ブラインド・ワールド(1)






 フィネ、と彼女を名づけた祖母が死んだのは、八月の朝だった。スポーツの祭典が華々しく開幕し、新聞が連日各地の選手の快挙を報じる中、もう誰ひとり知らない戦争の、今日は記念の日なのだと祖母は訛りの強い言葉でフィネに語った。昔、おばあちゃんが生まれるよりもっとずっと昔、夥しい、名もない命が、海の底へかえって行ったの、誰も覚えてはいないけどね。病室のテレビで卓球の中継を眺めながら、天国って雲の上にあるんでしょ、とフィネは言った。祖母は碧玉の瞳をゆるやかに細め、そうねと頷いた。そうかもしれない、でもねきっとおなじことだわ。それから間もなくして、祭典の熱気の影に押し潰されそうな病室で、祖母は息を引き取った。黒い喪服に埋まった教会で、夏用の白いセーラー服は目立ったが、そういえば学校の制服をおばあちゃんに披露したことがなかったな、とフィネはそればかりを考えていた。祖母の棺が埋葬されるとき、腰まで届く亜麻色の髪の毛が、追い風に吹かれて頬を覆った。夏を名残惜しむように蝉が鳴いていた。涙は一粒も溢れてこなかった。
 夏休み明けの美術室には、饐えた油脂のようなにおいがこもっていた。フィネは東側の窓を開け放ち、窓枠に肘をついた。照りつける残暑の太陽が額を焼く。始業式は午前中に解散だから、まだ日が高かった。校庭の隅のプールの水面が、日光をきらきらと反射している。嗚呼、なんだか、海みたい。フィネは頬杖をつき、小さく息をついた。吐き出しきれない古い空気が、まだ肺に溜まっているような気がした。三週間前の、あの盛夏の病室で、晴れやかな空のような瞳をフィネに向け、命が海の底へかえって行ったと語った祖母の声が耳朶をかすめた。
 真下の裏門から、自転車に乗った生徒が続々と出ていく。ぼんやりとその様子を眺め、フィネは腕時計にちらりと目を落とした。正午を回っていた。そのとき視界の隅に、見覚えのあるオフホワイトのリュックサックが横切った。フィネは頬杖をはずし、目を凝らした。駐輪場は裏門の脇だから、裏門から出入りする生徒はほとんどが自転車通学の者だ。それなのにリュックサックの背中は、当たり前のように徒歩で裏門に向かっている。柔らかそうな栗色の髪の毛が、フィネに確信させた。ルカだ。
「ルカ!」
 フィネは窓枠から身を乗り出して、大声で叫んだ。リュックサックの背中が足を止め、ぱっとこちらを振り仰いだ。フィネが大きく手を振ると、ルカは一瞬足もとに視線を落とし、観念したように小さく片手を振り返した。
「ルカ! もうお昼食べた?」
 ルカは首を振りながら答えた。
「これから!」
「待って、私も行く!」
 フィネは言うなり鞄をつかんで扉へと駆けだした。クラスメートのルカとは同じ図書委員会で、何度か一緒に図書室のカウンターの当番をしたことがあった。人懐っこくはないが付き合いはいい。海へ行きたい、海が見たい。唐突に胸に湧き上がった不思議な欲求を、彼なら叶えてくれる気がした。
 ルカは門扉の端に寄り掛かって、半袖から覗く長い腕を組んでいた。走り寄ってくるフィネに気がついて身体を起こし、何か言おうと唇を開きかけたが、一拍早くフィネが叫んだ。
「海! 海行こう、ルカ!」
 フィネはようやく裏門に辿り着き、膝に手を置き、肩で大きく息をした。背中にうっすらと汗をかいている。フィネの正面に立つルカは、リュックサックの肩紐をいじりながら黙りこんでいた。フィネの呼吸が落ち着くのを待ってくれているのかと思ったが違った。ルカは絶句していた。
「お腹すいたなぁ。お昼はどうしようか。せっかくだから海で食べる? ルカもお腹すいてるでしょ。あ、聞いてよ、さっき教室でプリンと茶碗蒸しならどっちが美味しいかって話になったんだけどね」
「ちょっと待て。まずなんで俺がお前と昼食べることになってんの」
「だってまだなんでしょ、お昼」
「そうだけど。ていうか、海って、なんで俺が付いていかなきゃいけないんだよ。他の奴と行けよ」
「いいじゃん、バイクならすぐなんだから。後ろに乗せていってよ」
 ルカは苦虫を噛み潰したような顔をした。校則でバイクでの登校は禁止されている。だからこっそりバイクを使う生徒たちは、裏門を出てすぐの大学の駐車場に侵入し、無断でバイクを停めてから白々しく徒歩で登校する。もちろんばれれば大目玉は必至だ。
 ルカはこの世の苦難を一身に背負ったように深くため息をつき、渋々無言で裏門を抜けた。隣を歩きながら、フィネは抜けるような空を仰ぎ見た。でもねきっとおなじことだわ。祖母の声が、蝉の鳴き声に混じって降ってくる。遥か過去から木霊する記憶のような、遠い響きだった。校舎の外周に植えられた銀杏の木々が、道路に濃い陰を落としている。
 ルカは肩を跳ね上げて、ずり下がったリュックサックを背負いなおした。中途半端に伸びた髪の毛が耳元にかかり、イヤーロブの金色のピアスが、髪の間から時折鋭く煌めいていた。茶色い瞳を縁取る長い睫毛、癖のない鼻梁、横顔の輪郭線、そのどれもが不意に日差しに溶け込みそうな、不思議に脆い印象だった。
 ルカの横顔が、フィネに目も遣らずに尋ねた。
「ヘルメットはどうすんの」
「平気、だってよく考えたらカブトムシだってあんなに小さいのにあんなに高いところから落ちても骨折らないもん」
「いったい何が平気なのか皆目見当がつかないんだけど」
「じゃあルカのヘルメット貸してよ」
「お前どうしたらそんなに堂々と生きられるの?」
 大学はまだ夏休み期間中で、敷地は閑散としていた。駐車場の隅に申し訳なさそうに、ルカのバイクは停められていた。銀色のボディとソーラーパネルが、樹木の葉の間から差し照らす日光の筋を受けて輝いている。フィネは浮足立ってバイクに駆け寄り、荷台に飛び乗った。バイクのタイヤのすぐそばに、蝉が腹を見せて転がっている。ルカはハンドルに掛けていたヘルメットをおもむろに被り、もう一度天を仰いで嘆息した。
「すっごい楽しみ。ねぇどこの海行くの?」
「ここからなら、シバウラが一番近いかな。ていうかさ、スカートでバイク乗る気?」
「仕方ないじゃん、制服がスカートなんだもん」
「そういうことじゃなくて。パンツ見えるぞ」
「残念だろうけどルカには見えないよ」
「俺にじゃねぇよ。通行人にだよ。見たくもねぇよ」
「そっか。待って、体育着履くから」
 フィネは一旦バイクから降り、鞄からハーフパンツを取り出し、その場でスカートの下に重ねて履いた。改めてバイクに跨って、フィネは長い髪の毛を背中へ払いのけた。見ると、ヘルメットの内側でルカがぎょっとしているのがわかった。どうしたの、と首をかしげたフィネに、ルカは三度目のため息をつき、のろのろとバイクのハンドルに手をかけた。
「早く行こうよ、お腹すいた」
「フィネ、恥じらいとか慎みとかないの、お前」
 ルカがバイクに跨ってタッチパネルを操作する。フィネは薄いワイシャツの背中に寄って、ルカの腰につかまった。心地よい振動とともに、バイクはさいごの夏の太陽の中へと滑り出した。





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