ブラインド・ワールド(3)






 フィネは汗ばんだ手をルカの腰の前で握りなおし、首を振って目にかかった前髪を払いのけた。フィネの長い髪の毛は、大輪の花のように広がり、波打った。風の渦の中に髪の毛を絡め取られる感触を、フィネはふと思い出した。祖母の埋葬の時だ。フィネの髪の毛は追い風に吹かれ、目元が隠れて視界は一瞬太陽を忘れた。一時たりとも泣かなかったというのに、涙は枯れたように出てこなかった。
「先月、私ヤマガタに行ってきたの」
「旅行?」
「ううん、お葬式。おばあちゃんが亡くなったの」
 ルカは「それはご愁傷さま」と起伏のない声で言った。ぐっと首を回して振り返れば、紅白の土台のみが形を保っているだけのトーキョー・タワーがまだ見えた。かつてこの国の人々が、明日の発展への期待を寄せ、トーキョー・タワーを眩しく見上げた時代があったという。その運命の先に待ち受けていた皮肉な発展の、真っ最中を生きた祖母は、多くを語ることなく死んだ。
「私のお母さんがまだおばあちゃんのお腹にいる頃に、おじいちゃんがペルセウス軍に徴兵されたの。終戦間際に戦死しちゃってね、おばあちゃんは生まれたばっかりのお母さんを抱っこしてヤマガタに逃げたんだって」
 だからフィネの母は、自分の実父の顔を知らない。彼を知る祖母がこの世を去った今、彼はいったい何を残せただろう。祖母の棺を見送った日から、フィネは時折繰り返しこの問いを胸に聞いた。誰に弔われることもなく朽ちていった彼の死が、彼が絶ち切ったであろう幾人もの人生が、焼けた故郷が、あの爆風に晒されたトーキョー・タワーが、何の意味もなかったのだとは言えなかった。ただそれは、あまりにもありふれた悲劇だった。
「おばあちゃんがね、亡くなる何日か前に私に言ったの。おなじことなんだって、雲の上の天国へいくのも、海の底へかえっていくのも」
「海の底ってなに?」
「よくわかんなかった。おばあちゃんはずーっと昔の戦争の話をしていたけど、でも私は、故郷のことなのかなって」
「故郷?」
「生まれ育った場所に戻れなかったから、海や空だけはおんなじって信じていたかったのかなぁって」
 信号が赤く灯り、前の車に合わせてバイクは緩やかに停止した。顔面に吹き付けていた風がやみ、途端に背中に落ちてきた髪の毛が、なんだか重いような気がした。モーターの唸り声に混じって、蝉の鳴き声が鼓膜を叩く。
 ルカが不意に振り向いた。ヘルメット越しにフィネを見下ろす双眸に、感情らしい感情は一つも読み取れなかった。そうして一言、ひとりごとのように呟いた。
「戻るもなにも、もうそんな場所どこにも残ってなかったんじゃないの」
 フィネは「え」と聞き返したが、ルカが繰り返すことはなかった。信号が青に変わり、ルカは前を向いてバイクを発進させた。油断していたフィネは一瞬上半身が後ろへ取り残されそうになって、慌ててルカの腰にしがみついた。
「ちゃんとつかまってろよ、落っこちるぞ」
「平気だよ。ルカの中間テストの数学の点数よりよっぽど平気」
「振り落とすぞ」
「ルカ! シバウラあっちだってよ」
「わかってるからつかまってろって馬鹿野郎!」
 ヘルメットに籠った声でルカが怒鳴る。思わず道路標示の矢印方向を指差しそうになった片手で、フィネはルカのシャツをぐっと握った。





inserted by FC2 system