と伸びている。なめらかな輪郭線を縁取る漆黒の髪は立ち上がった拍子に肩を滑り落ち、その華奢な顎の描線を照らしたのは教室の窓辺から垂れる午後の日光だった。
 呼吸の一つさえも響き渡ってしまいそうに静まり返った教室で、仁美さんは繰り返す。これはどういうことですか。玲瓏たる声が、熟れた苺の実のような唇から放たれた。
 祐花は息を押し殺し、隣の席から仁美さんの鋭い横顔を見上げていた。誰もが仁美さんの毅然とした佇まいに釘付けになっていた。突然授業を遮ったのは仁美さんのほうなのに、唾を飲み込んだのは黒板の前に立つ英語の先生だった。どういうことって。太く逞しい腕を下ろせないまま、先生が聞き返す。仁美さんは、竹のように凛とした立ち姿を崩さずに、すっと腕を持ち上げて黒板を指差した。形のいい、薄い爪。祐花は仁美さんの意図とは関係のないことを思いながら、彼女の指先を眺めた。
 仁美さんが指し示したのは、リスニングのCDに登場した英文だった。
"She is going to labor."
 この不思議な一文を、先生が黒板に書いて説明を始めたその時、仁美さんは椅子をひっくり返して猛然と立ち上がり、そして言ったのだ。これはどういうことですか。今、仁美さんは先生を視線で射抜き、高貴な魂に貫かれた指で英文をまっすぐ糾弾しながら、さらに繰り返す。どういうことですか、ぼくは納得できません。
 聞いてなかったのかい。先生はさっきと同じ説明を口にした。乾いた喉に声が掠れ、叱責は弱弱しく教室の床を這った。
 燃え立つ目が一瞬揺れ、濃い睫毛の影が覆いかぶさった。弧を描いて、仁美さんの腕が下りた。折れそうな手首が、紺色のセーラー服の袖に収まった。仁美さんは椅子を元通り起こして、すとんと腰かけた。何事もなかったかのように、スカートのプリーツの上に両手を重ね置き、背筋を伸ばして顎を引いて、黒板を見据える。先生がおずおずと仁美さんに背を向け、説明の続きを始めた。この文章は、彼女は産気づいている、という意味の慣用的表現です。
 先生の説明の続きを、祐花はほとんど聞き取れなかった。頬杖をつき、隣の席にじっと座る仁美さんの、揺るぎない横顔をいつまでも見つめていた。神様のためにつくられた白磁の人形のように、恐ろしいような聖性に満ちた美貌だった。
 負けたの。徐々に戻り始めた教室の雑音に紛れてしまいそうな声で、祐花は尋ねた。だれに、とも、なにに、とも言わない言葉に、しかし仁美さんはゆるりと視線を寄越した。柔らかく沈んだ黒い瞳から零れ落ちる、淡い視線に、祐花はかすかな肯定の意を汲み取った。仁美さんは負けたのだ。祐花にはそのとき、硬質な頬の殻の下で歪んでいく仁美さんの唇が見えていた。涼やかな立ち振る舞いの、敗北した女神。
 何かすさまじい覚悟のようなものを、あの水晶の目に宿して立ち上がった仁美さんの姿が、祐花のまぶたの内側に焼きついていた。麻痺していた祐花の体がようやく動き出し、生まれたての熱い感覚が溢れてくる。胸を突き破って叫びになってしまいそうで、祐花は思わず自分の口をふさいだ。仁美さんの、世の果てに注がれるような深い目に吸い寄せられる。焦がれるような感覚が、祐花の心臓の鼓動に押し流され、血液の一部に溶け合って全身をめぐり始めた。それはもはや恋のような、強烈な憧れだった。


 黒板側の扉が開く。クラスメートが部活で出払った教室の机に、祐花はぼんやりと腰かけていた。扉に目を遣ると、入ってきたのは翔子だった。翔子は扉を後ろ手で閉めながら、祐花にニコリと微笑みかけた。あれ、祐花、白石くん待ってるの。うん、とはにかんで見えるような微笑みを返した祐花に、翔子は喉の奥で笑って言う。仲いいよね、白石くんと祐花、羨ましいな。翔子の白い太ももが、短いスカートから順に祐花の前へと歩み寄る。翔子、部活は。祐花が尋ねたら、翔子は祐花の隣に腰掛けながら答えた。今日はいいの、仁美とこのあと約束があるから。翔子は小首を傾げ、リスみたいな前歯を見せて無邪気な笑顔をいっそう輝かせた。逆三角形の小さな顔の、顎のラインですっきりと切りそろえられたブラウンの猫っ毛がふうわりと揺れ、教室を染める夕陽に溶ける。銀色の指輪をはめた左手で、翔子は髪の毛を耳に掛けた。
 翔子だって仁美さんと仲いいじゃない。仁美はあたしの彼氏じゃないもん。でも彼氏もいるでしょ。いるけど、仁美とは別だよ。別だよ、の部分で、突然翔子はチャーミングな笑顔を引っ込めた。翔子の珍しい表情に、祐花はそうと相槌を打ちながらまばたきを繰り返した。
 翔子は祐花の知る限り、仁美さんのことを唯一仁美と呼び捨てにするクラスメートだ。小柄で可憐な容姿と、無垢で素直な言動で、男女双方から支持を得て、みんなに翔子と気軽に呼ばれている。その翔子が、仁美さんを選んでいるのを、最初は祐花もどこか不自然に感じていた。太陽と月が、同じ空に隣り合っているようだった。翔子なら、他にいくらでも仲良くしてくれる愚かで優しい女の子たちがいそうなのに、しかしたぶん、綺麗な女の子は結構孤独なのだろう、と最近になって思う。そして今日の英語の授業で、祐花は思い知った。仁美さんは、そういう胸の隙間に直接囁きかけるような、おそろしい吸引力を持っている。
 十代の少女が本来持つべきではない、ぞっとするほどの色香を持つ彼女を、クラスメートたちは仁美さん、と正しく敬称をつけて呼んでいる。精巧なビスクドールのような現実離れした美しさ、言動ににじみ出る知性や品性、そういう神々しく整った容姿への畏怖や、線引きされた匂いに対する距離が、仁美さん、という明確な敬称に込められている。そして彼女の異質さを決定づけるのは、そんな敬称がつく彼女が、彼女自身を「ぼく」と呼んでいることだった。
 ぼくは納得できません。仁美さんの、寸分の躊躇も疑いもない、凛とした声音が耳朶に残っている。英語のときの仁美さん、すごかったね。祐花は話をずらした。翔子が再び唇の端に微笑を灯す。
"She is going to labor."
 翔子がゆっくりとあの英文を暗唱する。仁美ってちょっと変わってるけど、ああいうところ、かっこいいでしょう。自分のことのように自慢げな声音の翔子に、祐花はなんでもない顔で頷きながら、内心ではやや驚いていた。翔子は気がついていないのだ。恐らくあのとき仁美さんが全身で感じていたであろう、あの英文への違和感、それを敏感に察知した感性を「ちょっと変わっている」、そして仁美さんの表面に行動として表れる部分だけを見て、実はあのとき世界の伝統的なフロイト神話の前に成す術もなかった仁美さんを「かっこいい」と評している。翔子は気づいていない。祐花はもう一度強く考えた。あのとき、仁美さんの本当の姿を見ていたのは、教室でただ一人、わたしだけだったのだ。
 震えるような恍惚が背筋に走った。翔子以上に、わたしはきっと仁美さんを理解できる。近づける。その確信が、祐花の気を大きくした。翔子、僕も行きたい、一緒に連れて行って。翔子が二重まぶたの目を丸くした。
 僕、という人称が、唇に融け合って体に馴染んだ。ぞくりとした。不可侵領域だと思い込んでいた場所に一歩足を踏み入れた途端、祐花の身体に神の一部が流れ込んでくる。僕、と祐花は声に出さずに唇の上で繰り返す。舐める。噛みしめる。飲み込む。「祐花」でも「わたし」でもない、「僕」という響きだけが、自分そのものをぴったり指し示す音にふさわしいものであるような気がした。黒板の英文を指差していた、あの薄く輝かしい爪を思い出す。その爪の軌跡をそっくりなぞるように、音はまっすぐ、祐花自身に届いた。


 いる、と小さく尋ねながら、仁美さんが手の平を差し出す。最近ぼく、この味が好きなんだ。ふぅん、何の味。梅。僕、梅干し苦手なんだけど。だいじょうぶ、甘酸っぱいよ。仁美さんは、くらくらとめまいを引き起こしそうなほど麗しく微笑んで言う。
 陶器のような白くうつくしい手に、赤い飴玉の包み紙が乗っていた。祐花はありがとうと受け取り、口に放りこんだ。舌の上にぬくもりのような甘みと、さわやかな酸味が広がった。仁美さんはスカートのポケットからもうひとつ包み紙を取りだし、端を破いて飴玉を指先でつまむ。祐花は一瞬飴玉を転がす舌を凍らせた。仁美さんの指先に引きつけられた。薄紅梅が、伸びやかな指の影をほのかに透かす。表面にうっすらと残る白い筋、採掘されたばかりの宝石のような鈍くしとやかな小さい反射、溢れ出す蜜の濃厚な匂いまでが香ってくる錯覚さえ呼び起こす、ぎゅっと凝縮された果実が、仁美さんの瑞々しい唇にそっと運ばれる。
 口の中で溶けていく、おとぎ話の味覚の唾液を、祐花は初めて洗礼を受ける者が固いパンくずや風味の薄いワインにそうするように、舌先で上あごに塗りつけて隅々まで味わい、慎重に喉におろした。鼻腔につんと人工的な梅の匂いが抜けて、ほのかな酸が舌根に残る。
 仁美さんのスカートのポケットからはこうして時々チョコレートや飴玉が出てきて、祐花がわけてもらうのはこれが初めてではない。それなのに、何度も見てきたこの光景に、祐花は未だに陶酔してしまう。人がものを喰う、という所作が、こんなにも危険で優雅であるというのは、いったいどうしたことなのだろう。祐花にはただの砂糖菓子だったものが、仁美さんの指に触れた途端、王妃の冠に輝く至高の宝石のように、にわかに高潔な輝きを放つ。
 翔子。仁美さんが不意に呟いた。カラ、と仁美さんの口から、飴玉が歯に当たる硬い音がした。祐花は仁美さんに倣って教室の窓ガラスから校門を見下ろした。日が徐々に短くなってきていて、西日が教室に垂れこんでいる。その弱弱しい太陽の余香に照らされた校門を、ちょうど翔子が出ていくところだった。
 部活、ないのかな、翔子。デートだよ、水曜日は彼氏が駅まで迎えに来るから。ふぅん、やさしいね。やさしくて、だめなやつなんだよ。仁美さんの声音にはなんだかやるせないような、切ない実感みたいなものがこもっていて、どうして、と聞こうとした口を閉じた。祐花は窓枠の淵に頬杖をついて、携帯電話に目を落としながら駅に向かっていく翔子の背中を眺めた。だれもかれもね。ともすれば聞き落してしまいそうな、独り言みたいな声で、仁美さんは付け足した。仁美さんがどんな思いで、翔子が曲がった角を見続けているのか、本当は見当もつかなかったのだけれど、祐花はうなずいた。わかる、僕もそう思うよ。理解できるか否かではなくて、ただそう言わないといけないような気がしていた。なにが、とは聞き返さずに、仁美さんは目を伏せたまま、ゆるやかにうなずいた。行き詰まり、という言葉が浮かぶ。目指すべき場所を見失ってしまった視線が、翔子が消えていった角を離れ、漂った。仁美さんの目は、膜が張ったように虚ろで、どうしてか、祐花にはそれがたまらなく魅力的だった。


 英語の授業はいつもはじめに小テストがある。前回の授業内容の復習と、今回の授業で取り扱う新出単語や熟語が主な試験範囲で、やはりとは思ったが、あの文章が出題された。
 (4) She is going to labor.
 次の英文の日本語訳を答えなさい。祐花はちらりと隣の席に視線を遣ったが、仁美さんは黙々とプリントにシャープペンを走らせていて、四番の問題に反応する様子はなかった。「彼女は産気づいている」。祐花は几帳面に、正しく回答した。
 あれ、出たね、テスト。毛先の束を指で挟んで枝毛をチェックしていた翔子が、ふと思い出したように言った。蝶の絵柄がついた小ぶりな弁当箱の蓋に、枝毛の切れ端がぱらぱらと落ちている。翔子は唐突に体を乗り出して祐花の弁当箱を覗きこみ、ブロッコリーってつぼみなんだよ、とニコニコして言った。
 翔子と仁美さんは、昼休みになると秘密の場所にお弁当を食べに行く。祐花も翔子に連れられて、最近はふたりに混じって昼休みを過ごすが、秘密の場所とはすなわち体育館の舞台袖の、小さなロフトスペースで、採光の悪さや演劇部の暗幕が隠れ家らしさを演出してはくれるものの、三人で座り込むとかなり狭い。しかし教室の何倍も、ここは居心地がよかった。ここでは心置きなく「僕」でいられた。誰にとってもわかりやすく、前向きで単純な光よりも、人の目から自分を奪い去る暗闇に心を寄せた。集団の中一人でいることを恥であるかのように感じながらも、どうしてか、心のどこかで祐花は孤独を求めていた。それは自由というものであったかもしれないし、もっと幼稚で不格好な、見栄のようなものだったのかもしれない。少なくともここには、祐花の湿った欲求を満たしてくれる空気が満ちていた。翔子も仁美さんも、この埃っぽい空気を愛していて、三人は父親の帰りを待つ幼い姉妹のように身を寄せ合い、昼休みに体育館に集まってくる男の子たちの汗臭い怒号と歓声、バスケットボールが跳ねる音になんとなく耳を任せ、ぽつりぽつりと話をした。
 ぼく、あの答え、書いたよ。仁美さんがきっぱりと言う。そりゃわかるもんね、仁美は。翔子の笑いを含んだ声に、祐花はひやっとした。本当に、わからないのだ、この人には。あの英文へのとてつもない違和感や、それに無謀にも抗う意義など何の関係もないところで、何の関係もない孤独を抱えながら、翔子はのびのびと生きている。
 あの英文の日本語訳を、英語の先生の口から聞いたとき、祐花も確かに愕然としたのだった。そぐわしい言葉で表現できずに、しかしただ漠然と、女でも母でもないわたしはどうやってこんな世界で生きていけばいいのだろうと、全身で考えた。
 たぶん生きていくことそれ自体はそんなに難しいことじゃなくて、人生には常に巨大な流れのようなものがあり、それに流されていさえすれば、とても楽に決めていけるのだ。決断という言葉が似合わないほど、断ち切るものも、選び取るものもないままに。
 選び取る。不意に、白石くんのことを思い出した。僕、という祐花の新しい一人称を、彼は珍しくとても嫌がって反対した。翔子以上にわかってもらえなかったのは彼が悪いのではなくて、たぶん生まれたときからそう決まっていたことなのだと思う。
 翔子が枝毛チェックを中断して、赤い水筒から一口お茶を飲む。水筒の口を開く音や、翔子の細い喉を液体が滑り降りる音、そうした耳障りな生活音の累積が、仁美さんの輝きを一層確固たるものにしていく。白石くんの望む通りの女の子に、なれるのだろうか、なりたいのだろうか。
 ふと眼を上げた先で、仁美さんの視線にぶつかった。不意に飛び込んできたその恐ろしく澄んだ目に、さっと胸の内を撫でられたような気がした。艶やかな黒髪を、仁美さんは象牙細工のような指で耳に掛ける。ぼくにはわからないけど、答えたんだよ。その言葉が、翔子のさっきの冗談に対する応答であることに気付くのにしばらくかかった。祐花は弁当箱を布の袋にしまい、切ったばかりの髪の毛を耳に掛けた。





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