ブラインド・ワールド(26)






 ユーヤは授業後の反省記録を書かなければならないからと、教室を出て行った。彼がいなくなると、教室には閉店間際のデパートのような空気が漂いはじめた。一連の行事が終わってからっぽの風がき抜ける。祭りのあとの感じだ。かすかに残る熱気も、冬のスープみたいにみるみる冷めてしまう。
「俺が生徒だったら」
 置物のように椅子に座っていたルカがつぶやいた。小さな声だった。それが自分に向けられた言葉なのか、聞かれなくてもいいひとり言なのか、フィネはわからなかった。
「え?」
「あのひとの授業は受けたくないかも」
 ルカの言葉には、フィネを小馬鹿にするときのいつものとげがなかった。
 窓際に座ったルカの白い肌が、夕日をはねて光った。ルカは背中を天井から釣られたようにまっすぐに立ちあがり、歩き出した。フィネはあわてて、机上に山をなしていた筆記用具を片づける。消しゴムが転がって、しゃがんで手をのばすと机の裏で頭を打った。
「待って待って。私も一緒に帰る。ユーヤに挨拶しなくていい?」
「さっき話したからいいだろ。ボランティア活動のルールで礼状も出すことになってるし」
「ルカ、いそいでるの?」
「いそいでないよ」
 ルカは振り返らずに答えた。中庭を横切る長い廊下を歩く間、フィネは彼に並ぶことができなかった。ルカの早歩きは、平原を駆る馬のように速い。
「急いでないなら、正門の横にあった変な建物のぞいて帰ろうよ」
 フィネはスピードを緩めて欲しいばかりに声をかけた。教室に向かう途中に見つけた廃墟のような建物のことだった。
「変な建物?」
「白くてとげとげしたやつがあったじゃない? 白いっていっても、汚れた感じの白だったけど」
「教会のこと? 勝手に入って怒られたらたまんないよ。ボランティア実習できてる身なのによ」
「大丈夫。全然使われてない感じだったよ。植物が茂って、ほったらかしにされてるみたいだった」
 教会らしき建物はフィネの言うように荒れ果てて、打ち捨てられたような外観をしていた。手入れが行き届いていないというよりは、もう長い間誰も手を入れていない状態だ。
「すごい。何か出てきそうね」
「ネズミか?」
「おばけよ」
 フィネはルカを見下して、迷うことなくそのうらぶれた建物に入っていく。
「向こうにもっと大きくてきれいな教会があったよね。こっちは古いからもう使わないのかな」
 フィネが言った。ルカは警戒してあたりを見回すが、下校の時間を過ぎたのかひと気はなかった。清潔な中庭と、落ち葉が一枚残らず掃除された通路が目に入った。まるで食洗機で丸洗いされたみたいだった。教会は掃除を忘れられているのではなくて、建物の存在自体が忘れられているようだった。壁につたう植物の暗号のような影や、地面に盛り上がったコケの大群が、今にもうごきだしそうに見えた。
 忘れられたものが多すぎる。ルカは思った。世界が統一されて恒久的な平和が訪れたこの時代は、あまりにも多くのものを忘れ去った。言葉、文化、宗教・・・・・・。それはこの穏やかな世界が持続していくためには、善きことなのだろうか。
「案外なかはきれいなんだね」
 きれいとは言っても荒れ果てていないというだけで、ほこりは雪のようにあたりに積もっていた。フィネは埃をはらって長椅子に座った。ルカもその隣に腰をおろす。
「ユーヤって人、どっち側だったけ」
「どっちって?」
「いや、なんでもないよ」
 質問を取り消して、ルカは顔をそむけた。ツタに覆われたステンドグラスのところどころから、針のような日が差し込んでいる。日の先端は、砕け散った破片のように床に落ちている。もちそんその床にも、厚いほこりの層がある。
「あの授業、楽しいと思った?」
 ルカの横顔はいつもより鋭い。でも口調は普段より沈んでいるようだった。二人でいるときは絶え間なく馬鹿にされ続けてきたフィネは、ルカの様子に心細さを感じはじめた。その心細さの正体はよくわからなかった。
「俺はあの人の言う平等を平等だとは思わない。都合のいいすりかえだよ。教室にいた子供たちが帰る家、その家での食事。きっと全部違う。同じ程度の栄養の食事や、同じやわらかさのベッドじゃないはずなんだ。負けた国の子どもと勝った国の子ども。一概には言えないその他。でもあの教室ではそういうものを覆い隠して無理矢理に平等がつくり出されてる。それが悪いことだとは言い切れない。そうすることが、この世界のこれからのためには必要なのかもしれない。子供たちは、そういう場を求めてるのかもしれない。負けた国勝った国なんて、もう言ってられない。そういうのって建設的じゃないし。そんなことを言ってたらあのど派手な戦争の意味がなくなってしまう。でも俺には違和感があるんだ。平等っていう言葉の外側だけ残して、中身の意味を全部入れ替えてしまっているような」
 ルカの言葉は、フィネではない別の誰かに向けられていた。
「でもたいていの人は、つくられた平等が心地いい。みんなが、同じものを共有している実感。それが、統一戦争がもたらした恩恵だったから」
「ねえルカ、私も」
 フィネが何か言いかけようとしたとき、ルカが腰をあげた。
「帰るぞ。こんなところにいるのがばれてユーヤ先生に叱られたくないからな」
 ルカは早足で建物を出た。フィネは遅れて彼の背中を追いかける。
 私はルカ追いかけてばかりだ。緑の教会を振り返りながらフィネは思った。





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