フラミンゴ






 杉さんは梨のにおいのする人だった。外国の凝った名前の香水でもつけていたのだろうか。何の香りをうたっているのか知らないけど、私には秋口の熟れた梨を思わせた。包丁の刃を入れたときに飛び散る果物のにおいだ。杉さんが服を取り去ると梨の香りは強くなった。のどの奥にむきたての梨の味を想像した。唾液が果汁を含んだように柔らかくなった。
「ゆりは髪の毛の先っぽがきれい」
 私たちと、居眠りの老人しか乗っていない空いた電車で杉さんは言った。先頭の車両で、緑の景色が運転席の窓越しに見えた。電車は郊外から都心へと向かっていた。差し込む太陽がときおり目にかかった。まぶたがあたたかく、眠気が訪れそうだった。車掌が告げる次の駅名は、マイクの音がくぐもってよく聞こえなかった。
「ひどい」
 むくれてそう言った。髪のさきっぽしか褒めるところがないのだろうかと思った。
「髪のさきっぽがきちんときれいな女の人ってそんなにいないよ。ゆりは髪が長いのに先まできれいだ」
 杉さんは悪びれるふうもなく言った。確かに髪をのばしていると、毛先は枝毛や切れ毛が目立つし、そうでなくても水分が抜けて手触りが悪い。私はそれが嫌で、こまめに美容室に行って毛先を切りそろえてもらっていた。
「そんなところまでよく見てるね」
「なんでも見てるよ」
 杉さんは、膝の上の手を五センチほど宙に浮かせた。髪をさわられるのかと思い、杉さんの肩と並んだ右肩が頼りなく揺れた。杉さんのほうによりかかろうと思ったけど、わざとらしくて引き戻した。だから左右に少しずつ揺れた。電車の振動と区別がつかないくらいの揺れだった。杉さんの手はあいている座席の布を何度か撫でた。


 ウエイトレスが注文した料理を運んできた。まず私の頼んだエビとホウレン草のリゾットが運ばれきて、一分ほどの間をあけて同じウエイトレスが杉さんの分を運んできた。彼のは、サーモンとアスパラがどっさり入ったパスタで、頂上に輪切りのレモンが添えられている。
 一分間、私と杉さんは黙っていた。一度杉さんが「お先にどうぞ」という仕草をしたけど、私はフォークを手にとって再びテーブルクロスの上に着地させた。杉さんと再会するという強烈な偶然を前に、食欲はまるで今まで経験したことのないもののように私から離れていた。
 今朝方ホテルのロビーで声をかけられた。彼の顔を見て、私の視界は淡々と溶けてしまいそうになった。頬が蒸されたように熱くなり、その分手の先が冷やした豆腐のように冷たくなった。私がやっとできたのは、右手と左手を合わせて自分の体温を確認することだけだった。爪は薄く張った氷のようになっていると思ったのに、触れてみるとあたたかだった。
「二年ぶり、かな」
 うん、二年ぶり。
「ゆりがこのホテルに泊まってること、昨日の夜から気付いていた。後ろ姿を見てもしかしてと思った。今日の朝、食堂の窓際の席で食べてたでしょ」
 そう、食べていた。窓際はうすいカーテンごしの朝日が気持ちよかったのだ。
「朝食のクロックムッシュおいしいんだよね」
「そうだね」
 私はやっと答えた。それから久しぶりとか、びっくりしたとか、二人の間にあたりさわりのない言葉が投げ込まれた。全部杉さんが言った。私は久しぶり、びっくりした、と杉さんにならって彼の言ったままを繰り返した。人の行きかうロビーで少し世間話をし、話しているうちに二人とも午後の時間が暇であることがわかった。私のほうはなんとなく決めていた予定はあったのだけど、一人で町中を歩いてみようと思っていただけで、たいした計画があるわけではなかった。久しぶりに訪れた十代の途中を過ごした町を、少し見てみたかった。東京育ちの私は父親の転勤のため、高校の三年間だけこの町で暮らした。私はあの頃、東京と言葉も違えば人の感じも違うこの町に反抗的で、町は三年住んでもよその土地のままだった。
「お昼、一緒に食べる?」
 杉さんはまるで一週間かあるいは一ヶ月ぶりであるかのように、いとも簡単に私を誘った。いや、簡単ではなかったかもしれないと、杉さんと別れてから思った。彼は難しいことをこなすときほど、涼やかで身が軽そうに見える人だった。その分あとで、急速にしぼむ午後の朝顔のように疲れ切ってしまう。
「うん」
 すべり落ちるように声が出た。迷うことも断ることもできたのに、食いつくように答えていた。偶然会って世間話をするのと、食事の約束をするのとでは意味合いも空気も、振動する感情の領域も全然違う。杉さんと食事に行くなんて、考えられないくらい不自然だとちゃんとわかっていた。
「じゃあ正午にロビーで。この近くにおいしいイタリアンがあるらしいんだ」
 杉さんは言い置いて去って行った。夏物のジャケットが今にも風にはためき出しそうな歩き方だった。炭酸を飲んでのどの奥がいっぱいになるように空気が苦しくなった。気分を変えるために恋人の横顔を思い出そうとした。真っ向から見るより、横から見る彼の顔が好きだった。しかし杉さんの印象が強くてうまくいかなかった。 
 恋人に悪い、という感じではなかった。私に「うん」と言わせた杉さんへの気持ちは、彼への裏切りとは違うのだ。表面をなでてみた質感も、指を食い込ませて奥の方までつっこんでみた心地も違う。恋人と最後に会ったのは前の日曜で、大雨が降っていたから、どこにも出かけず私の家で素麺をゆでた。麺つゆにネギを浮かべて素麺を食べている間、強い雨の音がずっとしていた。降り止む気配も弱まる素振りもない、完璧な雨降りだった。
「お昼、どうしましょう」
「この先のそば屋さん、なかなかおいしいですよ」
 もう五年前、最初に杉さんと二人で食べたお昼はお蕎麦だった。杉さんは月見で、私はざるだった。私は蕎麦屋に入るとだいたいざるを頼むざる好きなのだけど、そのときは杉さんの月見が強烈においしそうに見えた。卵には豊満な張りと弾性があった。つぶされても杉さんの箸の力に屈したというつぶれ方はせずに、卵のほうからすすんで蕎麦の間に泳ぎ出て行ったという感じがした。あたたかな黄色がきもちよさそうに広がった。
 それからも二人でご飯を食べるときはよく蕎麦屋に行った。二人とも予約して行くようなおしゃれなレストランは肌に合わなかった。杉さんは冬でも夏でも変わらず月見だった。私は杉さんの月見にひかれつつも終始ざる専門だった。
「お蕎麦に卵のっけて月見っていうのも、ロマンチックていうか大胆っていうか。平凡なのか非凡なのかわからないセンスだよね」
「おぼろ月夜」
 杉さんはそう言って卵を箸でつぶした。濁ったような透明のような黄色が薄くのびていった。
「早く食べなきゃ冷めちゃうよ。お腹すかない?」  私は地平線の向こう、地球の裏側くらいにある食欲をずるずると引き寄せてフォークをつかんだ。
「仕事で明日まであのホテルに泊まるんだ。ゆりは?」
 杉さんはサーモンの鮮やかなパスタをフォークに絡ませながら、私に聞いた。彼はてきぱきと話した。銀行窓口の受付の人みたいだと思った。余裕があるのか、それとも何かを埋めるために言葉を切ることができないのか。私は彼の半分くらいのテンポでしか、まだ杉さんについていけなかった。杉さんと同じ空気をこの肺で吸い、光を目に感じることでせいいっぱいだった。
「高校の同窓会があったの。会は昨日終わったんだけど、もう一泊して町を歩いてみようかと思って。高校の隣の動物園も、どうなってるか見てみたいし」
「毎日フラミンゴのにおいをかいで登校してたっていう」
「そうそう。くさかったなあ」
 フラミンゴ。そんな話をしたのかも忘れていたのに、杉さんは覚えていた。通っていた高校の隣に動物園があったのだ。園を入ってすぐのところに柵で囲まれた池があって、フラミンゴたちのきついにおいは外の道路まで漂っていた。学校の行き帰りにその独特なにおいをかいだ。風向きなのか、においの濃い日とあまり気にならない日があった。動物園に入ってフラミンゴを目にしながら彼らのにおいをかぐのは何か腑に落ちるところがあるのだけど、外を歩きながらただにおいだけをかぐのは釈然としなかった。毎日毎日臭いにおいだけかがされて実物が見えないなんて、別にフラミンゴが見たいわけではないけど納得がいかない。実際に私がフラミンゴの姿を見たのは、家族と動物園に行った一回と、学校帰りに友達と寄り道した一回だけだった。
「パンダがいるんだったよね」
「うん。上野ばっかり話題になるけど、二匹もいるの。でもまだ生きてるのかな。さすがに死んだら全国ニュースになりそうなものだけどね」
 フラミンゴの燃え上がるようなオレンジや、パンダの白黒を思い出すうちに、なんでもないように杉さんと話していた。何でもないように話すと、本当に何でもないようだった。二年という時間の厚みも、二年前という昔への距離も、たいしたことのないように思えてくる。そういうのって意外とあっけないものなんだと思った。あっけない。私は半ば呆れながら驚いてしまう。髪のさきを褒められた日、杉さんとは新宿駅で別れた。駅構内の喫茶店で二人してチーズケーキを食べた。
「あわただしくてごめん、少しでも会いたかったから」
 別れ際に杉さんは言った。彼は小田急線の改札まで私を送った。杉さんが立ち去って行くところを、改札の内から見届けていた。杉さんの背中に、たくさんの人の行き来が重なって見えなくなった。改札を切符が通る音、無数の靴音、ホームから届く発射音が塊になって押し寄せてきた。うるさい都心の改札で人と別れるときはいつもそうだった。相手がいなくなって一人になると、まわりの音が大きくなる。人といるときは会話したり人混みではぐれないように注意したり歩幅を合わせるように気をつけたりするのに手いっぱいで、雑多な音の半分くらいは消えている。杉さんと別れたあと、耳に入ってくる音は質量を持ち、縁取りがはっきりとしていた。マイクを通した係員の声が、頭頂から足先を往復するように響いた。
 改札の後ろ姿を最後に杉さんから連絡がくることはなくなった。私たちの会う約束も声が聞きたい電話もいつも杉さんからだった。彼の方が日々の時間は忙しかったし杉さんには奥さんがいたからだ。半月、ひと月、杉さんの声を聞かなかった。その時間が長くなるにつれ、彼は電話もメールも、ましてや直接訪ねてくる気もないということを私は確信していった。そのときほど杉さんのことがよくわかったことはなかった。あのとき私は杉さんの心の一部になったように、彼をわかっていた。杉さんは私にもう会わない。自分に無理に納得させるためでもなく、そのことがわかった。あまりにもわかっていたので、こちらから連絡してみようという気は起きなかった。 
 最後に会ったときのことを舐めとるように回想して、杉さんは私のことを嫌いになったのではないと思った。それでなくても消えてしまったんだから、きっととりつく島もないことなのだと思った。
「奥さんと別れて、新しい女の人と結婚したらしいのよ」
 杉さんと私の共通の知り合いと飲んでいるときに、彼のいなくなった事情を知った。友人は私と杉さんの仲を知らなかった。私はスポーツドリンクを飲むように力強くハイボールをのどにしみこませながら、何度もうなずいてみた。
 その翌日から精力的に毎日を過ごしはじめた。これは変わったことだった。今まで誰かに振られてもそうはいかなかった。気持ちは嵐のなかの古い納屋のように頼りなく、消しゴムの角がかけたことや、目の前を去っていく電車がうるさく速いことや、パックジュースの最後が底までストローをつっこんでもうまく飲めないことに、ひとつひとつ痛めつけられていた。私は薄いガラスのように何度も割れ、絹の豆腐みたいにぐちゃぐちゃに崩れた。でもそんな風にしてひと月ほどを過ごすと落ち込み疲れるのか、つまらないくらい単純に立ち直り始める。
 杉さんが私の知っている奥さんと別れて、私の知らない女の人を奥さんにしたと聞いたあとは、不思議なことにとても元気に過ごした。好きな人が消えてしまって、かえって生活や気持にこだわりがなくなり自由になった気さえした。休日を有効に使おうと市民センターの格安料理教室に通いはじめ、金曜の夜はそのまま家に帰るのがもったいなくて大学時代の友達と飲み歩いた。
「自分でもびっくりするくらい元気なんだよ」
「うそ、いつもお芝居みたいに落ち込んでたじゃん」
 久しぶりに東京に出ていた姉は私の家に泊まって、一晩で五本のビール缶をあけた。
「ビールばっかでよく飽きないね」
「だって全部種類が違うもん」
 姉はつまみのピスタチオとビールを交互に口に運びながら、私の杉さん話を聞いていた。
「奥さんよりずっと私のことを好きなんだと思ってた。だって、奥さんに隠れて私に会ってるんだから」
「だがしかし、第三の女がいたのね」
 姉はピスタチオの皮を剥いて、ティッシュの上に積み重ねていった。彼女の皮むきは飲み始めからだんだん上達していた。爪を軽くくいこませると、力を失ったようにぱらりと皮がとれる。
「私、なんのためにいたのか一番よくわからない人じゃん。奥さんは、かつて杉さんが結婚したいほど好きになった人でしょ。第三の女は、杉さんが奥さんと別れてまで一緒になりたかった人でしょ。ていうか、それなら第三の女は私なのか」
「うん、ゆりちゃんが三番手」
 姉は口にピスタチオを放り込みながら言い放った。いつもの物言いなので、別に気分を害したりはしない。むしろさわやかなくらいのものだった。
「病気だと思えばいいのよ。結婚してるのに浮気して、おまけに浮気相手が二人いる男なんて病気。不治の病。あ、ひょっとして、他にもいるかもしれないわよ。うら若き将来あるゆりにはあまりにも価値ないわよ。ゴミ。神様が采配をふるってくれたのね、ゆりちゃんによき将来がひらけますようにって」
「そうかなあ」
「そうなのよ。ほら、こっちのスルメ噛みしめなさいよ」
 いつもなら、姉のそういう言葉にかじりつくように賛同しただろう。でもそのときは、うまく剥けないピスタチオを片手にもてあそびながら、どうでもいいような返事をしただけだった。振られた女っぽくないな、と思った。それで、新しい奥さは髪のさきっぽがきれいな人なのかな、と考えた。髪の先っぽ以外にも、もっときれいなところがある人なのかもしれない。杉さんは「髪のさきっぽがきれい」ではなく、「髪の先っぽまできれい」と彼女を褒めたかもしれない私は姉のビールを横取りしながらできるだけ悶々と当て所ない仮定を繰り返した。薄墨色の、思っても仕方のない仮定。そういうことを考えるのは、いかにも振られた女っぽくてさまになっている気がした。
 そんな日々を送っていたのに、あるとき、歯医者の待ち合い席で熱帯魚の泳ぐ水槽を見ながら、杉さんがいなくなっているということに気付いた。会わなくなってから、半年くらい経った頃だった。私は相変わらず料理教室に通っていた。当初は目玉焼きの、黄身のかたさも思うようにならない腕前だったのに、その頃には雲のような口当たりのオムレツが作れるようになっていた。杉さんがいなくなった。そんなの気付くもなにも当たり前の事実じゃないか。もちろん自分にそう言ってみた。心のなかで。しかしやっぱり気付いたという表現があまりにもぴったりだった。右の奥歯が痛かった。水槽に酸素を送り込むポンプの音や、きりなく吐き出される泡の動きが神経にさわった。泡は水面に到達するまでに、際限なく形を変えた。濃い絵の具を塗り混んだような色の熱帯魚がいやらしく泳いだ。  
 赤い魚と青い魚がいた。内臓までが、ああいう取り返しのつかない色をしているんじゃないかと思った。嫌なのだけど目がはなぜず、瞼を閉じると突然杉さんの顔が浮かんだ。自然に、過去がよみがえる感じとは違った。これは記憶ではないと思った。杉さんの姿が、そのとき全く新しく現れたのだった。アルバムの写真ではなく、シャッターを押される瞬間の被写体みたいに、印刷された本の一文ではなく、インクで書かれているそのときの文章みたいに。あ。声が出た。待合室の患者は私だけだった。受け付けも遠かったので、誰にも聞かれなかった。佐々木さまはいらっしゃいますか。待ち合い室に流れるかすかなBGMを、朦朧としそうになるまで聞き続けて、やっと名前を呼ばれた。水槽から離れられると思った。診察台に横たえられて銀色の器具を口に突っ込まれた。唇にあたると氷のように冷たかった。
「あっ、ごめんなさい、痛かったですね」
 知らず知らず顔をしかめてでもいたのか、院長が甲高い声を出した。すっきりとした輪郭が半分マスクで隠れていた。
「いえ、大丈夫」
 そう答えたつもりだった。しかし口に器具をつっこまれていたので、院長の耳に届いたかはわからない。返事をしてから、目のふちが涙で湿っていることに気付いた。何も杉さんのことで涙が出たのではなかった。じゃあやっぱり痛かったんだと、新しい発見のように思っておかしかった。
 その日から私は穴を持つようになった。穴は私が気付く前から存在していた。そして間違いなく杉さんが作り出した穴であると、日ごとにはっきりわかっていった。二人で蕎麦を食べたり散歩したり、体を合わせたり、笑ったりしているうちに、杉さんは私の奥の、ずっと奥まで食い込んでいたのだった。それは、痛いような気持いいようなことだった。杉さんがいなくなってから残った穴ぼこは、彼が食い込んでいた分だけ深かった。料理教室に通いはじめた頃はそんなものの存在を知らなかったのに、空洞は気付いたときには、真っ黒な谷底のようにきりがなかった。そこには無自覚だった半年分の、層になったほこりや傷跡があった。得体の知れない力が働いて体の浮くような、皮膚の下の血液や内臓やらが全部からっぽになって、自分から重さというものがなくなってしまうような、気持の悪さがあった。次の恋人ができてもその次の恋人ができても、穴はふさがらなかった。恋人たちは穴はふさがずに、穴があるのとは別の場所に余分な安堵や楽しみをつけくわえていくだけだった。


「ゆりは、僕のところからいなくなってしまう気だね」
 杉さんと初めて旅行に行った夜だ。旅館の多すぎる夕飯を食べ終えた私たちは、満腹をまぎらわすようにぼんやりとテレビを見ていた。私は宿の人に敷いてもらった布団に腹ばいになり、杉さんは窓辺の籐椅子に伸びていた。浴衣に紺色の羽織を着た彼は、昔の文士のようだった。何日分もの宿代をため込んで長逗留して、そのわりに芸者ばかり呼んで原稿など書かない不埒な感じ。
「なあに、藪から棒に」
「ゆりちゃんは若いし僕には奥さんがいるし、そのうちいなくなってしまうよね」
「いなくならないよ」
 余計なことを言いたくなくて、簡潔に答えた。連ねたいことは山ほどあった。いなくなるような気持で、最初からあなたと付き合ったりはしない、奥さんの存在は私の気持ちには関係ない。でも言わなかった。奥さんという語を出さないこと、二人の未来について語らないことが、私たちの関係の足場となる決まりごとだった。どちらかが提案して互いに了承したものではない。しかしそれは、二人の間の堅い約束のはずだった。
「いなくなる」
 藤椅子の杉さんはちょっとしつこかった。
「いなくならない」
 私はかたくなに答えた。怒り出しそうな声だと自分でも思った。テレビの音が次々と流れた。テレビは徹底的に明るく、やかましく、虫のように湧いて出るテロップは過剰だった。
「僕は怖いよ。ゆりと離れるのが」
 外が暗くて鏡になっている窓に顔を向けながら杉さんが言った。私は何も言わず、沈黙をテレビにまかせた。その夜私たちはしこたまお酒を飲んだ。そして案の定、翌日ひどい二日酔いになった。自分の歩く振動にも吐きそうになるありさまで、前の晩の会話はうすく朝の日差しのなかにのびていった。お昼過ぎになんとか動けるくらいの元気を取り戻して、近くの庭園や神社を散歩した。どこもかしこも晩夏の緑が焼けつくように目に映った。
「今度のクリスマスは何が欲しい?」
 ベンチに並んで甘酒を飲んでいたら、尋ねられた。
「サボテン」
 予期していた質問ではなかったのに、すぐにサボテンと言った。自分でもそんなものが欲しいとは知らなくて、ちょっとびっくりした。
「サボテンが欲しいの?クリスマスに?」
「何かを育ててみたいと思ったの。あんまり動かなくて、黙ってるようなやつ」
 適当なことを言った。
「ふうん」
 杉さんは頭を揺らしながら甘酒の紙コップに口をつけた。甘酒ってやっぱり甘いね、とつぶやくジーパンの彼はもうどこをとっても文士には見えなかった。杉さんがクリスマスのことを言ったのは、昨晩の話は忘れようと、なかったことにしようと、たぶんそういう意味だった。直近の未来を語ることは、遠い行き先を思うのと違って私たちを柔らかな砂地にうずめてくれる。心地よい砂地はどこまでも続く。砂漠のようだけど、そこには乾きもなく、歩き去った行商のラクダの淋しげな足跡もない。立っている場所を忘れるような永遠の光景が、変化なく広がる。
 二日酔いは半日経ってよくなっていたけど、生理前だったせいか帰りの新幹線で体がひどくだるくなった。車内販売の売り子の声を聞くのも苦しく、隣の杉さんと一生懸命手をつないだ。ほどいてしまえば、異国の人ごみか、もっとすると未踏の樹海ではぐれてしまうような強い緊迫感があった。吐く息が形をとって、そこらの空気とぶつかりあった。その振動が体にこたえた。手をしっかり握っても、握り返されても、足りなかった。
 指先はあたたまるというよりどんどん冷えていった。力を入れると、その分杉さんの手も強くなった。冷たかった。しかし氷ついてでも手を離すまいと思っていた。杉さんを好きだと思った。夕日が差し込んではトンネルで途切れ、暗闇を出るとまた差し込んだ。新幹線は風も光も目茶目茶に切り裂きながら走った。淋しさや、あいまいな悲しさなんか根こそぎ吹き飛んでしまうくらいの速さだった。


 食事を終えて、私たちは店の前の通りを並んで歩いた。杉さんは黙っていた。私は何かを話しかけることができなかった。この町のことだとか、食事のおいしかったことだとか、あたりさわりのない会話の種はいくつも浮かんだのだけど、声が出なかった。ホテルからはどんどん遠くなった。信号をいくつか待って、校庭の広い小学校のフェンスを通り過ぎ、古びた電気屋さんの前で猫を見つけた。近くを通っても逃げない人慣れた猫だった。杉さんも気付いていたけど、やっぱり何も言わなかった。レストランではずいぶん話したのに、今は再会した瞬間の空気の固さがもどっていた。
「もう一度一緒にいないか」
 突然だった。立ち止まりそうになった。しかし彼が歩き続けるので遅れず並んだ。続きがあるのかと待ったけど、杉さんは歩くことだけに集中していた。黙っている人の横顔を見続けているのも妙なので、私も正面を向いて歩き続けた。ゆるみない夏の光は目の奥まで眩しく、風は肌をむきだしの粘膜のように敏感にした。暑さに蒸された街路樹の香りや、排ガスが強くにおった。
「うん」
 杉さんの言葉はあまりに少なかったのに、大した時間もおかず返事をした。言い訳も説明も求めなかった。求めることは山のようにある気がしたのに、そのひとつさえ杉さんに投げかけることはできなかった。返事を迷うこともできなかった。食事に誘われたときと同じだった。杉さんに引きずりこまれていくみたい、と思った。もう、ここ以外のどこにもいられなくなってる。ここ。ここって、一体どこなんだろうか。自分が、ある場所から動けなくなっていることはわかるのだけど、それがどんな場所なのかわからない。会えない夜にも、杉さんと地続きの空間を共有しているというあの感覚のある場所、それとも、杉さんがいなくなってしまう不安で充満した場所。そういう気持ちがまぜこぜになって、嬉しい、悲しい、淋しい、どの分量が多いのかも、それぞれの境界線もわからなくなっている場所。
「動物園に行ってみようよ」
 ふいに、杉さんが立ち止った。ちょうど目の前の青信号が赤に変わった。
「フラミンゴ、臭いよ」
 笑いながら返事をした。フラミンゴ、と言ったとき、食事中にとけきらなかった最後のものがあっけなく消えたのがわかった。自分でも、その急速な変化にめまいがした。あっけないことばかりだと思った。私は一体何なのだろう。杉さんとよりを戻しても、かつて彼がつくった穴ぼこがふさがらないのは知っていた。そんなに簡単にはいかない。穴ぼこは、彼が抜けてから日々形を変えていっているのだから。もう杉さんでも、他の何かでも足りない。なのに杉さんじゃなきゃと思ってしまう。
「フラミンゴって、変な名前」
「うん、変な名前」
 私たちは早足で動物園へと歩いた。大通りに出て、それから十分ほど歩くと着くだろう。フラミンゴの鮮やかな羽の色が恋しかった。二人は儀式のように黙々と歩いた。大通りは高校のときの通学路だった。歩きながら、私は忘れていたことを思い出した。


「ゆりちゃん、このケーキの人形食べてよ」
 杉さんの誕生日に彼を部屋に呼んだ。ホールケーキにろうそくを立てるあの行事をやろうと、二人盛り上がった。食べきれなくてもいいからと、大きなケーキを箱につめてもらって家に帰った。念のため、今日は帰らなくていいのと聞いたけれど、杉さんは自分の家などないようにケーキの話ばかりしていた。私はそれを嬉しく思った。店に行くまでと店のガラスケースを眺めながらの協議の結果、誕生日ケーキとして最も正統なイメージのあるショートケーキが選ばれた。店の人にろうそくを頼むと誕生ケーキのサービスとして、砂糖菓子の人形がのっかった。
「それ、見た目はかわいいけど砂糖の塊でおいしくないんだよね」
 そんなことを言って、砂糖の小人はどちらとも食べなかった気がする。薄ピンクの帽子をかぶっているのが愛らしかった。携帯で写真だけ撮って皿によけ、後で捨てたのかどうしたのかは覚えていない。スパークリングワインとビールに酔って、ケーキ疲れしたと言い合いながら布団にもぐった。ひとつ歳をとった杉さんの体が、私のなかに入った。
「ゆりといると、何もない平原か何もない雪原か、空気もない月の上で、ぼうっと空を眺めているような気分になるよ。どこまでも景色が続いているような場所」
 ねむる間際、杉さんはそんなことを言った。
「広々してるんだね」
「そうしてさ、体が地面のほうにあるのか、空のほうにあるのかわからなくなってくるんだよ。空も地面も広すぎるからだね」
「空はどんな感じなの」
「平原は晴れ渡ってるね。ヨーグルトのCMに出てきそうな空」
「何よそれ」
 私は笑った。
「緑の牧場で牛がうろうろしてて、背景があおーい空でさ、ヨーグルトの容器が画面の手前に映ってるようなCM」
「じゃあ、雪原の空は?」
「夜。雪はもうやんでいて、とにかく静かなんだ。月も似たような感じかな。月の方は、呆れるほどたくさんの星が見える。多すぎて、頭がおかしくなりそうなくらい」
 それから杉さんは寝てしまった。杉さんは飛行中に猟銃で打ち落とされた鳥みたいに、元気にしゃべっていても突然寝込んでしまう人だった。私は二人の体温が染み込んだシーツの上で、平原や雪原や月の空のことを考えた。目をつむるとどの場面も鮮やかに浮かんできた。布団の横には杉さんがいるのに、彼の語った風景のなかには私一人だけだった。眠りに引き込まれるうつつのなかで、だんだん本当に平原や雪原や月の上に寝そべっている錯覚におちていった。隣の杉さんの寝息は聞こえなくなった。
 平原は生え茂った草のせいで背中がちくちくして落ち着かなかった。雪原は、身を横たえるにはあまりにも冷たく、そのまま死んでいってしまいそうだった。月の表面は固かったけど、背中の骨にしっくりと馴染んだ。杉さんの言っていた通りたくさんの星が見えた。あまりにも数が多く輝きがはっきりとしているので、それらが目の水晶体に埋め込まれて光っているのではないかと思うほどだった。昼間行ったケーキ屋のあるショッピングモールも家から十分の駅も、隣で寝ている杉さんも何もかもが果てしなく遠かった。私自身さえも遠く離れていく気がした。全てが遠くなっていく月の上で、目を覚ましたときどうか隣に杉さんがいますようにと祈った。それだけで生きていけるのだから、どうか杉さんがいますように。異様に輝く星のひとつひとつと約束をかわすように、眠りにつくまで私は繰り返し祈り続けた。





inserted by FC2 system