ブラインド・ワールド(7)






 フィネは桜の花弁の曲線をなぞっていた手を止め、目を見張った。サクラが困ったように苦笑しながら耳に黒髪をかけなおす。その生白い手の甲に、くっきりと骨が浮いていた。
「ほんと?」
「ほんと。フィネってルカと同じ委員会でしょ。ちょっと気になってたの」
 そういえば今日は放課後のカウンター当番だった、とフィネは思い出したが、いかんせんそれどころではなかった。フィネはスケッチブックを脇によけ、身を乗り出した。
「なんで? なんでルカ? 中間テストの数学6点の男だよ?」
「はじめは、すごくきれいな顔だなって、思ってるだけだったんだけど、ルカってほら、意外とやさしいじゃない」
 サクラは目を逸らし、長袖のセーラー服の袖口をいじりながらもごもご言った。剥き出しの額は透けるように白く輝き、溶けだしそうに危うい輪郭線を浮き上がらせていた。
「ルカって綺麗なの? あたし、サクラのほうがずっときれいだと思うけど」
 フィネが首をかしげて言うと、サクラは短く息を吐き出し、苦々しいような顔で笑った。何十年もの歳月を生きてきたかのような疲れが、口の端の皺に滲んでいる。薄く色づいた唇から、かすかにこぼれた「ありがとう」は、枯れたみたいに乾いていた。
「じゃあさ、明日の昼休み、一緒にお弁当食べない? あたしの秘密のお弁当スポット、案内してあげるから」
 フィネはスケッチブックを地面に置いて膝で立ち、「ね」とサクラに寄った。サクラは驚いて身を引き、ぶんぶん首を振った。黒髪の束が頬にかかる。
「私、そこまでルカと仲良くないもん」
「これからなるの、これから。あたし、ルカと約束してくるから、ちょっと待ってて」
「そんな、ルカに悪いよ」
「いいの、いいの。恋は瞬発力が大事、っておばあちゃんが言ってた」
 慌てるサクラを前に、フィネは一人で頷いて勢いよく立ち上がった。スカートからバラバラと鉛筆が落ちる。
「あ、そうだ、煮卵作ってきなよ、サクラ」
「煮卵?」
「うんそう煮卵。おでんに入ってるじゃない。ルカ、あれ大好きなの。バイクにも『ニタマゴ』って名づけてるくらい。だからサクラの手作り煮卵なんて武器よ武器。ヘミングウェイよ」
 サクラは曖昧に笑った。この子は眉尻が下がった、自嘲みたいな笑い方をするな、とフィネはふと感じた。
「明日の昼休み、約束ね」
 フィネは念を押して言った。
 ザッと風が吹き抜け、桜の枝を無造作に揺らす。ついと見上げた視界の先で、夕の朱に染まりつつある桜の花弁がさらわれる。あぁ、せっかく咲いたのに。フィネは狂い咲きの幹に手を当て、きらめくように宙を泳ぐ飛英を眺めた。
「ありがとう、フィネ」
 サクラは胸の奥から静かに言って、小指をそっと突き出した。ガラスみたいな声音だった。
 フィネが目で追っていた花弁が舞い、地に落ちる。


 図書館に駆け込むと、ルカがカウンターからこちらを睨みつけた。フィネは長い髪をなびかせて走り寄った。息が上がっていた。
「お前、今日」
「ねぇねぇルカ、サクラってかわいいよね!」
「はぁ?」
 ルカは不機嫌そうに腕を組み、首を傾けた。細く茶色い眉が寄り、皺がくっきり刻まれる。
 フィネは構わず続けた。
「色白で目が大きくて華奢でさ、あんな子が彼女になってくれたら、絶対幸せだよね」
「フィネ、何言ってんの」
「スリーサイズは教えられない」
「聞いてねぇよ」
「だってあたしも知らないんだもん」
「お前ちょっとこっち来い」
 図書室で自習する三年生の目に追い出されるように、ルカはフィネの手首をつかんで廊下へ引っ張り出した。フィネは手首を引かれながら、不思議に思って振り返った。声がうるさい、というだけの、うんざりした目とは別の感情が混じって、背中に突き刺さってくるような気がした。
 図書室の前で、ルカはもう一度腕を組み、嘆息に似た溜め息を長く吐き出した。
「まずお前、今日は図書当番だろ。何してたんだよ」
「アビルゴールはデンマーク・ロイヤル・アカデミーの校長である前に、紛れもなく一人の画家でした。だからねルカ、あたしも図書委員である前に美術部員なの」
「つまりどっかで絵でも描いてたのか」
「うん。校庭の桜、狂い咲きしてたでしょ」
 ルカは一瞬「あぁ」と納得しかけたが、すぐに髪の毛を片手で掻きあげてフィネの頭を軽く小突いた。
 さらりと耳にかかった茶色い髪の毛の間から、銀のピアスが鋭く光る。フィネは小突かれた頭を両手で押さえて抗議しようとしたが、思わずすべての言葉を呑み込んだ。見上げたルカの顔つきが、サクラの言うとおりとてつもなく「きれい」であることに、初めて気がついた。
 恐ろしいような美貌は、ともすれば周囲の景色に溶け込んでしまいそうな、脆くふしぎな印象を湛えていた。触れれば切れそうな顎の線、スッと通った鼻筋、肌理細やかな頬、そして、幾重もの影を宿した深い瞳。柔らかな髪は中性的な面立ちを際立たせているが、優艶というよりはどこか清涼で、硬質な色香に満ちていた。
 ただ吸引力がなかった。そっぽを向いている他人を振り向かせんとする強烈な光がすっかり抜けて、死のごとき静けさがひたすらぽかんと口を開けていた。
「だいたいお前、突然何を言ってんだよ。サクラがどうしたって?」
 ルカは気のなさそうな声音で尋ねた。
「そう、それよ。ねぇルカはいつもお昼ご飯どうしてるの?」
「どうって、適当に教室で食ってるよ」
「一人でお弁当食べるのって寂しくない? 盛り上がりに欠けるっていうか」
「誰が一人だと言った」
「だって数学6点の男に一緒にご飯食べる友達がいるわけないもん。でもルカだってたまにはみんなで煮卵囲んでわいわいお昼ご飯食べたいでしょ? だから明日の昼休みはあたしと一緒に来るように」
 フィネは両手の平を丸めて煮卵の形を空中で模して見せた。ルカの顔面には嵐のように様々な感情が去来し、消えた。唇から何度目かの嘆息が落ちた。
「わかったよ。明日の昼飯に付き合えばいいんだな」
「明日からよ、明日から。あと、お弁当に煮卵入れてきちゃだめだからね」
「かつて一度も弁当に煮卵入れたことねぇよ。フィネが勝手にバイクに命名したんだろうが」
「約束だからね」
 フィネはにこりと笑い、ルカの鼻先に小指を突き付けた。
「なに?」
 ルカが訝しげに小指とフィネを交互に見る。フィネは片手でルカの右手をとり、無理矢理小指を絡めた。
「昔の『約束』の誓い方なんだって。さっきサクラに教えてもらったの」
「へぇ、ニホンの? 知らなかった」
「歌があったんだけど、忘れちゃった」
 フィネは小指を離し、くるりと踵を返した。
「続き、描いてくる」
「数学6点なめるなよ。一問目の途中式と三問目のグラフは合ってた。つーかお前、カウンター手伝えよ」
 駈け出したフィネの背中を、憤慨したルカの声が追う。フィネは走りながら振り返り、ケラケラ笑って手を振った。「約束」をした小指の、形のいい爪の感触と、わずかな体温が、風に吹き飛ぶ。
 生徒玄関を出ると、秋の涼やかな夕映えの景色を、汽笛みたいな風が通った。フィネは踏んづけていたローファーの踵を直した。舞い上がった葉が頭上をひらめく。フィネを待ち、樹木の根元に座りこむサクラの姿が、脳裏にぼうっと浮かんだ。一本の、狂い咲きの桜が、夕の風に凪ぐ。





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