ブラインド・ワールド(20)






 水曜日。水族館以来はじめてのユーヤの授業の日。
 朝起きてからというものフィネは何かと落ち着かなく、歯ブラシは逆につっこみ、食卓につくときにはなぜか息まいてウインナーを八本食べた。
「お腹、こわさない?」
 二枚目のトーストを食べるフィネを見て、母は心配そうに聞いた。
「大丈夫よ。この子のお腹底が抜けてるんだから」
 イリスは椅子にあぐらをかきながら、コーヒーをすすっている。お日様マークばかりが並んだ天気予報の画面を見て、今日も暑いのねえとつぶやいた。
「もう夏もいい加減終わってくれなきゃ」
「今ががんばりどきなんでしょ。あんたもユーヤ先生にご教授願ったら?」
 フィネは一瞬トーストを頬張る口の動きを止め、それから早送りのような猛烈なスピードで耳のはしまで食べ終えた。母のユーヤ、という語に反応したものと思われるが、トーストを食べ終えてしまうと今度は食い入るようにテレビの画面を見つめた。
「ラッキー占いのコーナーです! これから学校や会社に行くあなた、今日の運勢とラッキーアイテムをチェックして、仕事や勉強、恋愛に役立てて。ハッピーな一日を過ごしましょう!」
「ハッピーな一日を過ごしましょう!」
 フィネはテレビのお姉さんの言葉を追った。背後には、ハッピーな一日のはじまりにふさわしい軽快な音楽が流れている。
 フィネは真剣さが深刻さに及ぶ一歩手前のような面持ちで、「しし座」の項目を読み上げた。
「今日のあなたは無敵の鉄砲玉。恋愛運仕事運ともに急上昇中。ただし他人の甘い言葉に騙されないように気をつけて。ラッキーカラーははじけるピンク色。あなたに勇気を与えてくれる色です」
 慌ただしげに台所用洗剤のCMが流れさっていく。
「はじけるピンク色? はじけるピンク色って何?」
 フィネはスカートについたパンくずを躊躇なく床にはたき落としながらイリスに尋ねた。
「そうねえ。はじけてんだから、落ち着いた感じのピンクとは違うよね。もっとビビットな。蛍光色っぽいやつ、あー、ショッキングピンクとかさ」
「うむ。わかった」
 その日のフィネは小学校時代、学芸会の森の妖精役で着用したショッキングピンクの靴下を履いて過ごした。小学生の足に履いていたものだから当然サイズが小さくて、かかとの部分がくるぶしの上まで引き上がっていた。他にショッキングピンクのアイテムを持っていなかったのだ。ルカには、開口一番馬鹿がうつるから近寄るなと言われた。
「フィネ、今日はずいぶん斬新な靴下をはいてるんだね」
 玄関でイリスの意味ありげな微笑みに迎えられたユーヤは、部屋に入って机につくと疑わしげな顔でフィネの足元を眺めた。
「洗濯物、乾かなかったの? あ、ひょっとして今モードな女子高生のあいだではそういう靴下が」
「先生」
 フィネはいつになく険しい顔つきでユーヤの言葉を遮った。
「あ、ごめん。馬鹿にしたつもりはなかったんだ。変わった靴下をはいてたからつい気になってさ。うん、いや、よく似合ってると思うよ」
「違うんです」
「違くないよ。フィネはなんでもよく似合う」
「私先生と結婚します」
 数学の参考書をめくっていたユーヤの手がとまった。数列が意味をなくして彼の頭のなかで停止した。
「それは、僕と付き合ってくれるってことでいいのかな」
「はい」
 はい、と答えながらフィネのこわばっていた手足からゆるゆると力が抜けた。返事をするだけでこんなに緊張するなんて。彼女は思った。
「やった、フィネ」
 ユーヤが手をのばしてフィネの頭をなでた。フィネは照れ臭くてたまらず、目を伏せて自分の足元を見た。確かに紺色の制服のスカートとは全くちぐはぐででたらめなピンク色は目立っていた。
「先生、付き合ったら、やっぱり二人でソフトクリームを食べたり海辺で愛を語らったり、待ち合わせに遅れてきた相手に自分もきたばっかりと言いながら実は三十分も待っていたり、クリスマスにはイルミネーションを見ながらおでんを食べて公園で花火をして動物園に行ってゾウの糞の模型に興奮してそれから」
「待って待って。よくわかんないことになってるよ」
 ユーヤはやつぎばやに話すフィネを何とか落ち着かせようとする。そして、少し考えるそぶりをして柔らかく笑った。
「うん、でも全部やろう。これから全部できるよ」
「はい、全部やりましょう」
 フィネは、幸せかも、と思った。こういうの、幸せかも。誰かに好きになられたり、好きになったりして、心が落ち着かなくてあっちに転がったちこっちに転がったり、自分でも手がつけられなくなるこの感じ。
 サクラも、そうだったんだろうかと、フィネは思った。ルカを好きになって、そんな自分の気持ちにどきまぎして。ルカといつか二人手をつないで歩いたり、そんなことを考えながら毎日学校に通うのは、片思いだってそれなりに幸福なことだったかもしれない。
 フィネは、季節外れのサクラの長そでを強烈に思い出した。病気さえなければ、そんな日々はもっと長く続いていたかもしれない。いや、病気のせいばかりではない。
 触らないで!
 記憶ではなく今空気を吸って吐きだしている喉に、食いかかるように自分の言葉がよみがえった。ルカにはたかれた頭の痛みが、今は気持ちの奥の方に響いていた。
「どうかしたの?」
 ユーヤがすくいあげるように言った。
「ううん、私嬉しくて」
 フィネは、ユーヤによく見えるように口の端を高くあげて笑った。ごまかすために嬉しいと言ったのに、言葉にするとやっぱり嬉しい気持ちがわきあがってくることにフィネは気付いた。ユーヤの物腰は、どこかしらフィネを安堵させるところがあった。
「じゃあ、先週言った宿題見せて」
「え、宿題ありましたっけ?」
 いつもの通りのやりとりが、いつもより心地よく二人の体に響いていた。





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