ブラインド・ワールド(17)






「今の子、彼氏?」
 ユーヤの声は春風みたいだと思う。フィネの隣の椅子を引いて腰掛ける。その動作もおそろしく静かで、やわらかい。
 フィネは鞄を足元に放り、机にペンケースを用意した。
「いや、学校の友達です」
「そうなんだ。約束があったの?」
「授業に遅れそうだったから、送ってもらったんです。ルカ、バイク持ってるから」
「仲良しなんだね」
 他意のない言葉だと思う。ただ今は、なんとなく、胸に痛い。
 フィネはごまかすみたいに笑って、鞄から本を取り出した。
 ユーヤは週一回、フィネの補習に付き合ってくれる大学生だ。近所に住んでいて、彼の評判を聞きつけたフィネの母が家庭教師として雇った。
「先生、これ、読んだよ」
 フィネはほんの表紙をユーヤに見せて言った。ハルキ・ムラカミの『神の子どもたちはみな踊る』の文庫本だ。
「あぁ、来週だったね。先にその話しをしようか」
 ユーヤはおもむろにリュックサックの中から同じ文庫本を取り出した。ハルキ・ムラカミの本は古典作品として中学校の教材に使われることが多く、文化統一後の今もこうして文庫版で出版され、ニホンに住む人々の間で親しまれている。
 ユーヤは「エコル・スコラ会」というNPO団体に所属している。週に三回、ストリートチルドレンを保護する施設に出向き、学校の勉強についていけない彼らに無償で勉強を教えている。フィネは来週の土曜日、学校のボランティアの授業で「エコル・スコラ会」の活動に一日参加させてもらうことになっている。読解のテストだけは毎回高得点を記録するフィネは、『神の子どもたちはみな踊る』を教材に古典の読解を教える予定だ。
「『タイランド』でよかったよね? ニミットの……」
「はい。わかりやすいかな、と思って。先生、どれがすきでしたか? この短編の中で」
「うーん、UFOの話かな。フィネは?」
「アイロンのやつ」
 ぱらぱらと文庫本のページをめくりながら答えて、ふと、本に出てきた一語を思い出す。
 からっぽ。
 触らないで、なんて、言うつもりはなかった。ただがらんどうの胸から飛びだしたのは、そんな言い訳も通用しないほどに凶暴な、拒絶の言葉だった。あれが私の本音だったのだろうか。元夫への怨念を抱えて、「地震で死んじゃえばいいのに」と願っていた『タイランド』のドクターみたいに、私もまた、サクラが遠くへ行ってしまえばいいと、心のどこかで願ってしまったのだろうか。
「フィネ、少し元気ない?」
 ユーヤがそっと話しかけてくる。フィネは文庫本を閉じて、少しだけ笑った。
「ちょっと疲れちゃいました。さっき、ルカが来て、お母さんもイリスも大盛り上がりで」
「彼、きれいな顔立ちだったものね。コガラシのファンのお母さんにはたまらなかったんじゃない?」
「うん、カニクリームコロッケいっぱい出すから、ルカも困ってました」
 だろうなぁ、と笑って、ユーヤはプリントを机に置いた。
「じゃあ、フィネに元気が出るおまじない」
「おまじない?」
「これ、点数よかったら何かおごってあげるよ」
「え!」
「ちょっと元気出た? 制限時間、十分ね」
 フィネは慌ててシャープペンを取り、プリントをひっくり返した。先週の宿題の復習テストだった。
 ペンを走らせるフィネの視界の端で、ユーヤがゆるりと脚を組み、そっと文庫本のページをめくっていた。





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