ブラインド・ワールド(18)






「先生見て見て、アジ! アジ! 今日の朝ごはんアジのひらきとカニクリームコロッケだったんです」
「あっちのマンタも大きくてすごいよ。しっぽが長いね」
 前回の授業で小テストの結果が良ければご飯を奢ってもらえると約束していたフィネは、週末その約束通りユーヤと二人でシナガワの水族館を訪れていた。実は小テストの結果はひどいものだったのだが、残念がるフィネにユーヤがオマケをしてくれたのだった。
「あの小さな魚、前うちで飼ってた金魚に似てる。黒い出目金で、お父さんがリバイアサンって名前を付けて可愛がってたんです」
 フィネは大水槽の前で次々と泳ぎ去っていく魚たちを目で追っていた。狙いを定めた一匹を集中して見つめ、そいつが視界から消えてしまうとまた新しい一匹を見つけてその魚が泳ぐのを観察する。小魚に大型の魚、マンタやエイにサメなど数も種類も豊富で、確かに大人が見ても飽きないくらいの迫力があった。
 ユーヤは魚を見るというよりは横に立つフィネの視線を辿るように水槽を眺めていた。フィネがいちいち魚についての感想を述べるたびに、隣で熱心に頷いた。フィネの着ているカラフルな服は薄暗い照明の下でもよく目立った。ユーヤと並んで楽しそうに話す様子は、実際そんなに歳も違わないのに年齢の離れた兄と妹みたいだった。
「ね、あっちの深海の生き物たちってコーナー見に行かない?」
 放っておけば一日大水槽に張りついていそうなフィネをユーヤが促した。
 深海の生き物たちの展示エリアはさらに照明が薄暗くてそれぞれの水槽だけがライトアップされていた。フィネは横の説明をひとつひとつ読みこんでから水槽を覗いた。
「深海の生き物って怪しげ。マグロやアジを見た時みたいに、お刺身にしたらおいしそうとかお寿司が食べたいとか思わないもの」
 いたるところで子供が親になにか尋ねたり、カップルが魚とは関係のない話をしていたりしてあたりは騒がしいはずなのに、こまごまとした喧騒は薄闇の中に吸い取られているみたいに気にならなかった。魚は気配なく泳ぎサンゴは音もなく呼吸していた。
「フィネあれ見て、タラバガニ。あれはおいしそうに見えるんじゃない?」
 フィネはユーヤが指さす水槽をみた。オレンジ色の甲羅をした巨大なカニが静かにたたずんでいた。
「わ、大きい。タラバガニってこんなに大きいんだ」
 カニたちは長い八本の足を動かしていた。まるで彼らのまわりの水だけが特殊な重みを持っているみたいにゆっくりとした動きだった。
「一匹で何人前になるんだろう」
 そう言うと隣のユーヤが、全くフィネは、と首を傾けて笑った。これがルカだったら、お前は食い物のことしか考えてない猿だのなんだの馬鹿にするに違いないのにとフィネは思った。
「あ、これダイオウイカ」
 フィネは隣にある細長い透明なケースに目をとめた。巨大なイカの標本だった。
「イカも好きなの? フィネは魚介に目がないんだね」
「この前生物の授業で習ったんです。深海に住む謎の巨大イカ。かなり深くまで潜ることのできる潜水艦が開発されて少しずつ生態が解き明かされようとしていた矢先に戦争が起こって、研究どころじゃなくなってしまったらしいです。そうしているうちに学者たちも年をとって研究が途絶えてしまったって先生が残念がっていました」
「へえ、ずいぶん詳しいね。その調子で数学も頑張ってくれると家庭教師の僕としては嬉しいんだけど」
「生物の先生がイカ狂いなんです。第二の人生はダイオウイカ研究に捧げたいって授業の最後に必ず宣誓するんですよ。三度の飯よりイカって言ってるんですけど、じゃあ三度の飯がイカだったらどうするんだろうって私いつも思います」
「まあ、食べることと研究することは違うからね。三食イカは飽きそうだし栄養バランス的にも心配だよね」
 時間があったら後でユーヤに言ってもう一回見に来ようとフィネが歩出すと、布張りの床に足をとられた。段差もないのに足がつかえ、重心を完全に失った体が倒れそうになる。何とか手をついて派手に転ぶことはなかったが、心配したユーヤがかがみ込むようになっているフィネの手をとって起き上らせた。
「手、つなごうか?」
 フィネが起き上っても彼はつかんだ右手を放そうとせず、思わず聞き返してしまいそうな台詞をこともなげに口にした。
「へ? でも先生彼氏じゃないし」
 ユーヤの普段通りの口調につられるように、フィネの方も無邪気に答えた。ユーヤが言ったことは冗談だと思っていた。
 手をつなぐのは恋人同士がすること?
 ユーヤに問われると、フィネは意気込んでそうだと答えた。勉強ができないからって、先生は私を馬鹿にしてますね。それくらい今時幼稚園生だって知ってます。
「じゃあ、彼氏にしてよ」
「え?」
 フィネは予想しなかった一言に混乱して、数秒後思考は音を立てて停止した。エイもカニもイカも、全部が吹きとんだ。
 ユーヤと手をつないでデートをしてハワイのチャペルで結婚式を挙げ、さらには新婚旅行を終えて新居に落ち着く想像が、一体頭のどこにそんな機能があったのかと本人も驚くばかりに駆け巡った。ユーヤに握られている手の感覚が神経を抜かれたようになくなっていた。
 先生が、彼氏で、結婚?
「フィネ、起きてる? 返事は今じゃなくてもいいから、僕が言ったこと覚えておいてね」
 ユーヤはフィネの手を放して、彼女の頭を軽く叩いた。





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