ブラインド・ワールド(10)






 フィネはルカの言葉を不思議に思った。食器の泡が水の流れに崩されてみるみる消える。がちゃがちゃと大きな音をたてながら皿を洗い終わったフィネは、蛇口を勢いよく止めた。水の音が途切れるとともに、フィネの頭に食い込んだ小さな疑問も抹消されて彼女は再びハンバーグ作りの次の行程について考え始めていた。
「ねえルカ、私それ丸めるのやりたい。丸めるんでしょ?」
 隣でルカが押しつけるようにひき肉を混ぜていた。
「お前の担当はニンジンだろ。こっちはまだ時間かかるからニンジンやってな」
「ミキサー?」
 フィネは調理台の上に転がるニンジンをつかみながらサクラのほうを見る。
「ミキサーではないと思うけど」
 薄いピンクのエプロンの端をつまみながら、サクラが心もとなそうに言う。サクラのエプロンは洗いたてのようにきれいだったが、皿洗いしかしていないはずのフィネのエプロンは水と洗剤の泡で恐ろしく汚れていた。 
「サクラ、もっと厳しく言ってやれよ。こいつ料理のセンスが恐ろしくゼロだからな。俺たちのニンジンを危険にさらさないように」
 ルカは「俺たちのニンジン」のところを特別強く発音して、言い終わると少しだけ微笑んで見せた。それから誰にもわからないように口の端に力を入れて、軽く息を吐きだした。自分の頬笑みが不自然に張り付いたままでいる気がして、落ち着かなかったからだ。先ほどから固くなってしまったサクラの表情に気を使って冗談を言ったのか、それともフィネの馬鹿さが本当に愉快で微笑んだのか、ルカは自分でよくわからなかった。
「ニンジンは包丁で切るの。付け合わせの野菜だから、ミキサーで粉々にしたら食べられないじゃない」
「ふうん。ミキサー使いたかったなあ。そういえばニンジンって皮あるの?」
 ボールに押しつける右手のだるくなったルカを置き去りに、フィネとサクラの間ではニンジンについての話題が展開されていた。フィネと話しはじめたサクラは、普段より力の入った声で苦笑しながらフィネの発言の誤りを訂正していく。
「ニンジンって、皮が剥かれた状態で売ってるのかと思った。だって、キュウリとかは皮と中の色が違うのに、ニンジンは食べるときの色のまま売ってるんだもん」
 うつむきながら言うフィネを見ながら、サクラはおかしくて仕方がないというふうに目を細めた。結局ニンジンは彼女が切っている。カケルたちは、ルカとフィネ、それからサクラが三人で調理を始めてからは話かけてこなくなっていた。
「フィネ、これ終わったから丸めて。普通にやればいいんだからな。普通に」
 ルカに赤い肉の入ったボールを差し出されたフィネは、嬉しそうにうんと返事をした。彼女は迷いなくボールに手を突っ込み、お握りを作るときの要領で肉をまとめていった。包丁の手を止めたサクラと眉間に懸念の影をつくるルカの見守るなか、彼女は自信ありげにできあがった肉の塊を手の平に乗せて見せた。
「それ、球じゃん」
 ルカが大した驚きもなく言った。フィネが作り上げたのは、泥団子のように真ん丸なひき肉の集合体だった。フィネに頼んだ事柄が順調にいったことなどいまだかつてありはしなかったのだ。彼はむしろ、自分がまず手本を見せるべきだったと自らの過ちを後悔しているくらいだった。
「丸めてって言ったのはそうじゃなくて、ハンバーグの形にして欲しかったってことだよ。今日の実習のテーマがハンバーグなんだからそれくらい分かるだろ」
「でもこれはこれでいいじゃない。おもしろくて」
「それじゃ中まで火が通らないわよ」
 サクラが苦笑いを浮かべながらフィネの手の球体を回収した。
「これをつぶしたら、ちょうどハンバーグの形になるんじゃない?」
 サクラは色白の手で、球体の肉をはさんで軽く押しつぶした。サクラの手引きによってフィネはなんとかハンバーグ型のハンバーグを作れるようになり、できあがったそれをルカがフライパンで焼きなんとか三人の調理実習は成功を収めた。
「はあ、これで俺の家庭科の成績に傷がつかなくてすむ」
 テーブルに盛り付けた三人分のハンバーグを運び終ると、ルカはエプロンの紐をほどきながら腰を下ろした。教室の前半分には調理台が、後ろ半分にはテーブルが用意され食事はそこですることになっていた。フィネはまだ皿を水につけたりと動きまわり、三人分より多くできたハンバーグの皿を手に取って辺りを見回していた。サクラの班の元々のメンバーが欠席したが食材の量はそのままだったため、余りのものが出てしまったのだ。
 フィネはルカのいるテーブルのところまで来て、余りのハンバーグを見せた。
「これ、私たちだけじゃ食べきれないよね。カケルとキリにあげてくるよ。二人ともいつもすごい大きなお弁当だから、自分の分だけじゃな足りないだろうし」
 フィネは言い終わらないうちに小走りで駆けだした。ルカが制する間もなく、フィネはハンバーグを運びながらカケルたちに声をかけ始めていた。ルカはフィネがいつものようにうっかり何かにつまづいて転んでしまうことを願った。
 しかしフィネは転びもせず、ルカが彼女を呼ぶ声に気付きもしなかった。そしてしばらくカケルたちと話していた彼女は、ハンバーグの皿を持ったままルカのもとへ戻ってきた。
「ハンバーグ、いらないんだって。いつもはあんなに食べる癖にさ。私たちのこと手伝わなかったから遠慮してるのかな」
 他の班の人たちにおすそ分けに行ってくるよと言ったフィネを、ルカは今度こそ止めた。フィネの手から無理矢理皿を取る。
「これ俺が食うから。今日は寝坊して朝ご飯抜いたから腹が減ってたまらないんだよ」
「そんなにたくさん食べられるの? ルカって意外と食い意地はってるんだね」
 フィネは無邪気にルカの顔を覗き込んだ。
「俺が汗流して肉こねて、非常識なお前の手から守りながら作ったハンバーグだから。他のやつにはやらないの」
 ルカは言いながら、まだ調理台の方に残っているサクラのほうに目をやった。視界のなかに彼女をおさめながら、しかし直接目が合うことのないようにサクラを見た。視界の端にぼんやりとしか映らない彼女の表情はわからなかった。ただサクラはなんの動きもなく、そこに立っていた。





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