ブラインド・ワールド(16)






 ルカがバイクに辿り着いてエンジンをかけるのを、フィネは黙って見ていた。
「何?」
「ルカが許してくれるまで謝るって言った」
 言葉につられるように涙がこぼれた。
「乗って行けよ。家まで送る」
 ルカに言われると、フィネは不思議そうに彼を見た。視界が頼りなく歪んでルカの顔がぼやけた。
「いいの?」
「お前への対応の仕方はさっぱりわかんないから、もうそれでいい。ここで別れるのもなんか胸糞悪いだろ」
「ありがとう」
 フィネは小さく言って目の下をこすり、ルカに続いてバイクにまたがった。ルカがバイクに鍵を突っ込んでいる間フィネはうつむいて、前を見ることができなかった。
 ルカのバイクの後ろ。ここはサクラが望んだ場所だったはずなのに。
 わずかな風がはっきり感じられるのは、風にあたると涙に濡れた頬が冷たいのと、薄い桜の花びらがさざ波のように地面を移動しているからだった。
 バイクが走り出すと、フィネはもっと形のある風のなかにのまれていった。最初にそうやってルカのバイクに乗ってニタマゴと名付けた時のことを思い出した。フィネはルカの名前を呼んで声をかけようとしたけど、自分が何と言おうか何の準備もしていないことに気付いてやめた。
 学校から出るとどこからか聞こえる青信号の間流れる気安いメロディーと車の走る音の間に、ルカの声がまぎれた。聞きとれなかったフィネは前にある背中に耳を近づけてみるが、言葉はもう途切れているみたいだった
「ごめん、聞こえなかった」
 フィネはそう言うと、次は聞き逃したりすることがないいようにと、頭をからっぽにして耳をすませた。
「お前のうちどこだっけ」
 バイクと周囲の車の音にかき消されないように、張り上げた声が前から聞こえた。フィネも負けないように声を張って最寄り駅の名前を伝えた。乾ききっていない涙のせいで、気を抜くとしゃくりあげる子供みたいに声がひっくりかえってしまいそうだった。
 それからしばらく走ったが、信号待ちの間も言葉はなかった。人といる時は絶えずおしゃべりをかかさないフィネだったが、不思議と居心地の悪さは感じなかった。自分の胸のざわつきを押さえるのに精一杯だったし、ルカの背中はフィネを責めているようには多分見えなかった。
 活発な昼時の町の風景を次々と後ろにおいやるようにしてバイクは走った。やがて大通りをはずれて小道に入り、フィネの見慣れた住宅街に着いた。フィネはここにきてやっと口をひらき、家のある方をルカに教えた。
「あ、お母さん」
 フィネは玄関先を掃除していた母親を見つけて声をかけた。母は手を止めてバイクにまたがったままのルカの方を見た。
「あら、お友達?」
 ルカはヘルメットを外して軽く頭を下げた。
「ちょっと、まあ、君大したイケメンじゃないの! うちのお父さんに勝るとも劣らないイケメンぶりよ!」
 ルカの顔が見えるやいなや母は歓声を上げ親指を突き上げて、フィネに向かって「グッド」のポーズをとった。
「フィネ、彼に送ってもらったの? あ、ねえ良かったらお茶飲んでいかない? お昼のカニクリームコロッケが残ってるからおやつにいいわ。ね、あがって。バイクはそこらへんに止めておけばいいから」
 ルカが判断に迷う間もなく母は彼の背中を叩いて、あれよあれよという間に家のなかに招き入れた。ルカは助けを求めるようにフィネの方を見たが、これはフィネにもどうしようもない。一度母のペースに巻き込まれると容易に離脱することができないと心得ているからだ。
 母を先頭に居間に入ると、フィネの姉が昼のドラマを見ているところだった。
「イリス、勉強しなくていいの?」
 フィネは今年受験に失敗して浪人中のイリスに声をかけた。
「休憩中。勉強ばっかしてたら頭に虫がわくわ。お客さん?」
 ソファーに座っていたイリスは後ろに立っていたフィネの腕をつかんで自分の方に引き寄せると、フィネの耳元に口を寄せた。
「ちょっととんでもなくイケメンじゃない。ヘラクレス級じゃない。やるわねあんた。馬鹿のくせによくゲットしたじゃないの」
「違うってば」
 フィネは言葉少なに言い返して、お茶を入れるから座ってなさいという母に従いルカと並んでソファーに腰をおろした。
 ティーカップ四つと山のように積み重ねられたカニクリームコロッケをのせたトレイを危なげに持った母が戻ってきて、ふたつのソファーにはさまるように配された小さなテーブルに置いた。フィネとルカ、母とイリスがそれぞれ並んで向かい合う形に座っている。
「そうだ、まだお名前聞いてなかったわ」
 母はルカに目を合わせながらも手早く皆に皿を配る。
「ルカといいます」
 ルカは母の勢いに抑え込まれるように緊張した面持ちで答えた。
「ルカくん、遠慮なく食べてね。冷凍食品の大安売りをしていてフィネの好物だからってお母さんが鬼のように買い込んじゃったの。冷蔵庫がカニクリームコロッケ一色」
 イリスが言い終わると、待ってましたとばかりに母が質問を開始する。部活は何に入っているのか、どんな勉強が好きなのか、趣味は何か、バイクにはよく乗るのか、鯛焼きは頭から食べるか尻尾から食べるか、宇宙人はいると思うか。
 ルカはコロッケを食べる暇もなく時々考え込みながら質問に答えていき、わずかな暇を見つけて乾いた喉に紅茶を流し込んだ。
「今日はフィネ、あんまりしゃべらないのね。カニクリームコロッケも全然食べないし。いつもはカニクリームコロッケが食卓に並ぼうものなら、この世の終りのように貪るのよこの子」
 イリスが言うと、ルカは隣のフィネを横目におさめながら曖昧に微笑んだ。
「具合でも悪い?」
「大丈夫だよ。ちょっと疲れただけ」
 イリスが聞くと、フィネは首を降ってティーカップに手をかけた。カップを持ちあげては見たものの、印程度に口をつけただけで下ろした。
「あら、誰か来たみたいね」
 玄関のチャイムを聞きつけた母はスリッパの音をせわしくたてながら今を出て行った。
 フィネが壁の時計を見るともう夕方になっていた。ルカは長いことフィネ母に捕まっていたらしい。
「フィネ、先生がいらしたわよ」
 若い男が居間を覗いて、顔の横に手をあげた。
「あ、ユーヤ先生、こんばんは」
 ユーヤは柔らかく笑って頷くと、ルカの方を見た。二人は互いに会釈を交わした。
「先、二階あがってるね」
 ユーヤは母に軽く頭を下げて居間を後にした。
 フィネはルカに説明をしようとしたが、彼女が声をかける前にルカの方が口をひらいた。
「じゃあ、俺そろそろ帰るわ。ごちそさん」
 ルカは床に置いていた鞄を持ち上げると、母とイリスに挨拶をして廊下に出た。フィネは彼の後を追って行って、玄関の戸をあけた。
「お母さんに付き合わせちゃってごめんね。うちのお母さん最強なの。あの、送ってくれてありがと」
「まあ、お前の母さんだもんな。サイケデリックでいいお母さんだったよ。喉はからからになるけど」
 二人がじゃあ、と言ってフィネが戸を閉めようとすると、スリッパが床を打つ音が聞こえてきた。
「ルカくんちょっとお待ちなさい。私いいこと思いついたんだけどね、晩御飯食べてかない? おかずの半分はカニクリームコロッケじゃないものにするからさ」
 母がまくしたてるとルカは顔を青くして答えた。
「や、これからちょっと用事があるので今日は失礼します」





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